私が好きだとか、嫌いというとき、何を意味しているか考えたことは昔は余りありませんでした。しかし、この8年生き甲斐の心理学や心理療法の世界を勉強し、厳密に考える習慣ができてきたようです。
さて、昨日たまたま寄った寺院の狛犬。この狛犬を私は好きと言います。何故好きと言ったか?ちょっとお付き合いください。まず、「狛犬は愛らしくあるべきだ」という哲学・思想の影響から私は好きというかもしれません。次に今湧きおこっている感情をもとに好きと言っているかもしれません。さらに、写真をとったその時の感情を思い出し好きと言っているかもしれません。
また好きという感情も、良く考えると、原初感情といわれる、好き嫌いの感情の意味あいが強いこともあり、もうひとつの重要な原初感情である、怖い怖くないの領域から、好きと言っているかもしれません。同じ人間でありながら、感情も曖昧なことがあります。
ややこしいことを何故言い出したかと思われるかもしれませんが、意外とこの何を意味しているのかが、好きだ嫌いだという人間関係で重要だと最近想うのです。
狛犬の場合、私は「狛犬は愛らしい」という哲学・思想から言ったのではありません。感情を問題にしていました。さらに、感情でも怖い怖くないかと言われると、怖いという感情がありましたが、だから嫌いとはいっていません。好き嫌いという感情から、それも、今ここで湧いている感情から言いました。
私の過去の人間関係を振り返り反省すると、もっと瞬間瞬間に沸き起こる感情を大切にし、その感情の意味を大切にすべきだったと痛感することがあります。失敗の原因として~すべきという哲学・思想に捕らわれたり、過去の感情に捕らわれたりしました。
感情はそれ自体、快不快はあるものの倫理道徳と関係ないと考えます。最近お馴染みになってきたセンサーのように感情を考えると良いかもしれません。感情を行動に繋げる時、様々なことが起こるようです。今湧いている感情。そこから嫌いな人を好きになる旅が始まるかもしれません。
さて写真の狛犬、もともとはライオンだったそうですが、シルクロードでしょうか、遠く異国の地を経て日本に辿りついたときに狛犬になったようです。愛しいけど、ライオンの面影がどこかあるようです。
<愛の訓練、嫌悪2/4>
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