写真には、全てのものが凝縮されています。一枚に起承転結を込め、それに賭ける。
それが生粋の写真家の仕事なのではないかと思います。
だから思い入れのある作品ほど、完成度も高くなることでしょう。
完結しているものには、何処か冷たささえ感じてしまうかもしれません。
そういうものを連続して見てしまうと内容の濃さに酔う事になったり、集中力の欠乏から来る飽きを感じてしまうのでしょうね。
私はさいたま2日目で見た紀里谷さんの映像&SEに関して、彼の意図するところを追うのに精一杯で逆に呆けてしまっていました。
それが間延び感にも繋がり、そんな自分の飲み込みの悪さにも辟易したものです。
ところがそこにHikkiの詩の朗読が入る事で、抵抗無く喉を通ってくれるようになりました。
伝える側と受け取る側の間に上手く入ってきてくれた感じです。
幾分掠れたような、あの乾いた声がいい。
いくら水を与えても決して渇きが癒える事が無い、まるで砂そのものとも言えるような声。
私が初めて詩の朗読を聴いたのは代々木の2日間ででしたが、名古屋公演からさいたま公演までの間に
録り直ししたものではないかという話もあるこの朗読は、映像&SEにもぴったりマッチしていたと思います。
リズムがある。流れもある。
完璧だったものに含みを持たせることで、私達にもその先を考える役割が与えられたというところでしょうね。
それが生粋の写真家の仕事なのではないかと思います。
だから思い入れのある作品ほど、完成度も高くなることでしょう。
完結しているものには、何処か冷たささえ感じてしまうかもしれません。
そういうものを連続して見てしまうと内容の濃さに酔う事になったり、集中力の欠乏から来る飽きを感じてしまうのでしょうね。
私はさいたま2日目で見た紀里谷さんの映像&SEに関して、彼の意図するところを追うのに精一杯で逆に呆けてしまっていました。
それが間延び感にも繋がり、そんな自分の飲み込みの悪さにも辟易したものです。
ところがそこにHikkiの詩の朗読が入る事で、抵抗無く喉を通ってくれるようになりました。
伝える側と受け取る側の間に上手く入ってきてくれた感じです。
幾分掠れたような、あの乾いた声がいい。
いくら水を与えても決して渇きが癒える事が無い、まるで砂そのものとも言えるような声。
私が初めて詩の朗読を聴いたのは代々木の2日間ででしたが、名古屋公演からさいたま公演までの間に
録り直ししたものではないかという話もあるこの朗読は、映像&SEにもぴったりマッチしていたと思います。
リズムがある。流れもある。
完璧だったものに含みを持たせることで、私達にもその先を考える役割が与えられたというところでしょうね。