2016年9月8日(木)、前日の宮崎から空路で福岡へ。春日市にある須玖岡本遺跡へ立ち寄った。須玖岡元遺跡は那珂川と御笠川に挟まれた春日丘陵上の北側半分に位置する弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群であり、那珂川や那の津からの類推とも合わせて魏志倭人伝に記された「奴国」の中心地であろうと推測されている。1986年に国の史跡として指定され、春日市奴国の丘歴史公園として整備されている。また、歴史資料館も隣接し無料で見学ができる。
実際に行ってみると坂道が多くて丘陵上にあるというのがよくわかる。この遺跡は甕棺墓などが多数出土することから墓域であったことは間違いなく、さらに青銅器やガラス器などの工房跡も確認されているのだが、肝心の集落跡が見つかっていない。住居跡がいくつか見られるが墓の数と釣り合わないため、集落は丘を降りた平坦地、川の周辺に設けられたのだろうか。
奴国王の墓石
漢委奴国王の金印を受けたとされる奴国王の数代前の王と考えられている。副葬品として、銅剣2本、銅矛4本、銅戈1個、前漢鏡32面以上、ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上、ガラス勾玉、ガラス管玉などが出土。とくに剣・鏡・玉の3種の神器がまとまって出たことは注目される。また、ガラス璧の出土も珍しく、福岡県前原市の三雲南小路遺跡とこの須玖岡本遺跡の2例だけである。三雲南小路遺跡もまた弥生時代の王墓であり伊都国の遺跡と言われている。
甕棺墓(白いドームの中)
資料館
平日は来館者がないのだろうか、照明や冷房のスイッチを自分で入れて見学。
春日市の遺跡分布
黄色が春日市全体でピンクが遺跡。中央上部のピンク群が須玖岡元遺跡(遺跡群)。春日市は近年の宅地開発の進展により多数の遺跡が出ており、町全体が遺跡の上に乗っかっている状態。
ここが奴国の中心地とすると、例の金印はここではなく、なぜ志賀島で見つかったのだろうか。その形式や記録の曖昧さなどから偽物、贋作という説が絶えない金印であるが、仮に本物だとしても金印授受の事実が記された信頼できる記録が新たに発見されない限り、それを証明することはほぼ不可能だ。それは、もしも卑弥呼の「親魏倭王」の金印がどこかで見つかったとしても同じことになるのだろう。
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実際に行ってみると坂道が多くて丘陵上にあるというのがよくわかる。この遺跡は甕棺墓などが多数出土することから墓域であったことは間違いなく、さらに青銅器やガラス器などの工房跡も確認されているのだが、肝心の集落跡が見つかっていない。住居跡がいくつか見られるが墓の数と釣り合わないため、集落は丘を降りた平坦地、川の周辺に設けられたのだろうか。
奴国王の墓石
漢委奴国王の金印を受けたとされる奴国王の数代前の王と考えられている。副葬品として、銅剣2本、銅矛4本、銅戈1個、前漢鏡32面以上、ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上、ガラス勾玉、ガラス管玉などが出土。とくに剣・鏡・玉の3種の神器がまとまって出たことは注目される。また、ガラス璧の出土も珍しく、福岡県前原市の三雲南小路遺跡とこの須玖岡本遺跡の2例だけである。三雲南小路遺跡もまた弥生時代の王墓であり伊都国の遺跡と言われている。
甕棺墓(白いドームの中)
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平日は来館者がないのだろうか、照明や冷房のスイッチを自分で入れて見学。
春日市の遺跡分布
黄色が春日市全体でピンクが遺跡。中央上部のピンク群が須玖岡元遺跡(遺跡群)。春日市は近年の宅地開発の進展により多数の遺跡が出ており、町全体が遺跡の上に乗っかっている状態。
ここが奴国の中心地とすると、例の金印はここではなく、なぜ志賀島で見つかったのだろうか。その形式や記録の曖昧さなどから偽物、贋作という説が絶えない金印であるが、仮に本物だとしても金印授受の事実が記された信頼できる記録が新たに発見されない限り、それを証明することはほぼ不可能だ。それは、もしも卑弥呼の「親魏倭王」の金印がどこかで見つかったとしても同じことになるのだろう。
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |
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