貧乏石好き

つれづれなるままに石をめぐりてよしなきことを

石無関係の私的雑記

2024-04-15 23:59:59 | 漫筆

どうもまずいことになってる。(何だよ、石買いすぎて破産したか)
目が死につつある。(おや)
黄斑ジストロフィー。指定難病。治療法なし。(おやおや)
オジジになったからではない。遺伝子要因の病気で、若くても出る人は出る。出る経緯は不明。若くて出ずに済んだのは幸いだけれど、どうせなら死んでから出てほしかったですな。(そりゃ無理だ)
右目がかなり進んでいて、視野の中心が白っぽく霞んで見えない。左も症状はあるのだけれど今のところ見えている。でもいつまで持つかわからない。おやおや。(自分で言うな出番がなくなる)

見えなくなったらやはり石を愛でるのは無理。触って、というのはえらく限界がある。
エドガー・ケイシーだったかが、「石はよくしゃべる。アイオライトはとりわけおしゃべりである」と言っていたような記憶がある。見えなくても石の声を聞いて、なんていうのはあちきのような零能者には無理だし、石のおしゃべりを聞いて果たして楽しいかどうかは疑問。
石たちともお別れかと思うと淋しいけれど、やがてご臨終が来てお別れするのだから、早いか遅いかの違いだけとも言える。
まあ仕方がない。それも運命。ずいぶんたくさんの色や形や質感を味わった。もって瞑すべし。
もっとも目よりも肉体そのもののほうが先にアボーンするかもしれないしね。へたに見えなくて生きているよりはそのほうがいいようにも思う。

黄斑というのは、視覚の中心部分。網膜の視神経が集まる場所とはずれている。
視神経の集まる場所は「盲点」であって視覚はない。誰でもそれは持っている。見えないのに脳が補正しているから気づかないだけ。
黄ジスはその盲点が拡がっていく感じ。最初は「盲点のところがやけに広いなあ」と思った。そのうち、ものが見えにくく感じるようになり、手元のものの遠近感が取れなくなって、右目の視野中心部分も盲点のようになっていることに気づいた。
近所の目医者に行って、さらに紹介で近隣の大病院に行って、5回ほど検査を重ね、症状が明確に確定して、「治りません」とのご託宣。検査をしなければはっきり言えないのは当然だけど、治療不能を確定するために検査をするというのも何か馬鹿馬鹿しい。

しかしうまくできていますねえ。視神経の集まる場所は「見えない」場所だから、視覚の中心は別に作られている。何と素晴らしい仕組みか。
進化論の「弱点」と言われるものの一つに、「目は完全体としてできる」というのがある。目というのは、レンズがあって、空洞があって、視神経がある、そういう「からくり箱」であって、それが徐々にできていくという「途中の形態」はないし、あったとしても機能しない無駄なもの。つまり「奇跡のからくり」は始めから全体としてできるわけで、そんなことが偶然でありうるのか、というもの。まあほかにもそういう類のものはたくさんあるし、いろいろ理屈をこねくり回して「偶然です」と強弁することもできるし、「偶然じゃなきゃ何なのさ」という難問もあるし、進化というのは人類にとっては永遠の謎として留まり続けるでしょう。(話飛び過ぎ)

現代文明は「視覚の過剰優位」だと言われることがある。古代人だって視覚は重要だっただろうけれど、たとえばお釈迦様の言葉は、「音言葉」が重視されていたインド古代文明では口承が主であって、文字で「仏典」がまとめられたのはかなり後になってからだとか、今でもコーランは読むものではなく素晴らしい音律とともに聞いて心に刻むものだとされているとか、そんな話を聞くと、確かにそうだと思う。
とりわけ現代人は、インターネットを通してものすごい量の情報を瞬時に受け取り続けているわけで、これは少し異常ではないかと思わないでもない。以前、私が師事していた心理臨床の先生は、「文字や映像ばかりで知識を学び、体を使った実体験が少なくなっている子供たちは、現実認識や感情発達においてとても危険な状態にある」と言っておられた。実証的な証明は難しいけれど、正しいのではないかと思う。
それでも文明はそうなってしまった。こうやってネットに書き込んでいるあちきもそれに毒されているのかもしれない。「危険な状態」で育ち、生き続ける人類がどうなっていくのか、それはわからない。
目が悪くなったというのは、「もうそういう文明からは降りなさい」ということなのかもしれない。いや、そもそももう今生はおしまいですよということかな。今の時代は老若男女問わず人が急にばたばたと他界する時代みたいだし。
まあもうしばらくは失明しないだろうから、突然死をしない限り、ぼちぼちと石を愛で、駄文をものし続けることにいたしましょうか。


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