彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

豊浦高校は長府藩の居館跡

2009年12月24日 00時00分01秒 | 下関各地訪問

関見台公園の麓の石垣を撮影して下の地図の赤いラインに沿って帰ろうと
しました。


進行方向の左側は豊浦高校の塀です。門の名前を見ると、「櫛崎門」と
書かれていました。豊浦高校は長府藩の居館跡に建てられています。
これは江戸時代の門の名前を踏襲しているのかもしれないと思い、撮影しました。


次の門は「四王司門」と書かれていました。


その次の門には「松原門」と書かれていました。


豊浦高校の正門は昔との関連はないようです。古式豊かな門の名前が
注意書きの立て看板に隠れているかもしれないと思い、覗き込みましたが、
何も書いていませんでした。


訪れたのは9月の中旬で、秋の国体の前でした。
昔からスポーツの盛んな学校だったと記憶していますが、今の現役生も
活躍しているようですね。

家に帰り、ホームページ「城下町長府のページ」の中にある古地図を見て
みますと、豊浦高校の敷地内にある池もどうやら昔からあった池のようですね。
古地図には「ヤゲンボリ」とある池と形が似ているような気がします。

それにしてもです。僕達は何も知りませんでした。くじら館のすぐ後に
城跡があることを知りませんでした。豊浦高校が長府藩の居館跡に
建てられていることも知りませんでした。

思えば僕達が育った時代は、まれにみる「歴史を軽んじる」時代だった
ように思います。素朴な左翼歴史観のようなものに支配されていたように
思います。戦前は軍部の横暴で暗い時代だった。江戸時代以前は封建制で
暗い時代だった・・・といった感じで、単純な物差しで過去を切り捨てて
いたように思います。

当時の心ある大人はどうしていたのでしょう。当時の世相の軽みに倦み、
やむなく沈黙していたのでしょうね。

また、鹿児島市における海音寺潮五郎のような人を、下関は生み出して
いないことも、下関人の歴史意識の希薄さに拍車をかけているのでしょう。

by K

最新の画像もっと見る

コメントを投稿