古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

大田南古墳群(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.4)

2017年03月16日 | 実地踏査・古代史旅
 赤坂今井墳丘墓をあとにして次に向かったのが京丹後市の峰山町から弥栄町にまたがる丘陵地にある大田南古墳群。大小の円墳・方墳あわせて総数25基、古墳時代前期の古墳群である。ツアーの事前調査の時点で、全ての古墳が竹野川に面する丘陵の尾根に沿って築かれていることと、この山が採石場になっていてどうやらどこかの業者の私有地であることがわかっていたので、最初から古墳への登頂はあきらめていた。採石場の入口に車を停めて下から尾根を眺め、案内板を撮影することが精一杯の行動となった。

 わざわざ貴重な遺跡を破壊して採石しなくとも他にいくらでも同じような山があるのに、と誰しもが思うところだろうが、違法行為でない限りこの業者に非はない。宅地開発などのために都市部の遺跡が破壊されていくのと同じだ。古代史ファンとしては残念な気持ちがある一方で、現代に生きる人々の生活が優先されるのもやむを得ない、というのが正直な感想である。ただ、行政に対しては「開発」と「保存」という相反する利害を調整する努力をしてもらいたいと強く思う。

 この古墳群にある5号墳からは魏の年号である「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が出たという。この年号は西暦でいうと235年にあたり、邪馬台国の卑弥呼が魏より「親魏倭王」の称号を拝受した景初三年の4年前にあたる。この鏡の同型鏡が大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土している。安満宮山古墳は淀川右岸にある古墳時代初期の方墳(正確には18m×21mの長方形墳)で時期的には大田南古墳群と一致する。古代より丹後と摂津における人的・物的の両面にわたる相互交流があったことが想像される。また、先に見た赤坂今井墳丘墓で摂津の土器片が出ていることと合わせて考えると、この交流は弥生時代後期から行われていたと考えられる。さらに、安満宮山古墳から直線距離で3kmほどのところには継体天皇陵とされる今城塚古墳があり、丹後と継体天皇のつながりまで想像を膨らませると興味深い。

京丹後市弥栄町教育委員会の案内板。


案内板から尾根を見上げる。見上げた先が5号墳あたりか。




 先に赤坂今井墳丘墓が網野町の潟湖から峰山町をつなぐ幹線路わきの尾根の上にあることを確認したが、この古墳群が面する竹野川は河口にあった潟湖と峰山町をつなぐ古代丹後の大動脈であり、その大動脈わきにある尾根の上に古墳群がある状況は赤坂今井墳丘墓と同じである。京都府埋蔵文化財研究センターの肥後弘幸氏は、丹後地域における弥生後期の墓制の特徴として集落から離れた丘陵上に築かれることをあげている。赤坂今井墳丘墓はその代表的なものであるが、この大田南古墳群もその流れを受け継ぐものであろう。現代人が定めた弥生時代と古墳時代の区分に関係なく、時間が区切られることなく連綿と続いていることを教えてくれる。
 さて、この遺跡の名称は「大田南古墳群」であり、案内板にもそう書いてある。しかしネットで検索していると、ここを「大田南墳墓群」と呼ぶ学者もいるようだ。実は赤坂今井墳丘墓を訪ねたときにSさんとちょっとした議論になった。ちょっとデフォルメして会話を復元してみるとこんな感じ。

 「墳丘墓って何?」
 「弥生時代に作られた盛り土をした墓のことです」
 「古墳とどう違うの?」
 「古墳時代に造られたものが古墳で弥生時代のものが墳丘墓です」
 「誰が決めた?」
 「考古学ではそのように定義しています」
 「そんな定義に意味はない。実体は同じものだ」

 実は私もSさんと同じ考えであるのだが、このように定義しておけばわかりやすいのも事実だ。特に弥生時代と古墳時代の境目に近い時期に造られた墓、たとえば赤坂今井墳丘墓と大田南古墳群はその名称から明らかに赤坂今井が先で大田南が後であることがわかる。とはいえ、最近の研究によると弥生時代の始まりがBC300年頃という子供の頃に習った年代からずっと遡ることが明らかになっていて、弥生時代の区分も変わってきている。弥生中期はAD100年頃までだったはずが、最近では100年ほど遡って紀元前後とするのが妥当となっているようだ。そうすると古墳時代の始まりも100年遡らせるべきではないかと考えたくなるのだが、そこはお茶を濁しているように感じる。今のところ3世紀後半から4世紀初め頃が古墳時代の始まりとなっているが、放射性炭素年代測定法や年輪年代測定法の精度が上がるにつれて古墳の築造時期が早くなっていってるようなので、そのうち古墳時代の始まりが2世紀末とか3世紀初頭と定義されるようになって、そうなると赤坂今井墳丘墓は赤坂今井古墳と呼ばれるのかもしれない。そんな状況を見ると「古墳」か「墳丘墓」かの議論はSさんの言うとおり、まったく意味のないものだと思わざるを得ないのだ。

 大田南古墳群はわずか3分ほどの停車時間で観察を終え、次に向かったのが奈具岡遺跡だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤坂今井墳丘墓(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.3)

2017年03月15日 | 実地踏査・古代史旅
 網野銚子山古墳をあとにして3人が向かったのが京丹後市峰山町赤坂にある赤坂今井墳丘墓。府道17号線沿いにある弥生時代後期末の墳丘墓であるが、尾根の先端部を方形に切り出して墳丘を形成しており、見た感じは方墳である。墳丘全体を撮影できる場所がなかったのが残念である。

このあと訪問した丹後古代の里資料館で購入した「丹後王国の世界」から赤坂今井墳丘墓の発掘当時の全景写真。

写真右上(北西部)から墳丘上に登った。

墳丘墓近くに立つ案内板。


案内板に装備された箱(上の写真の右下に写るステンレス製の箱)に入っていた説明資料。

出土した土器、土器片に山陰や北陸など他地域のものが混じっていたことから、広範囲の交流が想定されるという。その中に摂津系の土器片があり、次に訪ねた大田南古墳群で出土した鏡の同型鏡が摂津の安満宮山古墳から出ていることと合わせて考えるとたいへん興味深い。

墳丘の北西部(尾根側、上の写真の右上の部分)から墳丘上へ。


墳丘上へ登ると思っていたよりも高くて見晴らしが良かったが、墳丘は埋め戻されてただの野原。鹿の糞があちこちに。

自作のガイドブックを見ながら何やら言葉を交わすSさんとOさん。

第4埋葬主体から頭飾りが出土。被葬者の頭位に、ガラス製勾玉、ガラス製管玉、碧玉製管玉といった玉類が規則正しく三連に連なり、碧玉製管玉と勾玉からなる耳飾りと共に装着された状態で出土した。使用された玉類は確認できたものでガラス勾玉22点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数える。ガラス管玉の中には古代中国で兵馬俑にも使用されていた顔料「漢青」(ハン=ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていたという。

頭飾りの出土時の状況と復元された姿。(「丹後王国の世界」より)


古代丹後の里資料館でこの頭飾りを見て以降、SさんとOさんはあちこちで青い出土品を見ると「ハンブルー」とつぶやくようになった。

 天然の良港である潟湖の浅茂川湖や銚子山古墳のある網野町と弥生の環濠集落がある峰山町、あるいは古代祭祀跡が見つかった大宮売神社のある大宮町を結ぶラインは現在でも府道17号線や京都丹後鉄道宮豊線が走る幹線路であり、道路も鉄道も丹後半島の反対側の宮津へ抜けている。この幹線路は潟湖で陸揚げされた各地からの交易品を運ぶ主要路であったろう。この幹線路沿い、丹後半島の中央部に近い狭隘な地の高台にある赤坂今井墳丘墓は、丹後半島を往来する交易民の通行を取り仕切って通行料を徴収したり、時には交易品を簒奪するなどしていた王の墓ではないだろうか。この一族はやがて海岸へ進出して港を支配するようなってさらに富を獲得し、銚子山古墳を築くまでになった。弥生の王墓とも言える墳丘墓がこの地にある意味を考えてこんな想像に行きついた。

 3人はこのあと、古墳時代初期の古墳群である大田南古墳群へ向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野銚子山古墳(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.2)

2017年03月14日 | 実地踏査・古代史旅
 3月10日、朝6時半の便で羽田空港を出発、大阪空港で乗り継いで小型プロペラ機で兵庫県豊岡市のコウノトリ但馬空港へ。快晴の大阪空港を出発する直前に、但馬地方が悪天候の為に引き返す場合がある、とのアナウンス。いきなり出鼻を挫かれそうになったが、激しい雨の中を突き抜けて何とか無事に着陸。その後、レンタカーの手続きをしているときに思わぬアクシデント。いつも財布に入れているはずの運転免許証がない。いくら探してもない。そして探しながら思い出した。確定申告の本人確認書類として自宅でコピーを取ったときにそのまま放置してしまっていたのだ。3人の中で最も年下の私はメインドライバーを務める気マンマンであったが、断念せざるを得ず、その役割をOさんに委ねることになった。誠に申し訳ない。これこそ出鼻を挫かれるツアー最大のアクシデントだったかもしれない。

 そして3人はまず京都府京丹後市網野町にある銚子山古墳へ向かった。銚子山古墳は古墳時代前期末から中期初頭にかけての築造で、墳丘は三段築成、全長が198mの日本海最大の前方後円墳である。神明山古墳、蛭子山古墳とともに日本海三大古墳の一つとされる。そしてここでもアクシデント。古墳近くまでやって来たのに「工事中のため迂回せよ」との案内板。案内に従って迂回路へ回るも古墳から遠ざかるばかり。結局もとの道に戻って行けるところまで行こうと強引に進むと古墳の前に出た。たしかに道はそこで行き止まりにされ、その横で発掘作業をやっていた。何を掘っているのか聞いてみると「前方部の終端を探している」との返事。Wikipediaによると「主に前方部側で墓地化・開墾による改変が加えられている」とあり、前方部の終端が確定できていないことが推測される。しかし、終端がわからないのに全長が198mとなっているのは摩訶不思議だ。
 「丹後国竹野郡誌」によると被葬者は、崇神天皇の御代に四道将軍として丹波地方に派遣された丹波道主命、または開化天皇の皇子である日子坐王のいずれかであるとされている。




前方部付近の発掘現場。


Wikipediaにあるとおり、前方部の右側から後円部にかけて墓地が広がっていた。


三段築成がよくわかる。各段のテラス部に円筒埴輪が並んでいたという。


後円部の頂上からの眺め。

この平野部は浅茂川右岸にあたり、古代は潟湖であったと推測される。銚子山古墳は葺石で覆われた墳丘側面をこの潟湖に見せる形になっており、海を渡ってきた渡来人や海洋交易民たちに対する権力の象徴として機能したのではないだろうか。この潟湖は離湖(はなれこ)と呼ぶらしい。


銚子山古墳の陪塚とされる寛平法王陵古墳。小さな円墳と思われるが、墳丘上に祠が建てられている。


銚子山古墳前方部と寛平法王陵古墳の間にある「浦嶋児宅跡伝承地」の碑。

浦嶋児とは浦嶋太郎のことである。浦嶋伝説のある丹後半島には翌日に訪ねる予定の浦嶋神社を始めとして浦島太郎ゆかりの地がたくさんあり、ここもそのひとつ。丹後には徐福伝説もあり、ともに海を舞台にその名を残した徐福と浦島太郎。記紀には似た人物がもう1人登場する。神武東征を導いた塩土老翁(塩椎神)である。これらの人物に関係性があるのか、ないのか。

浦嶋太郎の屋敷跡の横にある「しわ榎」。

浦嶋太郎が玉手箱を開けたときにできた顔の皺を投げつけたという説話にもとづく。老齢化と海の塩分を含んだ風雨の影響で枯れてしまったとのこと。


 日本海三大古墳をじっくり観察した後、次の目的地である赤坂今井墳丘墓へ向かった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹後・出雲 実地踏査ツアー(No.1)

2017年03月13日 | 実地踏査・古代史旅
 丹後半島から出雲にかけての日本海沿岸各地の遺跡・古墳・神社など訪ねる実地踏査ツアーを企画し、つい先週末の2017年3月10~12日の3日間にわたって敢行してきました。メンバーは2013年の纏向遺跡ツアー、昨年の熊野ツアーと同じ古代史研究仲間のSさんとOさん。今回も珍道中となりましたので、そのあたりもあわせて順に紹介したいと思います。まず本日は3日間の行程を紹介します。

●1日目(丹後半島一周)
 コウノトリ但馬空港
 ↓
 網野銚子山古墳
 ↓
 赤坂今井墳丘墓
 ↓
 大田南墳墓群
 ↓
 奈具岡遺跡
 ↓
 ニゴレ古墳
 ↓
 遠所遺跡
 ↓
 丹後古代の里資料館
 ↓
 神名山古墳
 ↓
 浦嶋神社
 ↓
 伊根の舟屋
 ↓
 籠神社・真名井神社
 ↓
 大風呂南墳墓群
 ↓
 天橋立温泉泊

●2日目(丹後から出雲へ)
 天橋立温泉
 ↓
 青谷上寺地遺跡展示館
 ↓
 妻木晩田遺跡(弥生の館 むきばんだ)
 ↓
 菅谷たたら山内(菅谷高殿・鉄の歴史博物館)
 ↓
 熊野大社
 ↓
 玉造温泉泊

●3日目(出雲めぐり)
 玉造温泉
 ↓
 神原神社古墳
 ↓
 加茂岩倉遺跡(加茂岩倉遺跡ガイダンス)
 ↓
 荒神谷遺跡(荒神谷博物館)
 ↓
 西谷墳墓群(出雲弥生の森博物館)
 ↓
 出雲大社・素鵞社
 ↓
 古代出雲歴史博物館
 ↓
 稲佐の浜
 ↓
 出雲空港


 再訪の機会が簡単に作れないだろうとの思いから、3人が訪ねたいところを3日間の行程に詰め込んだために相当な強行軍となりましたが、温泉とカニもセットにした充実ぶり。レンタカーでの走行距離は3日間でおよそ500キロ。免許証を忘れるという私の失態のため、3日間ともドライバー役をお願いしたOさん、ありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

饒速日命と物部氏

2017年03月09日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
しばらく間があいてしまったが「饒速日命」の続きです。まずは前回のおさらいから。

 ・饒速日命は北九州の不弥国の王であり、隣の奴国からの攻勢に耐えかねて不弥国を脱出した
 ・その後、丹後から河内を経由して大和の唐古・鍵に移ってきた
 ・饒速日命の後裔が冬至の日に太陽が昇る三輪山を神奈備として祖先神である大物主神を祀るようになった
 ・崇神天皇のときに大物主神を祀った大田田根子は河内を拠点とする物部一族であった
 ・物部氏は饒速日命の子孫であり、その物部氏が祀る神は大物主神であった

 前回は明示的に表現しなかったが以上を整理すると「饒速日命=大物主神=物部氏の祖先神」ということになる。書紀によると、饒速日命は天磐船に乗って飛びまわり、空から大和を眺めて「虚空見つ日本の国」とつぶやいて天降り、大和を治める王となった。葛城に拠点を設けた神武天皇、纏向に拠点を設けた崇神天皇のいずれにも先駆けて大和の王となったのが饒速日命、すなわち物部氏である。ただし、古事記における饒速日命(邇芸速日命)は神武のあとを追って天降ったことになっているが、これは創作であろう。
 飛鳥時代に蘇我氏との争いに敗れたあと、物部本宗家を継いだのは石上麻呂である。彼は壬申の乱の際に敗れた大友皇子についたことで勢力を落とすことになったが、その後に再び盛り返し、大納言、右大臣、左大臣を歴任した。しかし710年の平城京遷都の際、藤原不比等の策略によって旧都である藤原京の留守役に任じられ、それ以降、物部氏は衰退の一途をたどることになる。このように記紀編纂時にはすでに没落していた物部氏を立てる必要はないはずだが、正史である書紀があえて物部氏が神武よりも先に大和に入ったと記しているのは、それが消せない事実として周知されていたからと考えられるので、古事記よりも書紀の方に信憑性がある。

 そして神武天皇は東征の最終決戦で饒速日命に勝利し、この一族(物部氏)を政権に取り込んだ。記紀共にその後の饒速日命あるいは子である可美真手命について触れることはないが、先代旧事本紀では饒速日命は神武と戦う以前に亡くなったことになっている。いずれにしても饒速日命は死後、後裔の物部氏によって祖先神大物主神として三輪山に祀られるようになったのだ。あるいは大物主神を祀ったのは、制圧した敵方の祟りを恐れた神武王朝であったのかもしれない。

 書紀によると、国造りの終盤に出雲にやってきた大己貴神が「葦原中国は元々荒れ果てていたが私によって従わないものがいなくなった。私以外にこの国を治める者がいようか」と言葉を発したときに、神々しい光が海を照らしてやって来て「もし私がいなければあなたはこの国を平定できなかっただろう」と告げた。この光は大己貴神の幸魂奇魂であり、三輪山(三諸山)に祀られる大三輪神だという。また、古事記では少彦名命(小名毘古那神)が常世国へ去ったあと「私一人でどうやってこの国を造ればいいのだろう。誰か手伝ってくれないだろうか」と大己貴神(大国主神)が言ったとき、海からやってきた光る神が「私を丁重に祀れば一緒に国を造ってあげよう」と応えて「私の魂を大和を取り囲む山々の東の山に祀りなさい」と告げ、この光る神が御諸山の神であるとなっている。
 三輪山をご神体として祀る大神神社の公式サイトによると、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座に少彦名神が鎮まる、とある。中腹の磐座に大己貴神が祀られているのはこの記紀の記述が元になっていると考えられる。麓の磐座の少彦名命も同様だ。つまり、記紀以前は山頂の磐座に大物主神が祀られるのみであった。したがって、書紀にある大三輪神とは大物主神と考えて問題ないだろう。つまり、海上を照らしながら出雲の浜辺にやってきて三輪山に祀られたのが大三輪神、すなわち大物主神であるが、記紀神話において最も早く大和に入った神が大物主神(大己貴神ではない)であるということになる。これは饒速日命が神武よりも先に大和に天降ったことと重なり、このことからも饒速日命=大物主神ということが言えると思う。
 さらに、その大物主神(光る神)が海の向こうから出雲にやってきたとなっていることから、この神は元から出雲にいたわけではなく、海を渡ってやってきたのだ。これは饒速日命が北九州を脱して日本海を航行してきたことを表しているのではないだろうか。先代旧事本紀は饒速日命が高天原から丹後に天降り、河内を経て大和に入ったとある。北九州から丹後へ移る途中で出雲に立ち寄ったのか、それとも丹後に着いたことを記紀は出雲であることにしたのか。魏志倭人伝は邪馬台国までの行程として不弥国のつぎに投馬国を記す。この間、20日間の航海である。私は不弥国を北九州の遠賀川流域、立岩遺跡を中心にした地域に、投馬国を出雲に比定しており、このことから考えると、不弥国を出た饒速日命は次の投馬国(出雲)に立ち寄った可能性が高いと思う。記紀はこの事実を持って饒速日命(大物主神)を出雲の神である大己貴神と一体化させたのではないだろうか。

 書紀の第八段一書(第六)では三輪山に祀られた大三輪神の子として甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫命をあげる。このことから、賀茂氏(鴨氏)、大三輪氏は物部氏の系譜にあることがわかる。なお、この賀茂氏は大田田根子の孫である大鴨積を始祖とする三輪氏に属する氏族のことで、神武東征において八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする賀茂氏とは別の氏族とされている。また、崇神天皇紀にも大物主神の子である大田田根子は三輪君の祖であることが記され、古事記においても意富多多泥古命(大田田根子)は神君(大神氏)、鴨君(賀茂氏)の祖とされていることからも、大三輪氏や賀茂氏は物部氏から分かれて三輪山の神事に関わりのある氏族になったと言えよう。
 さらに、姫蹈鞴五十鈴姫命はその後に神武の妻となっていることから物部氏が天皇家に后を出したことがわかる。后を出すことによって神武王朝に恭順の意思を示すとともに、外戚として勢力を確保し、その後の発展につながった。書紀はその後の物部氏の動きとして、欝色謎命が孝元天皇の后となって開化天皇を産み、伊香色謎命は開化天皇の后となって崇神天皇を産んだ、と記す。また、河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘であることから物部系と考えられる埴安媛もまた孝元天皇の妃となっている。このように物部氏は神武王朝に対して后妃を出すことで勢力を強めていった。
 また、崇神天皇の時には物部連の祖先で開化天皇の叔父にあたる伊香色雄命が神班物者(かみのものあかつひと)に任じられ、物部の民に対して八十平瓮で神に奉るものを作らせた。いずれも物部氏が神事を司る氏族であったことがよくわかる話である。



物部氏の正体 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする