人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

平和な心(後篇)

2011-01-21 12:44:27 | スピリチュアル
 ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、そうして、
不完全な自分ではあるけれども、それを一回お願いしますといって
神様の前に投げ出してしまった時に、神様がよしと引き受けてですね、
引き取ってね、光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
 そうして本当に、その時には心が平和になってくるわけ。

 祈りの根本というのはそうなんですけれども、南無阿弥陀仏にしろ
南無妙法蓮華経にしろですね、主の祈りにしても他の祈りにしても、
皆祈りというものは、そういう奥深いものをもってる訳ですけれども。
 じゃあ南無阿弥陀仏といったって、なかなか今先入観があって、
極楽浄土のことしか浮んで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮んで来ない。じゃあ日蓮宗だけ信じていれば、
他の所は全部駄目なのかというと、そうじゃない。

 人間というのは、神様の生命の分かれですから、皆神の子ですから、
そういうものではない訳なんです。そういう所から見ますとね、
生命の奥の祈りのもっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋
というのは、色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当に
この世に今現代に生きてる我々が、ああそうだなあと納得ができる、
つまり、理論的にも納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起す祈り
としては、世界人類が平和でありますようにという祈りが一番心を
落ち着かせる。静かにさせる祈りである。と私は思う訳ですね。
 この光明心というものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も
浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家になったり
しなくっても、要するに、これをやっていれば菩薩行を
やっている様なことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。

 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げていますけれども、
何時の間にか心が落ち着いていく。何時の間にか心が静かになる。
 そういうことが大事なんです。心を平和にしよう平和にしようと
思って、何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。例えば、
胸がドキドキすると、ドキドキするのを何とか治めなくちゃあと
思うけれども治まらないと、興奮したり緊張したりすると、ますます
顔が赤らんだり心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。平和に
しよう平和にしようと思ってる間は、本当には平和にならないんですね。
 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、すいません、この
ままでよろしくお願いしますと言ってしまいますと、もう神様
というのは、こちらから見てて、もう完全に抱きとって愛して
赦しとってですね、そうして何時の間にか落ち着かせるように、
気持ちを持っていって下さる訳です。

 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、我々の中で
知っているように思うのは、それは感情なんでしてね。肉体人間の
中の我の一番上の部分、氷山の一番見えてる部分しか分からない。心
というものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、本来心の奥は
宇宙につながって、宇宙の奥は神様につながってる訳なんです。
 非常に距離が遠いように思うけれども、キリストが言いますね、
「汝らの内に神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と同じ
生命の流れがあるから、自分の中の神様と話をしようと思ったら、
自然に祈りに入っていけば神様の声が聴こえるというか、神様が
こう望んでいらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行というものは本当の
意味では公平なんだなということが分かって来るんですね。
 あるいは、もっとはっきり言ってしまえば、奥の体というものが
それはもう分かってる訳なんです。  
 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、やっぱり、
それなりの社会的な地位だとか今の立場だとか、結婚してるとか結婚
してないとか、色んな此の世的なとらわれがあります。こだわりも
あります。
 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、そうして、じゃあ
皆同じ様に宗教の道へ入れといったって、それは無理な話だから、その
こだわりはこだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に子供
みたいに祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。

 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに把われて
いると、本当のことというのは分かりにくい。そして、その奥のこと
というのは本当に人間には分からない色々なものがある訳なんです。
 例えば、生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、こんなに
一杯病気持ってる人がという人が、何十年も生きちゃったり、そういう
こともある訳です。
 だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の
大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。公平に使う
ということが大大大奥にはある訳ですけれども、そこまで
いかなくてもね、祈りの階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず
今の私をそのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、続けていく。
 そうすると、いつの間にか平静になって、心が平和になって静かに
なって、自分で力むのでもなく、まわりから色々な援助が来たり、
あるいは、人の為に祈る気持ちが起ったり、親切にする気持ちが
起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。

 心というものは放ったらかしておくと、本当に喜びたがるもの
なんですね。それに、この世の色んな枠なんかで、我々が色メガネで
世間というものをみて、自分の心というものを見てしまいますと、
それはもう我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、心
というのは神様と繋がっているものですから。
 そういう心を我々はいただいて、そして平和に生きるようになってる
ものなんですから、平和にならないという方が、本当は原則から言えば、
普通ではないおかしいんです。
 ですから、本当は私の心は元々平和なんだなと思って、今の不安なり
不満なりをこちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと浄めて
光を送って、そして、後で考えてみたら、あああそこで迷って悩んで
立ち止まって、お金は失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、
とかということが5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
 そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。喜びそうな事言って
五井先生は連れていくというけれども。

 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きることというのは、非常に
辛いことが多い訳です。その中で、世界人類が平和でありますようにと
言ったってですね、自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、そんな気持ちに
なれない人がこの世の中に一杯いる訳なんですよね。そういう時には、
祈れと言ったって祈れませんから、すいません私は今祈れません
よろしくお願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃないけど、
預けて預けきったら、そこでふっと何だか訳の分からない道が開けて
くる、という風に私は言う訳なんです。その時に、預け切って
しまいますと、必ず自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈じゃなくって、何か
心を一滴平和にする様なものがポッとおきる訳です。そこで、
ああそうだ、それじゃあもう任せてしまおうという気持ちになる。
 法然さんとか親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって神様を説いた。
 我々だって、そういう気持ちになって祈りを続けていけば、やって
いけないことはないんです。

 自分がやると思うからとっても大変なんですね。自分は何にも
出来ないです。自分の生命も何もかもこれは借りものなんですから、
いただいてるものなんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。
 足の一本も造って生まれて来た訳じゃない。全部神様からいただいてる
ものです。それで、私はこういう風に生きたいんですとこちらで自分の
人生を設計して、そうして、どうでしょうかと見取図を出す。
 そうすると、神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよ
なんていうことになると、ある計画がストップになったりですね、
こっちで折角何かしようと思ってるのにうまくいかなかったり、そういう
形で現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの方が危ないと
思ってるからストップをかけてる、というのが私には分かる訳ですね。
 ですから、個々色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、
それをひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること
即ち行なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。

 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和でありますように
でなくとも構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、太陽を
拝んで、ああ今日も一日ありがとうございましたと言ったら、その時
その人は光明になっているんです。
 そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きて
いければいい訳なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の
本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、そういう
事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、
これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、その人の世界の
言葉でしゃべる。その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、
そうして、頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時には
私もそばに居ますから。

 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の愛があって、
その大きな神様の愛によって我々は生きているんだということを、
しっかりそこだけを間違わないで、そうして、お浄めでも何でもさせて
いただく様になればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。
 そうして、この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだあの人と喧嘩を
していたっけという様な、そういう心になっていく訳なんです。

 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても出来ない。出来ない
けれども、努めていくとね、何も努力しないでいいというんじゃない、
努力をしていくと、そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか守護神さん
とか私とか、色々あるんですよということを、世界人類が平和で
ありますようにという何の把われもない言葉の中に全部込めて、
語り込んである。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると
心は確かに平和になる訳です。

 色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だという人もいると
思うけれども、しかし、世界人類が平和でありますようにの中に
込められるようなそういうひびきでもって生きていかなければ、今の
世の中、もう光明化していくということは出来ない。
 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃない人達とも
一緒に生きる、共に生きるということを目ざしていく為には、自分の
生命というものを一回神様に返してしまって、預けてしまって、
それから無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みになって、光
というのは出て来る訳なんです。

 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その奥の体でずっと
祈りづめに本当は祈ってるんですけれどもね。肉体がそれをちゃんと
自覚をする為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という
ものがいる訳です。私から見ていると、形というものは全く無意味と
言ったら何ですけれども。
 でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。ね。
 私などが導師になってやる。あるいは村田さんなんかがやる。昌美が
やる。というのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じくして祈る。
 覚えて祈る。ということによって、本心の中にスーッと入っていく、
自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。
 というそこを目指している訳です。ですから、朝夕にその人が
祈りやすい時間でいいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。その人のその立場に
よって祈ってゆけばですね、気持ちというのは段々落ち着いて静かに
なって平和になっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間と
いうのは、実は、我々は個々にいて本当は分かっていないけれども、
宇宙の中の平和の元、根元と一体になってるんだ。

 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、人類全体の中の
一つの一滴の生命であって、そして、人類というものを支えているんだ。
 もっと言えば、宇宙神の御心を支えているんだ。
 そういうつもりで生きていっても構わないんです。ただそれを
あんまり声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心をやっていく人間
なのか、これは字面だけをとりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。

 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人だけの生命じゃない
訳ですね。人は一人では生きられないと言うけれども、何かこう
気持ちが寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと日本に
離れていても、知らない人とある日であうことがあるかもわからない。
 それと同じように、実は我々は霊的には皆知り合いなんですね。この
世の中に生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も会わない人も、
皆知り合いなんです。
 ですから、ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け
静かに働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事をしていると、
それが人類全体のひびきになっていく訳ですね。

 いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、テンサイと
言ったって凡才天才のテンサイじゃないですよ。そうじゃなくて
天変地異ね。大雨や雪などの天気というものね。天気というものは、
今悲しいことに、人間の業によって大水が出たり何だかんだで
浄めなければいけない、そこまで来ている。
 つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の心の空気を汚れ
させている。だから、世界平和の祈りというのは、そういうのを
光明波動でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、とに角
我々一人一人が誠実に自分の持場でずっとやっていると、それが自分
一人だけのことに返って来ないで、そのひびきがずっと全体にまわって
いって、そうして、宇宙そのものからも光明がくる。

さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が花開いていくと
いうのは、これは真実なことなんですね。
 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の身の丈何尺何寸とか
昔いいましたけれどね、今で言えば、160とか170とか、
180センチになったら高い方だとかいいますけれど、人間の大きさと
いうのは本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程大きな
光明体なんですね。
 ですから、本当に深い人を霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、
この家いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって皆がそうなんです。
 皆が光なんです。
 ですから、その光を集めて、そうして何かやったらこれは
すごいことになる訳です。

 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動というのは、世界人類が
平和でありますようにという祈りを国と国も、人と一緒にやる。
 そうすると、その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか
独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで祈る
もんですから、その人の本心と私の本心とがひびき合って、そうして、
そこから愛と平和というものが生まれてくる訳なんです。
 私共の目指している平和というものはそういうものなんでして、そして
それは絵空ごとでも何でもなくて、人間というものを真実に深めて、
じいっと見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい素晴らしい働き
というものが人間の中にはあるんだということね。それは霊肉が
一致してやっていける。

 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるということを目指して
生きた。だから、飢えてそのまま死んじゃったりした人がいますよね。
 お坊さんでもね。本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏のミイラのそばに
いったら、食べたくて食べたくてしようがなくなった人がいる。
 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、一方信仰心で
押さえて死んじゃったもんだから、その食べたいという餓鬼道の餓鬼の
ようなああいう心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、その
人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲がおさまったなんて話が
あるけれども、あれはやはりどこか自然なものじゃないですね。不自然な
ものなんですね。
 人間というのは、霊が非常に大きいからといって皆自殺する訳には
いかない。皆、この肉体をもって辛いことがあっても、家族と
ぶつかろうが何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。それは
何の為かといえば、自分の生命の為なんです。

 自分の生命というのは、明るい朗らかなものなんだから、本当は、
だから、本当に明るい朗らかなものを導き出して、そして、
抱き合う為に我々は何をするかといえば、祈る訳ですね。
 とに角、祈ることによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す訳なんです。その為に
我々は心を合わせて祈る訳なんですね。

 だから、一人だけでポツンと祈ってるようにみえてもね、目に見えない
世界で、誰も会ったこともないような人達の霊体なんかがすっと
あなたのそばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて一緒になって
世界人類がーとやってる。あるいはアーメンとやってる。そういう
ことは、私なんかの目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、皆共に生きてる生命
であって、そして、その生命であるということを確認するんだ、それが
世界人類が平和でありますようにという祈りなんです。

 世界中の人と友達であるかないかなんていうのを確かめる為に、
世界旅行に出るなんてことはできません。それを、霊的にも色んな
意味で、深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
 世界人類がということを口にしただけで、あーと思えるというのは、
本当にあーそうだ、私は世界人類の一人なんだなと、その時には、
国とか民族とか家族とか柵とかというそういう余分なものはもう
取っ払っています。もっと大きな視野に立ったところから自分を
見ています。個を見ています。そうして全体を見ていくものなんですね。
 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きていくんだと
いうことをみますと、ここで平和になるということがそれ程絵空ごと
でもなく、力むでもなく、自然にやっていけるようになるということが
わかると思います。

昭和63年6月13日                                                        五井昌久