ことしの正月、四ツ谷の母の家に久しぶりに兄弟家族で集まって過ごした。そして、元旦はイグナチオ教会の御ミサにあずかり、まあ、初詣。二日からは箱根駅伝を見たり、U先生が最近解説されている夏目漱石の「三四郎」を読んだり青春時代のことを、いろいろ考えてたり。
そして、昨日の夕方と今日の朝は、富士山の定点観察のために近くの公園周辺に。富士山は今年も私に幸福感をばらまいてくれていた。
そして、大みそかの日没の時に飛行機を観たように、今朝も飛行機がひこうき雲をひいて飛んでいた。
そんな風に飛行機が随分気になったためか、家に戻ると八王子の歌姫、荒井由美さんの『ひこうき雲』をYouTubeで何回か聴いてしまった。この歌はアニメ「風立ちぬ」の主題歌としてとても有名になったが、良く聴くと若くして亡くなった方への挽歌のようだ。しかも、現象学的で魂を感じるような歌詞。正月に、死を想い、そして再生を願ったりしてしまった。
U先生のブログを読みつつ「三四郎」を読んだり、自分の青春時代を想ったりすると、青春時代の何とも言えない不思議さ、神秘さ、危険さを今さらながら感じてしまう。湧き起こる自分の生育史からくる感情。身体が成長し大人になってくることからくる感情。そうした謎(当時としては)の感情に翻弄される青春。高校生のころに「三四郎」を薦められて読んだことがあったが、その時は夏目漱石が言いたかったことのたぶん1%くらいしか理解できなかったと思う。初めの方で、名古屋までの列車の窓から、三四郎が食べた弁当のゴミを衝動的に窓に向かって投げ捨てて(今ではありえないようだが)、気になっている女性にそれがかかってしまう。それからの珍道中の三四郎の惨めさも印象的だが、私も同じようであり、それを客観的に書ける小説家の眼を持つには至らなかったからだ。
青春時代から何十年かたち、こうしてめでたく正月を迎えている私。青春時代ではないが、親しかった知人が亡くなったりした昨年を想うと、やはり心にさざ波が舞い上がる。そうした感情の流れは、今も青春時代も変わらないし、年を老いた母も同じように見える。ただ、ちょっと違うのは何となく残る後悔の処理の仕方かもしれない。
正月は、再生の時。普通であればつながらないものがメルビスの輪のように裏と表が、あの人がいる天国とこの世が祈りの中で繋がる。そして、一年の計を立て前向きに出発することもできる。きっと、あの人も喜んでいるだろう。ありがたいことだ。感情の解釈もいろいろできるのだ。
P.S.
三四郎の中に富士山に関して書いているところがある。熊本から初めて東京に上る三四郎に列車の男が語りかけるところだ。ロンドンで勉強した経験もある漱石の大人の眼(感情転移に対するシニカルな)を感じてしまう。しかし、その解釈はちと暗い。しかし、富士山に対する解釈の一つとして私の備忘録に・・・
「・・・ーあなたは東京がはじめてならまだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」
富士山! 4/10