元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

日々の所感を日記のつもりで記録

三木清「人生論ノート」を見たら、いきなり「死について」であった。

2016-12-21 21:53:05 | 読書
三木清「人生論ノート」を見たら、最初はいきなり「死について」であった。

なかなか難しい論説であるけれど、
歳と共に死に対する恐怖が薄れてきたこと。
死は観念でありキリスト教の最後の審判の観念がある欧米と、念仏を唱えれば誰でも天国に行ける日本とでは、死の観念や死の恐怖から生じる思想も違うだろう。
突然やってくる死が一番であり死には無頓着であったモンテーニュは、いつでも死ぬ時は笑って死ねる支那人と同じように幸せである。(本当だろうか?)
などなど、なかなか難しい。

私は坂本龍馬が乙女姉さんに出した手紙の中で、睾丸をネタにしたモノがあり、
「さてもさても、人間の一世はがてんの行かぬは元よりのこと、運の悪いものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。それと比べては私などは運が強く、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うてもまた生きねばならんことになり」

要は死は考えるべきではない。ということを司馬遼太郎さんの「竜馬が行く」で読んだ時に、なるほどそうだと思った。
落語の「死神」の噺のように、人にはそれぞれ運命(寿命)があり、寿命が来れば(運のない人は)、交通事故で死ぬかもしれない。

それからは、死については考えないようにしてきた。それでも飛行機に乗る時などは、死への恐怖でとても怖かったけれど。もちろん自分が死んだ後の、残された家族のことは考えて手は打ってきた。

また医学の発達した現代では、死ももちろん怖いが、死にたくてもなかなか死ねないので、それより老後の生活、寝たきりになった時の生活の方が、よっぽど怖いのではないだろうか。

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