論文を書いている関係もあり、最近精神分析の本とか読む機会が増えたようである。そんな中、読んでいると何だか暗くなっていくような本(結構有名な方の書いた本でも)に出会うことがある。それを読んでいくと、自分の生育史を無意識に暗く解釈しがちである。
しかし、自分の生い立ち・・・生育史は本来どういうものなのだろうか。唾棄すべきものなのだろうか、それとも大切にするものだろうか?
今朝は、外出する時結構寒い風が吹いていたので、しっかり防寒対策をしたので殆ど寒くなかった。そして、想ったのだが生育史は自分を守る衣服のようなものだと。この衣服がなければきっと寒さでおかしくなるし、人前に出られない(笑)。
衣服は、自分そのものとは違う。しかし自分の一部となって、保温とか・・・いろいろ機能するのだ。生育史も、同じようなところがある。親とか身近な人の影響は、本来自分がオリジナルではないがあたかも自分が経験したかのように身に着いたりする。そして、生きる上でも実にうまく機能することが多い。生育史は、両親等の身近な人の影響もあるが、その身近な人に影響を与えた人もいる・・・つまり何万年という結構深い文化が隠れているのだ。
生育史を、いろいろ分析していくと、心の防衛機制とか無意識の領域とか・・・いろいろ見えてくることがある。そして、解釈を深めていくと、今に至る自分の軌跡がはっきり俯瞰できてくる。そこにはマジックもない。そして、それをのんびりと眺めていると、不思議な感情がめばえてくる。孫悟空が自分がお釈迦様の手のひらの内にいることを自覚するときに想う何か・・・といったもの。そして、それからがもう一皮かもしれない。最後の一皮には意外ななにかがある。自分の中に未知の奥ノ院が現れる瞬間かもしれない。
玉ねぎの皮むきも眼にしみる辛い作業かもしれないが、最後には明るい何かがでてくる。
昔、こんな標語があった。楽しくなければ〇〇でない。この表現でいけば、楽しくなければ心理学ではない!たぶんそれは真実だろう。ただ、心は壊れやすいので無理はしない方が良い。
縄文からの風④ 4/10