ベランダのスミレも可憐な花をつけた。高尾山は菫でも有名であるが、山を登ってふと眼にとまる菫は素敵である。芭蕉の≪山路来てなにやらゆかしすみれ草≫を思い出すが、この句は野ざらし紀行にあり、近畿の要所である逢坂山あたりで読まれたそうだ。
壬申の乱を始め、歴史的にはいろいろあった場所なのだろう。
山を登るのは、何か目的がなければできない辛い行為だろう。私たちも、人生の目的があって初めて、厳しい道のりを歩むものである。ただ、忘れてはいけないのは、スミレ草の存在、今ここでの幸福感というか、そういものの存在である。それを俳句という575の世界で、実に見事に表現している。驚きである。
さて、私もこの一週間は、ホームページ改定作業にかかり、持統天皇や生き甲斐の心理学の勉強に裂く時間がぐっと減ってしまった。当初は、何か気が重く、嫌な作業も我慢しなければと、鞭を振りつつ作業をした。
さらに、途中今までの作業が無駄になる大トラブルもあったが、その後は作業が楽しく、若いころのようにコンピュータに熱中してしまった。新しい技術が沢山使えるようになり、こんなことも、あんなこともできてしまう楽しさからだ。
技術革新は有難たいものだ。30-40年前は、コンピュータはごく一部の人のものであった。しかも、高価なコンピュータの性能は今と比べると、6桁位低い(1000倍とかではない)。それが、還暦まじかの私でも、好きなだけ使えるのだ。
コンピュータ会社に勤めていたころは、誰がコンピュータを使うのか(お金の計算はしたが)ということは余り考えなかったが、辞めて福祉や介護の世界まで知ると、本当に殆ど全ての人がその気があれば使えるようになってきている。
今でも思い出すことに、あるホスピス病棟にお見舞いに行った時、高齢なのにパソコンの得意だったAさんは、楽しそうにベットでパソコンを使われていた。死にいたる直前まで、人と人を繋げるコンピュータの存在は何なんだろうと思った。
ただ、コンピュータ技術のもたらしたことは、世の中を半端でなく変えて来ており、本当に痛みを伴っている。そして、この波はまだしばらく続くのだろう。幼いころの夢を捨て、新しい仕事についたりの世の中なのだ。まるで、厳しい山登りのようだ、しかも目的がはっきりしないように見える苦行もある。
しかし、その中にあってもスミレ草なのだろう。小さな命の中に、誰にも見られることもないかもしれないスミレ。そして、このスミレに出会う中で、愛が生まれるのだろう。
至福に向けての3つの推進力 6/9
壬申の乱を始め、歴史的にはいろいろあった場所なのだろう。
山を登るのは、何か目的がなければできない辛い行為だろう。私たちも、人生の目的があって初めて、厳しい道のりを歩むものである。ただ、忘れてはいけないのは、スミレ草の存在、今ここでの幸福感というか、そういものの存在である。それを俳句という575の世界で、実に見事に表現している。驚きである。
さて、私もこの一週間は、ホームページ改定作業にかかり、持統天皇や生き甲斐の心理学の勉強に裂く時間がぐっと減ってしまった。当初は、何か気が重く、嫌な作業も我慢しなければと、鞭を振りつつ作業をした。
さらに、途中今までの作業が無駄になる大トラブルもあったが、その後は作業が楽しく、若いころのようにコンピュータに熱中してしまった。新しい技術が沢山使えるようになり、こんなことも、あんなこともできてしまう楽しさからだ。
技術革新は有難たいものだ。30-40年前は、コンピュータはごく一部の人のものであった。しかも、高価なコンピュータの性能は今と比べると、6桁位低い(1000倍とかではない)。それが、還暦まじかの私でも、好きなだけ使えるのだ。
コンピュータ会社に勤めていたころは、誰がコンピュータを使うのか(お金の計算はしたが)ということは余り考えなかったが、辞めて福祉や介護の世界まで知ると、本当に殆ど全ての人がその気があれば使えるようになってきている。
今でも思い出すことに、あるホスピス病棟にお見舞いに行った時、高齢なのにパソコンの得意だったAさんは、楽しそうにベットでパソコンを使われていた。死にいたる直前まで、人と人を繋げるコンピュータの存在は何なんだろうと思った。
ただ、コンピュータ技術のもたらしたことは、世の中を半端でなく変えて来ており、本当に痛みを伴っている。そして、この波はまだしばらく続くのだろう。幼いころの夢を捨て、新しい仕事についたりの世の中なのだ。まるで、厳しい山登りのようだ、しかも目的がはっきりしないように見える苦行もある。
しかし、その中にあってもスミレ草なのだろう。小さな命の中に、誰にも見られることもないかもしれないスミレ。そして、このスミレに出会う中で、愛が生まれるのだろう。
至福に向けての3つの推進力 6/9
