人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

(漢詩)無 題(五)

2011-06-25 13:13:59 | スピリチュアル
日光月光
倶神生命
人間一節
与分生命
者光体


日光も月光も倶に神の生命(いのち)。
人間は神よりの分生命(わけいのち)一節
であり、神よりの分霊(わけみたま)。
人間は光体


 日の光も、月の光も、神とともにある生命
である。
 そのように、神からわかれてきた人はまた、
神よりの分生命であり、分霊であり、人と
いうものは、とこしえの光明体なのだ。

(漢詩)無 題(四)

2011-06-24 12:37:22 | スピリチュアル
天来声者瞬時裡
汝之生命領神懐
不覚地跪声応諾
以来天在我生命
生生現在倒永遠
流投身大宇宙任
安心中在自在為
是人間之極奥義
即光明身其本来
我永遠之生命言
与神即易行之祈
世界人類的和平
神意者愛今降地
我唱神倶人々倶
世界人類的和平
世界人類的和平


(註) よみかたと解説

天来の声は瞬時にうちにとどく
てんらい
汝が生命かみのふところにあずかりしと
覚えず地にひざまずき諾とこたう
                        だく

いらい天にある我がいのち
せいせいとして現在にいたるも永遠の
ながれに身を投げ大宇宙に任せ
安心のうちにありて自在となる
これじんかんの極めん奥義にして
     人   間      きわ

即ち光明身をほんらいとす
我とこしえの生命のことばを
神よりあずかる即ち易行のいのり
                      いぎょう

世界人類が平和でありますように
しんいは愛なれば今ぞ地にくだる
我かみとともに唱え人々とともに唱えん
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように


 天から神の声が一瞬のうちに私の心に
ひびいた。
 「汝の生命は神のふところにある。預かった」
 と。
 思わず私は地にひざまずいて
「どうぞお使いください」
と答えた。
 以来、神のもとに私の生命は
あり、生々(いきいき)として、今に
至ったが、その経過と私の心境を述べれば
永遠者のみふところに抱かれ、大宇宙に
います神に身を任せ、たえざる祈り心と
安心(あんしん)のうちに、何物にも
とらわれぬ自在身となったのである。
 これは、人間がみなやがてその身に
極めてゆく真理であって、人は、光明身を
本来とするものなのである。
 私は、人類がこの光明身に至るための
永遠の生命の言葉を、私の生命を投げ出して
神に任せたとき、易行の世界平和の祈り言を
神から預(あず)からせていただいたのだ。
 神のこころは極みのない人類に対する 愛
である、そのみこころが、今、地に
おろされたのだ。
 私は神とともにこの大愛の祈りを唱え人々
とともに唱えよう。
 世界人類が平和でありますように
 世界人類が平和でありますように

















 

偶々成詩献友

2011-06-23 10:13:02 | スピリチュアル
日月天在人照心
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳


今日は私のつくりました詩を
もとにして祈りということを
考えてみたいと思います


日月天在人照心
人者光為互観自

(じつげつはてんにありてひとのこころを
てらし、ひとはひかりとなりて
かたみに、みずからをかんず)


 日月、太陽も月もですね、それは空にあって
それぞれが光を万物に届かせているわけ
ですけれども、人間のどこを一番照らしているか
というと、それは、心、本心、いのちの
みなもとを照らしている、というんです。
 勿論、からだも照らしますよ、けれど、からだを
照らしながら、その実は、人間の心、おおもとを
てらして、神様の愛を伝えているとこういう
わけです、これは真実なんですよ、事実
そのまんまです。
 で、その光を受けた人間、神様の愛を日月の
光から感じとった人間はどうかというと
ほん然と、本来の自分の姿、光そのものの自分
であることをさとってですね、光明となって
お互いに、その光体光身を、しみじみと
永遠者の前にさながらにみつめるわけです。
 自分の本来をつくづくとながめる
わけですよね、ようございますか?


眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神

(めをはなてばみずはそのながれを
たのしみ、くさきのそよぎにすらかみの
めぐみをさとる)


 第一句が日月は天にありてで、うーんと高い
感じでしょ、それで、おんなじことを、今度は
我々の生きてるこの地上にみてみよう、と
こういうわけですよね。
 眼を地上に移してみると、せせらぎにしても
大河にしてもですね、水というものは、自分が
どんな風に流れようとか、流れたいとか一切
考えない。ねっ。それでいて、おのずからなる
そのながれを、ながれのまんま楽しんでいる。
 任せ切った姿ですね、それでもって悠々と
してる。朗らかでさえある。
 実は、我々を生かしめておりますいのち
というものも、このとおりなのでありまして、その
相(すがた)は、悠々としたものなのであります。
 真理の相の無邪気さ、朗らかさを、わたくしは
ここでうたったつもりです。
 さて、そこで、水の流れの自在なすがたを
受けて、今度は、自然に眼を向けてみました。

草木之戦覚神恵
(くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)

 くさきは、そのそよぎにすらかみのめぐみを
さとる。そよぎですから、それ程の風じゃ
ありません。ありませんけども、自分自身を
ゆらゆらさせる、フラフラさせるものには
ちがいないんです。
 これを、人間世界におきかえると、火事に
なるってことかも知れないし、病気になる、貧乏
になるってことかも知れませんよね。
 とにかく、いいことじゃない。この世で、不幸と
よばれているもののいくつかに襲われる、そういう
ことです。
 けれど、地の上の草木は、突然風が吹いて
きて、踏んばるのがやっとなんていう時にもね
ああ、これは神様が私に働いていて下さるからだ
神様ありがとうございますって、イヤホントですよ。
 私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅう
そういうことを話してるんですもの、で
そういう風に、感謝してしまう。ありがとう
ございますといってね、神様と一体になる。
 いつも、私のいってる消えてゆく姿で
世界平和の祈りそのものですよね。
 神様の愛を受けて、万物は生い育っているんです。
 勿論、その筆頭に人間がくる。そうすると
本当に、素直な、さながらのすがたになるとですね
あらゆることに、いいことに出合っても、また悪い
ことに出合っても、神様ありがとうございますって
いえるようになるんです。それが自然なんです。
 次にいきましょうか?


天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相

(てんちをすべるは、たそというこえを
きけば、ほしはほほえみてあいをちに
なげ、ひとのこころのすがたをかたりて
やまず)


 この天地、あめつちのすべて、すべてを
統(お)さめていらっしゃるのはどなたでしょう
と、問いかけ、これは、人間からの問いかけ
ですよ。問いかけを耳にした星は、にっこりして
人の心の真実の相(すがた)について語り
はじめた、それは、うむことなく語り
つづけられた─という意味です。
 ここでは、人の心というものに主眼を
おいています。
 この天地すべてを治めておられるのはどなた
なんだろう、こういう人間の呟(つぶや)きが
きこえてきた時、星が、地上に投げたものは
愛だったというのです。
 神様という言葉を、ここでは使って
おりませんけれど、愛を投げた、しかも、にっこり
笑って投げたということで、この愛が、神様の
愛だということをあらわしているわけです。
 いつも申しますように、神様という方を、別の
言葉におきかえるとすれば、それは極みのない
愛なのです。徹底した愛なのです。
 その神の愛を地にふりそそいで、そうして
人の心、本心の姿というものについて、うむこと
なく語りつづけたところですね。人の心が
神の愛をあらわす主体であることをここでいいたい
のであります。心をさかのぼれば、本心、本体に
なってゆくのであります。


即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己

(すなわちきかずや、そのじっそうは
かみのあいじにして、こうげんは
うちゅうにきし、えいえんのいのちは
おのれにおうかんす)


 さあききなさい、と、こううながしている
わけですよ。
 人間の心、本心というものの真実、それに人間
というものは、神様のいとし児なんだということね。
 人間っていうのは、神からきて、神に帰るいのち
ですからね。よく帰命(きみょう)帰命って
いうけども、帰命ってのは、これをあらわした
言葉なんです。
 もっというと、神様から分かれてきた人間は
我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
智恵を、持っているわけなんです。本当に
神の子なんです。
 ですから、自分をみがいてみがいて、祈って
祈って、心を澄ませてゆけばね。人智ではない
神智がかがやきとともにあらわれ出るんですよ。
 その神様の光でもって、人間は、いのちを
養ってるんです。その光は、どこまでたずねる
ことが出来るかっていえば、勿論神様ですけど
それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
ことができる、源は宇宙から来てるって
いってるんです。
 そうして、その光の源、いいかえれば、永遠の
いのち、生命はですね、もうすでに、一人の
人間のなかに自由に内包されて、ぐるぐると
まわって、幾万世代にもわたっていのちという
ものの場所になってる。それが、この器である
人間の肉体であり、又、人間それ自身の真性
なんだ。自在ないのちのなかに、人間は
遊んでるんだ。それが、人間の本来の相であり
肉体人間を生かしている直霊、本心の真実の相
なんだとこういうことです。


己満愛世界知足
心天地朗高唱我

(すでにあいにみちたるせかいとしりて
た(足)らい、こころこそてんちとわれは
ほがらかにうたわん)


 こうやって、人間、またこの世界というものの
実相を内観してきますと、もう愛で満ちて
いる。あふれている。
 こういうことがわかってきますと、本当に満足
するんです。嬉しさでいっぱいになってくる。
 そうでしょう?
 そこで、自分自身を生かして下さっている
心─本心ですよね、本心こそ、自由の天地だと
高らかに唱いましょう、というんです。さしずめ
ここは、ベートーベンの歓喜。合唱にあたる
部分ですね。


人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚

(じんかんのむをこえくうを
はなれて、いのりをささげ、おのずから
ひかりをはなつことをもわする。ぼうぼう
くうくうしかれどもきょ(虚)ならず)


 さあそうなってくると、人間という
ものはですね、もう本体だけ、光だけに
なってるんですよ。無とか空を超えちゃって
はなれて本当に自由になって、ただ、神様と
一体になって、祈りをささげている。もう
自分のからだから、すばらしい光が出てる
ということも忘れている。忘れていると
いうよりね、もうそれはどっちでもいいんだ
ということになる。そんなことどっちだって
いいんです、全く我(が)というものをはなれた
輝きにかがやいたそういう人間の本当の姿が
あるんです。それは、ひろびろとしてね、ひろやか
になって、何にもとらわれるものがないという
そういう状態なんで、決して、うつろな、むなしい
状態じゃないと、こういうことですね。
 祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる
それ程に、神様と一体になっていると
そういうことです。


久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河

(くおんのながれにみをまかせて、たいが
となる。たいがしょうがをいだきて
すなわちひとつ。いのちはたいしょに
ひとをはこびゆけば、そのながれは
ゆうゆうとして、たいがのごとし)


 で、こういう私達、すみきわまった人間
というものは、久遠の神様の愛の流れへと
身をまかせて、宇宙そのものになるというんです。
 宇宙というものは、もう何物をも呑み込んで
しまう。とらわれにみちた肉体我といった
ものも、全部抱きとって、宇宙そのものとなった
自分自身があるだけだ、つまりは、限りなく一つ
となるのだ、ということです。 これは、神と
一つということでもありますし、直霊と一つに
なるということもありますが、さらに、宇宙神が
混沌のなかから、愛の気をみたして宇宙を
つくられた、そのおおもとである一に帰る
つまり、いのちに帰るのだということであります。
 いのちというもののはじまりに、祈りは
世界平和の祈りは、こうして、私どもを運んで
ゆくのでありまして、この祈りによって、いのちの
流れのなかに溶け込みますとき、全くその流れが
大河のようにゆったりとおおらかな朗らかな
ものであることを私どもは知るのであります。


神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳

(しんりょはあいにしてじん
みらいざい。やむことなくひとを
ひかりのおくにいこわせん。じざいなる
いのちよ。かんきのこえをてんに
いたらしめ、われひとともに
とこしえなるじゆうしん、をうたわん)


 神様の心というものは、未来永劫、ずっと
愛なんだということですよね、そうして、つねに
一人びとりを、ひかりの家にみちびいて
休ませているということです。
 自在なるいのちよ、これは、自分への
語りかけです。よろこびの声を天に
到らせて、私も、天地の霊人たちも
ともどもに、この朗らかな自由身、自在身の
よろこびをうたおうではないか・・・
 と、ざっといいますと、こういう詩なんです。
 これは、真実の相であって、しかも、我々は
毎日の生活に疲れ果てているけれども
ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈って
ゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。自分自身に
出会うために祈りはあるんです。その自分
というのは、朗らかな神のいのち、大我、宇宙
そのものであるということなのであります。

            昭和62年3月6日 夜

  「偶々成詩献友」の稿 終了

(漢詩)無 題(三)

2011-06-22 09:42:39 | スピリチュアル
風光一瞬神愛顕
一石探黙神智坐
自然一切気之流
人間貫天地宇宙
生命大神活永遠

          昌 久
  昭和61年12月7日



風光は一瞬にして神の愛を顕わし
一石深く黙せば神智そこに坐す
自然一切気の流れ
人間は天地宇宙をつらぬく
生命は大神に活かされて永遠なり



  無題(三)の解説

 風のそよぎ光のながれは瞬時に
神の愛をあらわしている。
 石深く沈黙するとき、(人の心が
そう感じた瞬間)、神の深い智恵が
そこにあらわれる。
 この自然の一切は神の気、愛の気の
流れである。
 この愛の気をうけて、人間というものは
実は天地宇宙にひろがる存在なのだ。
 すべて生命は、宇宙神によって活かされ
つきることなく、それぞれの天命に
ながれ込んでいく。





















































































































































































    

             

(漢詩)無 題(二)

2011-06-21 11:02:51 | スピリチュアル
風水一如月光露
雲谷万里泉之下
遙想真如之道程
月中遠薄暮照道
人間界静想神相


              昌久
  昭和61年10月18日


或畏友為成詩

ふうすい一にょ月光の露
                       つゆ
うんこくばんり泉の下
                    した
はるかに想うしんにょの道程
げっちゅう遠くはくぼの道を照らす
人間界しずかに想う神のすがた


無題(二)の解説

風水一如月光露
風の流れ、水の流れはそのまま永遠のいのちの
真理のすがたを、さながらにあらわしている。
月光に照らされ、光る露のなかにもそのいのちの
ながれは込められているのだ。


雲谷万里泉之下
宇宙神の愛念からもたらされているこの真理(光)は、
肉体界から遠くへだたった黄泉の国で、闇にあえぐ
無明界の人々にも等しくおよんでいる。


遙想真如之道程
天と地、人と神、大宇宙と小宇宙とが一つに
とけあって、みちのりを、私のまなこ(心)は、
はるかに追っている。


月中遠薄暮照道
夕暮刻となった現世では、月の光がずっと
その夕暮のうすぼんやりした情景をやさしく
つつむように道を照らしはじめた。


人間界静想神相
そうこうしているうちに、人間世界では、
一人一人の本心が、静かにおもいめぐらす
夜の刻にさしかかったらしい。