貧乏石好き

つれづれなるままに石をめぐりてよしなきことを

至妙の光=色

2022-03-20 10:27:14 | 漫筆

5つの「下から照明」が楽しくて、いろいろ遊んでおります。
眺めても眺めても飽きない。

まあ、これが一番美しいラインナップかな。

ハニーカルサイト、アメジスト、ゴールデンカルサイト、プレナイト、ディープブルーフローライト。

少し派手な顔ぶれ。

シトリン、モルガナイト、パイロクスマンジャイト、グリーンカルサイト、ブルーアラゴナイト。パイロの凄みがすごい。

派手は疲れるので静かなブルー系を。

中国産フローライト、アフガナイト、ディープブルーフローライト、ブルーアパタイト、ブルーアラゴナイト。
やっぱ写真じゃ写らないなあ。人間の眼の露出調整機能というのはすごいのですな。

しかし、こうやって眺めていると、「ああ、光は色で、色は光なんだな」と思う。(何を言っているのかね?)
あちきらが通常見ている事物は、反射光。色はあるけれど、光としてははなはだ微弱。あちきらは色を見ていると思うけれど、光を見ているとは思っていない。(こまけえよ)
こうやって石を透過してくる光は、色であり光である。色の粋であり、光の粋である。

崇高な天界では、すべてはこのような色の粋、光の粋で満たされていることだろう。
そこでは光=色は、存在の根底であり、実在そのものであるだろう。一つの光=色は、その中に様々な意味を包み込んで、どんな形態存在よりも豊かで崇高であるだろう。
かつて、浄土を夢見た仏徒たちは、そこを金色の世界と見た。平泉の金色堂は、阿弥陀浄土を現前させようとする試みだった。
けれど、崇高な世界が金一色の単調であるわけがない。無限の光=色が、息づき、揺らめき、絡み合い、無限の内容を展開し続けるだろう。
その光=色に較べれば、地上の事物は、鈍重で、淀んでいて、見すぼらしい。絶景であれ、美女であれ、名作絵画であれ、そこに現れている光=色は、地上の鈍重さを免れ得ない。けれど、これら造化の精髄たる石が紡ぎ出す光=色は、かすかに天上の光=色の片鱗を宿しているのではないか。
(どうした、熱でも出たか?)
うん、熱が出たみたいだから、寝る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿