赤坂今井墳丘墓をあとにして次に向かったのが京丹後市の峰山町から弥栄町にまたがる丘陵地にある大田南古墳群。大小の円墳・方墳あわせて総数25基、古墳時代前期の古墳群である。ツアーの事前調査の時点で、全ての古墳が竹野川に面する丘陵の尾根に沿って築かれていることと、この山が採石場になっていてどうやらどこかの業者の私有地であることがわかっていたので、最初から古墳への登頂はあきらめていた。採石場の入口に車を停めて下から尾根を眺め、案内板を撮影することが精一杯の行動となった。
わざわざ貴重な遺跡を破壊して採石しなくとも他にいくらでも同じような山があるのに、と誰しもが思うところだろうが、違法行為でない限りこの業者に非はない。宅地開発などのために都市部の遺跡が破壊されていくのと同じだ。古代史ファンとしては残念な気持ちがある一方で、現代に生きる人々の生活が優先されるのもやむを得ない、というのが正直な感想である。ただ、行政に対しては「開発」と「保存」という相反する利害を調整する努力をしてもらいたいと強く思う。
この古墳群にある5号墳からは魏の年号である「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が出たという。この年号は西暦でいうと235年にあたり、邪馬台国の卑弥呼が魏より「親魏倭王」の称号を拝受した景初三年の4年前にあたる。この鏡の同型鏡が大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土している。安満宮山古墳は淀川右岸にある古墳時代初期の方墳(正確には18m×21mの長方形墳)で時期的には大田南古墳群と一致する。古代より丹後と摂津における人的・物的の両面にわたる相互交流があったことが想像される。また、先に見た赤坂今井墳丘墓で摂津の土器片が出ていることと合わせて考えると、この交流は弥生時代後期から行われていたと考えられる。さらに、安満宮山古墳から直線距離で3kmほどのところには継体天皇陵とされる今城塚古墳があり、丹後と継体天皇のつながりまで想像を膨らませると興味深い。
京丹後市弥栄町教育委員会の案内板。
案内板から尾根を見上げる。見上げた先が5号墳あたりか。
先に赤坂今井墳丘墓が網野町の潟湖から峰山町をつなぐ幹線路わきの尾根の上にあることを確認したが、この古墳群が面する竹野川は河口にあった潟湖と峰山町をつなぐ古代丹後の大動脈であり、その大動脈わきにある尾根の上に古墳群がある状況は赤坂今井墳丘墓と同じである。京都府埋蔵文化財研究センターの肥後弘幸氏は、丹後地域における弥生後期の墓制の特徴として集落から離れた丘陵上に築かれることをあげている。赤坂今井墳丘墓はその代表的なものであるが、この大田南古墳群もその流れを受け継ぐものであろう。現代人が定めた弥生時代と古墳時代の区分に関係なく、時間が区切られることなく連綿と続いていることを教えてくれる。
さて、この遺跡の名称は「大田南古墳群」であり、案内板にもそう書いてある。しかしネットで検索していると、ここを「大田南墳墓群」と呼ぶ学者もいるようだ。実は赤坂今井墳丘墓を訪ねたときにSさんとちょっとした議論になった。ちょっとデフォルメして会話を復元してみるとこんな感じ。
「墳丘墓って何?」
「弥生時代に作られた盛り土をした墓のことです」
「古墳とどう違うの?」
「古墳時代に造られたものが古墳で弥生時代のものが墳丘墓です」
「誰が決めた?」
「考古学ではそのように定義しています」
「そんな定義に意味はない。実体は同じものだ」
実は私もSさんと同じ考えであるのだが、このように定義しておけばわかりやすいのも事実だ。特に弥生時代と古墳時代の境目に近い時期に造られた墓、たとえば赤坂今井墳丘墓と大田南古墳群はその名称から明らかに赤坂今井が先で大田南が後であることがわかる。とはいえ、最近の研究によると弥生時代の始まりがBC300年頃という子供の頃に習った年代からずっと遡ることが明らかになっていて、弥生時代の区分も変わってきている。弥生中期はAD100年頃までだったはずが、最近では100年ほど遡って紀元前後とするのが妥当となっているようだ。そうすると古墳時代の始まりも100年遡らせるべきではないかと考えたくなるのだが、そこはお茶を濁しているように感じる。今のところ3世紀後半から4世紀初め頃が古墳時代の始まりとなっているが、放射性炭素年代測定法や年輪年代測定法の精度が上がるにつれて古墳の築造時期が早くなっていってるようなので、そのうち古墳時代の始まりが2世紀末とか3世紀初頭と定義されるようになって、そうなると赤坂今井墳丘墓は赤坂今井古墳と呼ばれるのかもしれない。そんな状況を見ると「古墳」か「墳丘墓」かの議論はSさんの言うとおり、まったく意味のないものだと思わざるを得ないのだ。
大田南古墳群はわずか3分ほどの停車時間で観察を終え、次に向かったのが奈具岡遺跡だ。
わざわざ貴重な遺跡を破壊して採石しなくとも他にいくらでも同じような山があるのに、と誰しもが思うところだろうが、違法行為でない限りこの業者に非はない。宅地開発などのために都市部の遺跡が破壊されていくのと同じだ。古代史ファンとしては残念な気持ちがある一方で、現代に生きる人々の生活が優先されるのもやむを得ない、というのが正直な感想である。ただ、行政に対しては「開発」と「保存」という相反する利害を調整する努力をしてもらいたいと強く思う。
この古墳群にある5号墳からは魏の年号である「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡が出たという。この年号は西暦でいうと235年にあたり、邪馬台国の卑弥呼が魏より「親魏倭王」の称号を拝受した景初三年の4年前にあたる。この鏡の同型鏡が大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土している。安満宮山古墳は淀川右岸にある古墳時代初期の方墳(正確には18m×21mの長方形墳)で時期的には大田南古墳群と一致する。古代より丹後と摂津における人的・物的の両面にわたる相互交流があったことが想像される。また、先に見た赤坂今井墳丘墓で摂津の土器片が出ていることと合わせて考えると、この交流は弥生時代後期から行われていたと考えられる。さらに、安満宮山古墳から直線距離で3kmほどのところには継体天皇陵とされる今城塚古墳があり、丹後と継体天皇のつながりまで想像を膨らませると興味深い。
京丹後市弥栄町教育委員会の案内板。
案内板から尾根を見上げる。見上げた先が5号墳あたりか。
先に赤坂今井墳丘墓が網野町の潟湖から峰山町をつなぐ幹線路わきの尾根の上にあることを確認したが、この古墳群が面する竹野川は河口にあった潟湖と峰山町をつなぐ古代丹後の大動脈であり、その大動脈わきにある尾根の上に古墳群がある状況は赤坂今井墳丘墓と同じである。京都府埋蔵文化財研究センターの肥後弘幸氏は、丹後地域における弥生後期の墓制の特徴として集落から離れた丘陵上に築かれることをあげている。赤坂今井墳丘墓はその代表的なものであるが、この大田南古墳群もその流れを受け継ぐものであろう。現代人が定めた弥生時代と古墳時代の区分に関係なく、時間が区切られることなく連綿と続いていることを教えてくれる。
さて、この遺跡の名称は「大田南古墳群」であり、案内板にもそう書いてある。しかしネットで検索していると、ここを「大田南墳墓群」と呼ぶ学者もいるようだ。実は赤坂今井墳丘墓を訪ねたときにSさんとちょっとした議論になった。ちょっとデフォルメして会話を復元してみるとこんな感じ。
「墳丘墓って何?」
「弥生時代に作られた盛り土をした墓のことです」
「古墳とどう違うの?」
「古墳時代に造られたものが古墳で弥生時代のものが墳丘墓です」
「誰が決めた?」
「考古学ではそのように定義しています」
「そんな定義に意味はない。実体は同じものだ」
実は私もSさんと同じ考えであるのだが、このように定義しておけばわかりやすいのも事実だ。特に弥生時代と古墳時代の境目に近い時期に造られた墓、たとえば赤坂今井墳丘墓と大田南古墳群はその名称から明らかに赤坂今井が先で大田南が後であることがわかる。とはいえ、最近の研究によると弥生時代の始まりがBC300年頃という子供の頃に習った年代からずっと遡ることが明らかになっていて、弥生時代の区分も変わってきている。弥生中期はAD100年頃までだったはずが、最近では100年ほど遡って紀元前後とするのが妥当となっているようだ。そうすると古墳時代の始まりも100年遡らせるべきではないかと考えたくなるのだが、そこはお茶を濁しているように感じる。今のところ3世紀後半から4世紀初め頃が古墳時代の始まりとなっているが、放射性炭素年代測定法や年輪年代測定法の精度が上がるにつれて古墳の築造時期が早くなっていってるようなので、そのうち古墳時代の始まりが2世紀末とか3世紀初頭と定義されるようになって、そうなると赤坂今井墳丘墓は赤坂今井古墳と呼ばれるのかもしれない。そんな状況を見ると「古墳」か「墳丘墓」かの議論はSさんの言うとおり、まったく意味のないものだと思わざるを得ないのだ。
大田南古墳群はわずか3分ほどの停車時間で観察を終え、次に向かったのが奈具岡遺跡だ。