毎回張り詰めた雰囲気で物語が進んでいったラスト・フレンズだっただけに、最終回の展開には少々拍子抜けしてしまった、というのが私の正直な感想です。何となく釈然としないまま翌週特別編を見たのですが、改めてドラマを振り返ってみてやっと少し飲み込めてきたかなというところです。
最終回で印象的だったのは、瑠可の表情がいつになく穏やかだったこと。脚本家の浅野さんのインタビューによると、タケルが瑠可に姉の事を打ち明け、瑠可がタケルを抱きしめるというシーンについて、本当はもっと男女という色の濃いきわどいシーンに仕上げたかったという旨を話していました。けれど樹里さんの解釈では、そうはならなかった。瑠可が自分の秘密を周囲に明かす前の、まだタケルと2人だけのものであった当時なら或いはそういう流れにもなっていたのかもしれないけれど、自分を隠すことなくありのままでいられるようになった今、ここでそういうリアクションになるのはやっぱり違うんだろうね。あの場で瑠可が呼び起こされたのは、一人の女の子の気持ちというよりも母性だったのかもしれないですね。男でも女でもないという視点で言えば、親心といった方がいいのかな。
最後まで瑠可の一人称が「わたし」だったことにも、強い拘りを感じます。これを変えなかったことで、瑠可が完全には男性に成りきれなかったことが伺えます。どんな人にも男性っぽい面と女性らしい面の両方が持ち合わさっているんじゃないかと思うのですが、それは暗黙の了解とでもいうか、別段口に出すことでもない訳ですが、瑠可としてはそれこそが大きなテーマであった。向かい合うべき、掲げるべきものであったのかな。「わたし」という一人称は男とか女とかの区別の前に、ただ一人の人間がここにあるという事の象徴として使われていたのではないでしょうか。
最後まで瑠可と向き合い、瑠可の心を解放してくれたタケル。気配り上手で穏やかな性格の彼ですが、血の繋がりは無いとはいえ、過去に姉と犯してしまった過ちをずっと引き摺って生きてきました。本来なら安心感を得る筈の人とのコミュニケーションが、彼はそれによって出来ない。特に性的な意味は無くとも、女性に触れられただけで過去のことをフラッシュバックしてしまうのです。
人から虐待を受けてきた犬が人を警戒して身体に触れられるのを怖がるという事がありますが、タケルの反応はそれに近いものがあり、これもまたDVと呼べるものなのかもしれないなと思いました。タケルはもしかしたら、心から笑ったことが無かったかもしれないね。
瑠可とタケルに共通点があるとすれば、二人は男性的な弱さを持っているということかな。対して美知留は非常に女性的で、特有のしなやかさを持つ分強いのです。運命にただ流されるのではなく、上手に泳いでいこうとする逞しさをもう少し描かれていたら、突っ込みどころ満載だったエピソードも納得ずくのものになっていたのかなと思わずにはいられませんが、実際美知留の役どころはかなり難しかったでしょうね。
恋人でも夫婦でも本来なら平等の立場であるべきものを力によって主従関係に陥らせてしまうDVについても、身近ではない人からすれば、ただ有り得ないだけのお話になってしまう。宗佑に一方的に乱暴されながらも彼から離れられない美知留の心情は、特別編まで見ても腑に落ちなかったという方も多いのではないかと思います。
宗佑が無理にでも手に入れたかったのは、人のぬくもり。体温を通して感じる人の温かさであり、自分を包み込んでくれる安心感だったのでしょう。幼い頃充分に母親の愛情を得られずに育った彼は、本当の意味で自立した大人にはなれませんでした。思うままに事が通らないと癇癪を起こす彼の態度はまさに幼子のそれで、主張をすれば相手が必ず自分を見てくれると信じて疑わない。ある意味、ドラマの中で一番純真な心の持ち主だったと言えるでしょう。ただ、実際のDVは鬱病などを伴ったもっと性質の悪いものもあり、中には自分のした行為をすっかり忘れてしまっているというケースもあります。どんな事情があるにせよ、暴力は絶対にいけない。想いはしっかり言葉にして伝えていかなくてはいけないのです。
そしてそれぞれに相手を思いやる中で最終的に出来上がった形が、永遠の三角関係でした。昔、永遠の片想いを追及して出来たドラマS.O.Sを思い出してしまいましたが、人と人の関係というものは思うよりも脆く、そして思ったよりも強いもの。ともすれば、人を個々の点として見立てた形など元から無かったかのように姿を変えていくものです。
ラスト・フレンズで登場人物それぞれを絡み取っていた重く冷たい鎖は、いつの間にか互いをしっかり結びつける赤い糸になっていました。繋がりを足枷にしていたのは、他の誰でもなく実は自分自身であった。自由になる為の鍵は、誰もがハートの真ん中に持っているものなのでしょう。
最終回で印象的だったのは、瑠可の表情がいつになく穏やかだったこと。脚本家の浅野さんのインタビューによると、タケルが瑠可に姉の事を打ち明け、瑠可がタケルを抱きしめるというシーンについて、本当はもっと男女という色の濃いきわどいシーンに仕上げたかったという旨を話していました。けれど樹里さんの解釈では、そうはならなかった。瑠可が自分の秘密を周囲に明かす前の、まだタケルと2人だけのものであった当時なら或いはそういう流れにもなっていたのかもしれないけれど、自分を隠すことなくありのままでいられるようになった今、ここでそういうリアクションになるのはやっぱり違うんだろうね。あの場で瑠可が呼び起こされたのは、一人の女の子の気持ちというよりも母性だったのかもしれないですね。男でも女でもないという視点で言えば、親心といった方がいいのかな。
最後まで瑠可の一人称が「わたし」だったことにも、強い拘りを感じます。これを変えなかったことで、瑠可が完全には男性に成りきれなかったことが伺えます。どんな人にも男性っぽい面と女性らしい面の両方が持ち合わさっているんじゃないかと思うのですが、それは暗黙の了解とでもいうか、別段口に出すことでもない訳ですが、瑠可としてはそれこそが大きなテーマであった。向かい合うべき、掲げるべきものであったのかな。「わたし」という一人称は男とか女とかの区別の前に、ただ一人の人間がここにあるという事の象徴として使われていたのではないでしょうか。
最後まで瑠可と向き合い、瑠可の心を解放してくれたタケル。気配り上手で穏やかな性格の彼ですが、血の繋がりは無いとはいえ、過去に姉と犯してしまった過ちをずっと引き摺って生きてきました。本来なら安心感を得る筈の人とのコミュニケーションが、彼はそれによって出来ない。特に性的な意味は無くとも、女性に触れられただけで過去のことをフラッシュバックしてしまうのです。
人から虐待を受けてきた犬が人を警戒して身体に触れられるのを怖がるという事がありますが、タケルの反応はそれに近いものがあり、これもまたDVと呼べるものなのかもしれないなと思いました。タケルはもしかしたら、心から笑ったことが無かったかもしれないね。
瑠可とタケルに共通点があるとすれば、二人は男性的な弱さを持っているということかな。対して美知留は非常に女性的で、特有のしなやかさを持つ分強いのです。運命にただ流されるのではなく、上手に泳いでいこうとする逞しさをもう少し描かれていたら、突っ込みどころ満載だったエピソードも納得ずくのものになっていたのかなと思わずにはいられませんが、実際美知留の役どころはかなり難しかったでしょうね。
恋人でも夫婦でも本来なら平等の立場であるべきものを力によって主従関係に陥らせてしまうDVについても、身近ではない人からすれば、ただ有り得ないだけのお話になってしまう。宗佑に一方的に乱暴されながらも彼から離れられない美知留の心情は、特別編まで見ても腑に落ちなかったという方も多いのではないかと思います。
宗佑が無理にでも手に入れたかったのは、人のぬくもり。体温を通して感じる人の温かさであり、自分を包み込んでくれる安心感だったのでしょう。幼い頃充分に母親の愛情を得られずに育った彼は、本当の意味で自立した大人にはなれませんでした。思うままに事が通らないと癇癪を起こす彼の態度はまさに幼子のそれで、主張をすれば相手が必ず自分を見てくれると信じて疑わない。ある意味、ドラマの中で一番純真な心の持ち主だったと言えるでしょう。ただ、実際のDVは鬱病などを伴ったもっと性質の悪いものもあり、中には自分のした行為をすっかり忘れてしまっているというケースもあります。どんな事情があるにせよ、暴力は絶対にいけない。想いはしっかり言葉にして伝えていかなくてはいけないのです。
そしてそれぞれに相手を思いやる中で最終的に出来上がった形が、永遠の三角関係でした。昔、永遠の片想いを追及して出来たドラマS.O.Sを思い出してしまいましたが、人と人の関係というものは思うよりも脆く、そして思ったよりも強いもの。ともすれば、人を個々の点として見立てた形など元から無かったかのように姿を変えていくものです。
ラスト・フレンズで登場人物それぞれを絡み取っていた重く冷たい鎖は、いつの間にか互いをしっかり結びつける赤い糸になっていました。繋がりを足枷にしていたのは、他の誰でもなく実は自分自身であった。自由になる為の鍵は、誰もがハートの真ん中に持っているものなのでしょう。