古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

熊野大社(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.18)

2017年03月30日 | 実地踏査・古代史旅
 鉄の歴史博物館を後ろ髪ひかれる思いで出発。何とか熊野大社を参拝しようと、吉田掛合インターから松江自動車道(無料区間)に乗って次のインターの三刀屋木次で降り、県道24号線から53号線に入って山道を走る。この日は丹後半島からのロングドライブのため、ドライバーOさんはかなり疲れていたと思うが、日暮れの山道も慎重に運転していただいた。山道は暮れるのが早いというのはその通りで熊野大社に到着したときには太陽は沈んで空の色がどんどん濃い灰色に変わっていった。それでも神社は参拝が可能であったので、お賽銭を入れていつも通りに「健康で長生き」をお願いした。

 さて、ここ熊野大社は出雲大社とともに出雲国一之宮であり、主祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」という長ったらしい名前の神様であるが、要するに素戔嗚尊のことである。創建は不明であるが、歴史上の初見は日本書紀の斉明天皇5年(659年)の「出雲國造を厳神の宮をつくらしむ」の記載である。出雲大社との関係が深く、出雲大社宮司の襲職は熊野大社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。以下、Wikipediaより引用する。

 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。

一の鳥居。


二の鳥居。


随神門。大きなしめ縄。


拝殿。ここにも特大のしめ縄。


舞殿。


 ここ熊野大社でも大失敗をやらかしてしまった。実は私がここに来たかった一番の理由が、火継式が行われる鑽火殿を見ることであった。出雲国造家にとっての神聖な場所をこの目で見て出雲大社とのつながりを感じたかったのだ。それが何としたことか、日が暮れてしまう前に到着でき、一度はあきらめた熊野大社参拝が実現できることの喜びの気持ちが勝ってしまい、鑽火殿を拝むことをすっかり失念してしまっていた。またしてもあとの祭り。それに加えて、拝殿右側の舞殿がたいへん立派だったのでこちらの撮影に神経が行ってしまったのも後悔だ。実は拝殿の左側に鑽火殿があったのだ。失念していたとしても、もしもこれが目に留まって入れば思い出したであろうに。かえすがえすも残念だ。悔しい。

 そんなことで熊野大社の参拝を終え、ツアー2日目の予定が終了した。あとは安全運転で玉造温泉にたどり着くのみ。2日目のお宿は長楽園


 源泉かけ流し混浴大露天風呂は日本一という。湯あみ着を着用して入るので混浴でも全く問題はなかった。広々とした露天風呂はいつまでも浸かっていたいと思うほどに気持ちがよかった。

料理も半身の松葉ガニと陶板焼きのステーキがセットになった豪華な夕食。



何から何まで充実のツアー2日目でした。
コメント
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