生まれてから、今日に至るまで、近所、お隣、学校、職場、様々な集まり・・・好きな人も沢山いたが、にがてな人や嫌いなひとも必ずいた。
還暦も近くなり、死を考えたりすると、スキな人に感謝すると同時に、キライ(キライだった)な人にも感謝するようになってくる。キライな人の出会いは、神様のいたずらかと思えるような感じもするが、後から考えると、非常に奥深いものがあるのだ。
キライな人と遠く離れてしまえる環境であれば避けることができるが、それが家族であったり、職場で深い関係があったり、あるいは仕事で接しなければならないとき(お客様であったり)どうするかである。こうした悩みは人類共通、古今東西の悩みでもあるようだ。
単純にどう乗り切るかということも大事であるが、より深いレベルでも人生にとって大事な気がする。回答にはいたらないだろうが、自己実現の3つの問い掛け(①自分は何か?②生き甲斐は何か?③自分を大事にしているか?)に極めて深く関係もしている。
西欧や生き甲斐の心理学でお馴染みの人間観が、まず、こうしたキライな人との付き合い方に第一の扉を開いてくれる。人は、①身体、②成育史からなる心、③魂(死んで、身体から離れる愛そのものの生命体)からなりたつと考えることだ。
キライであるとは、自分の身体か(も)成育史が嫌っている。しかし、魂は、肯定的な生命体なので、相手を愛している。当然相手の魂も愛している。そういうふうに考えるのだ。実際に苦手だった人やキライだった人が好きになった経験があると、納得しやすいようだ。
生き甲斐の心理学の師匠U先生は、フセインとジョージ・ブッシュも魂レベルでは互いに愛しているとたとえて言われたが、この視点は本当に大事である。魂を仏心などに置き換えてもよいが、現代福祉思想や、身近なところでは憲法の基本的人権などの考えに通じる。
そんなふうに大上段に考えなくても、キライな人でも、自分もその人も、何処かでスキあう萌芽がある。そう考えると、世界がちょっと違って見えないだろうか?
体験の解釈を変えると世界が変わる 13/15