私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分
生きている時にあるんですね。それは、話の中に
冗談とかね軽口とか。やっぱり法話というものはね、
わかりやすくやさしい言葉で言って、5つ6つの
子供にも分かるような話し言葉でないと、本当に
深い言葉というものは入っていかない。深い真理
というものも入っていかない。で、こうしなきゃ
ならん、こうした方がいいということは分かって
いてもね、人間というものはそんなに出来る
もんじゃないんです。簡単に出来るのなら、
五井先生はいらないの。釈迦やキリスト、
その人たちでも救いきれない、今のこの世の中の
複雑な色んな要素があるでしょ。釈迦やキリスト
だけでもとうてい駄目というところにもってきて、
深淵な言葉だけじゃね駄目なんです。
だから、本質論も必要だけれども、本質論と
同時に、具体的にやっぱり、寂しいですねえ悲しい
ですねえ、大変ですねえ、本当に大変でしょう
という、そういういたわりの気持ちがないと駄目
なんですよね。それがあって初めて、人を導く
ことも可愛がることも愛することも出来る。
会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。皆
くい入るように話を聞いてくれてね、最初の白光の
人たちは。今の人たちが駄目だというんじゃない
ですよ。本当にくい入るように聞いてくれた
けれども、あんまり深い話をし過ぎるとくたびれ
ちゃってね、みんな。とっても私は出来ないわ
とかね、思っちゃうから。
だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかという位軽口とばして、そうして、
ふーっと気がついたら神様のことを考えていた
という風にもっていく。これ方便なんですね。
で、その時々によって色んな話し方をする。
さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。全然違わない。だけども、
とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を説け
というでしょ。あれと一緒なんですよ。その時々
その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、ねばならぬ
存じます式が通じる時もあるんです。そう
じゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら
逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調も
あるんですよね。どれも五井昌久。どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。そう
じゃなくって、神様が色んな働きをこうやってなさる
ということの証をここでやっているようなもんだね。
そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。そんな無駄なことを神様はやらないと
思いませんか。本当にそうですよ。やっぱり誰かに
聞いて欲しいという気持ちが皆あるでしょ、皆
苦しいから。聞いて欲しいといっても、吸いとり紙の
ようにね、自分というものをさしはさまないで、
深くうなずきながらね、ああそれは大変ですねえって
聞くというのはこれは大変なことよ。実際に。絶対に
自分が出るもの。そんなことはあなた言うけれども、
私の経験によればということになるよね。なる
けれども、そこは本当に難しい。
人に対する時というのはね、私の経験によればと、
それを出しちゃうと相手が悲しむね。60 70 80
生きて来た人がね、私はこう生きて来たと言いたく
なるのもよく分かるけれども、悩んで苦しんで
切羽詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。その人の経験談を聞きに来た訳じゃ
なくって、とに角ただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。軽くして
欲しいんです、まず。医者のね、頭痛がするから
頓服下さいというのと同じなんです。頓服
あげといてね、熱下げて頭痛とって、頭痛とった
後にね、何で頭痛くなったかというの一緒に
考えましょうよというゆとりを、そこから導き
出すんですよ。頭痛とらないでね、説教したって
しょうがないの。だから、ある人は頭痛で来るかも
わからない、ある人はおなかが痛いといってとんで
来るかもわからない。先生、姑が!という人も沢山
いたしね。嫁さんとうまくいきませんという人も
いたしね。どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさいというん
じゃないですよ。そうじゃなくって、どっちもに
対していたわりがないと、人間関係なんて
いうものは本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。
だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。自分を可愛がりすぎる
あまりに、相手が見えないということになっちゃうと
これはあぶないんです。自分自分自分が辛い辛い辛い
と想うとね、その辛い辛い辛いが相手を変に
傷つけたりね。あるいは、こう気持ちをにぶく
させてることがあるんですよ。自分が一番辛いと
想うからね。だけども、自分も辛いけれども本当は
相手も辛い。
ところが、人間というのは不便というか何と
いうかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、いない
でしょ。とってもじゃないけどありませんよ。
だから私が出来たという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。神様に自分の生命というものを
差し上げちゃって、投げ出しちゃって、それで、
どうなとして下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体という
ものを見たから。もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、そう
やって皆さんと話をしたり、今こっちから見たり
聞いたり、祈りを届いたりするのを見ていると、
あるいは感じてるとね、本当に何とかして下さい、
どうにかして下さい、本当に辛い祈りが多い。
だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。その役目を未来永劫五井先生は
引き受けた訳だから、だから、皆さんは安心してね、
五井先生と呼んで下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを聞かせる
なんて、とてもじゃないけど私の気持ちが
ゆるさないとかね。どっかでかっこうつけたりとか、
ありますね。恥ずかしがったりとかね。だけども、
そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。行ってどういう手当てが
出来るか分からないけれども、しかし、最善の
手当てをするわけよ。どういう手当てが出来るか
分からないというのは、皆さんの心に思ってるような
手当てが果たしてこっちが出来るかどうか、
その時期かどうか、よくは分かんないけれども、
しかし、神様の愛というものを携えてこっちが行く
ということは確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。だから、
いつかその悩みとか苦しみとか辛さというものは
消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば消えて
ゆくんだ、五井先生を通して神様の愛というものが
通ってきて、その大愛によって我々の諸々のもの
というのは消えてゆくんだということね。そこさえ
しっかり見ていてもらえば、こっちは本当に
守り易いんですよね。やりやすいんです。
まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね滞らせないように
しておかないとね。これはしんどいですよ。
辛いんです。本当にね。今しんどいという
大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。
あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、
しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さ
という言葉があるけれども、本当に心が疲れて
疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、
ずっと申してますように、本心というものは、
心が疲れているように見えても、本当に疲れを
しらない。疲れを知らないどころか、神様の側から
光というものを受けとってね、そして、あなた方の
中のそういう想いとか悩みとかいうものを軽く軽く
して、光の方へ引っ張ろうとしている。そういう
ものが同時にあなた方の奥に深くにあるのです
からね。
だから、心だけを感情だけを自分だと
思ってしまうと、勘定は払わなければいけない
ですね。勘定払って借金払ってね、そうして、
本心の方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと
降りてゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、エレベーターを
使って降りてくれればいいわけです。それで、
エレベーターでサーッとね神様のところへ行く。
さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。
自分の中の雑念というものはそんなに気にする
必要はありません。出させとけばいいんです。
そういうものもこっち側はもうよく知ってますしね。
前も話したかわからないけれども、法然さんという
偉いお坊さんが、ある信者さんに聞かれたでしょう。
南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥陀仏
と言えば言う程雑念が出てきて困ると。法然さんが
偉い人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、
眠ってもいいいんです。本心のところで霊体は
聞いていますからね。肉体は疲れるから
眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっとして、
絶対にお話だからお祈りだから、まっすぐに背筋を
伸ばしてと、そんなもんじゃないんです。
もっと生命というものはほがらかでね、本当は
障りのないもんでしょ。ひろやかなもんですよ。
だから、そこを目指して我々は祈っていくん
ですからねえ。窮屈になる為に祈るわけじゃない
でしょ。もっともっと自分のたがをはずす。それを
目指して祈るんです。何々をする為に祈るとかね、
そういう風にしてしまうとね、その為にが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、めざしが
嫌いでいわしがいいとかね。生がいいとかいう人も
あるかもしれないけれど、そんなんじゃ
ないんですよ。
神様の御心というものは深くて暖かくって本当は
やわらかい。北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから脱ぎっ放しに
できない、むしろ、どんな風が吹いてもしがみ
ついたでしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ
照ったから、サーッと脱いじゃったね。あれと一緒
なんです。どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方は
もってるわけ、自分の中にね。それを日常の慌しい
中ではね、ここにふるさとがあると思えたって
なかなか思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除をして
もらって、そうして、そのひびきにのって統一して
もらってねえ、もらってというのは、私が
あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。一緒に
祈って、祈りの階段をのぼってもらって、お互いに
神様の大生命の中に入ってゆくんです。その
お手伝いを私がしているんです。だから、安心して
どうぞ私のところへ色々もってきて下すって結構
ですから。
やっぱり人間というものは、そんな窮屈なことを
目指すんじゃない。祈りというものは窮屈なことを
目指すんじゃない。こうしなければならぬという
ものじゃないからね。人間の中の想いの枠を
はずしてゆく。世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に朗らかに
ひろやかに深くね、広々とさせることですよ。
しかし、人間にはそれぞれの立場というものが
あってね、立場によって出てくる言葉って
あるんですよ。私は前に妙好人ということを
言いましたよね。白光に寄ってくる人は特別な人は
来なくていいと言いましたよ。妙好人みたいな人が
集まりゃいいって。それは何も妙好人を理想にした
訳じゃない。けれども、神仏へのあるいは
大生命へのものすごく素直な祈りがあり希求が
ある。そういう人をやはり理想にしたい。他の、
社会的な地位だとか立場だとか、そういうものは
一切いらない。そういうものはむしろ宗教に
とっては本当に雑なものになるんです。やっぱり、
すっきりと生き通しの生命になってゆく為には、
自分の中のそういう雑物をのけてゆく、その為に
祈りがあるわけですから。
ですけれどもね、さっき言いかけましたように
立場があってねえ。例えば、高橋君なんかは、
この人善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、
善人だけがいいわけでもないんです。善人という
ことはいいことだけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直
ということはいいけれども、何でもかんでも言って
しまうということが、その人の人生にとっても
他の人の人生にとっても良いことか悪いことか
といったら、何でもかんでもつつみ隠さず自分の
気持ちを相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれないけれども、
それによって相手が傷つくということもある。
だから、その立場立場によってね、ある時ある人が
善人に見えることもある。ある時ある人がずるく
見える時もある。それは、その人がその人の
生きてきた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか
感じる。その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないといけない訳ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。
我々の目指してゆくところは、そういう色んな
面を持っていても、その生命をさながらに明るく
朗らかにしてゆくということですから、そこへ
向かってゆかなきゃいけないわけですからねえ。
だから、私達はその立場立場によって、見える
感じる想えるということをまず認めた上でね、
その上でさらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやるということ。
降りて行ってやるということね。それが大事
なんです。上からね、あなたこうしなきゃ
いけませんよ、こうすべきですよ、という風に
言ってしまいますとね、それがしたくとも出来ない
という人が沢山いるわけですよ。おもいは一杯ある
けれども弱くって出来ない、ありますよ。だから、
それがいけないと言ってしまうと、もうその人全体を
否定することになる。禁止することになる。おまえが
いけないということになる。
だけど、神様というものは、おまえはいけないは
ないんです。おまえは可愛いけれど、おまえは
駄目だ、おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側からすれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、人間の
我々の目から見ますとね、ああしょうがない
人だなあ、やっかいな人だなあ、こんなつまんない
人がいるかしら、もう色々言ったって何にも
わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る時期、
分かる時期気づく時期、あるいは、傷ついて一歩進む
時期、色々あるわけね。そこで、へたに我々が
裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、この人を
標準にして話をしようとかねえ、そういうことは
言っちゃあいけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。神様という
ものは、無限定な愛なんですよね。その愛という
ものは測り知れない、測るものはないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
その生命というものは、どんなに豊かであることか。
これは分からない程豊かなんですよね。言葉なんか
では言いつくせないでしょう。量とか質の問題
じゃない。存在そのものが愛なんだから、その愛に
抱きとられて、そこから出てきた生命というものが
我々自身だとすれば、我々というのはすごい宝物を
もっていただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、もちきれません
すいませんということは、やっぱりこれは傲慢不遜
になる訳です。いただいたものなんだから、それを
どう使うかは神様の方でお決めになるんだから、
そこですっきりと神様にお任せをしてね、そうして、
どう使っていただくかはわかりませんけれども、
日々私共はつとめてまいりますというつもりで、
世界人類が平和でありますようにとやって
いきますとね、いつの間にか我々を使って下さる
わけですね。我々は、我々も気づかない内に
器になってまいります。その器になるということは
自分を磨くということでもあれば、皆さんに喜びを
分けるということでもあれば、自分の深い本心が
そこで満たされて光になってゆくということでも
ございます。そんなに難しいことでもないけれども、
しかし、不断に祈って、そうして、超越者に任せて
愛の源に任せてやっていくということが
大事だろうと。
その為に、色々申しましたけど、てっとり早いのは、
五井先生と呼ばれれば私はゆく訳ですから。呼んで
下されば、引き出すお手伝いを致しますからね。その
引き出しがいくつあるか、その幅とか量とか
そんなものは神様の方で決めることであって、
皆さんの方で、私量が少ないからなんて、そんな
遠慮することはありません。ただ、そういうものを
引き出すお手伝いを私はしにまいりますので、どんな
時でも構いません。文句たらたら恨みごとたらたら、
色んなものを引き受けます。私はずっと十字架に
かかっておりますから、かかりっ放しですから。
私に全部言って下すって結構です。だけども、
神様の御心というものは、そういう深いところに
あるんだということをねやはり承知なすって、
その上で祈って下すったら、光のエレベーターも
もっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて
ゆくことが出来る。そうして、自己の為にも他己の
為にも、世界人類の為、宇宙人類の為にも
なっていく。そういう世界が、皆さんとともに
築いてまいれることだと思っています。
昭和63年8月26日
生きている時にあるんですね。それは、話の中に
冗談とかね軽口とか。やっぱり法話というものはね、
わかりやすくやさしい言葉で言って、5つ6つの
子供にも分かるような話し言葉でないと、本当に
深い言葉というものは入っていかない。深い真理
というものも入っていかない。で、こうしなきゃ
ならん、こうした方がいいということは分かって
いてもね、人間というものはそんなに出来る
もんじゃないんです。簡単に出来るのなら、
五井先生はいらないの。釈迦やキリスト、
その人たちでも救いきれない、今のこの世の中の
複雑な色んな要素があるでしょ。釈迦やキリスト
だけでもとうてい駄目というところにもってきて、
深淵な言葉だけじゃね駄目なんです。
だから、本質論も必要だけれども、本質論と
同時に、具体的にやっぱり、寂しいですねえ悲しい
ですねえ、大変ですねえ、本当に大変でしょう
という、そういういたわりの気持ちがないと駄目
なんですよね。それがあって初めて、人を導く
ことも可愛がることも愛することも出来る。
会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。皆
くい入るように話を聞いてくれてね、最初の白光の
人たちは。今の人たちが駄目だというんじゃない
ですよ。本当にくい入るように聞いてくれた
けれども、あんまり深い話をし過ぎるとくたびれ
ちゃってね、みんな。とっても私は出来ないわ
とかね、思っちゃうから。
だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかという位軽口とばして、そうして、
ふーっと気がついたら神様のことを考えていた
という風にもっていく。これ方便なんですね。
で、その時々によって色んな話し方をする。
さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。全然違わない。だけども、
とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を説け
というでしょ。あれと一緒なんですよ。その時々
その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、ねばならぬ
存じます式が通じる時もあるんです。そう
じゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら
逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調も
あるんですよね。どれも五井昌久。どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。そう
じゃなくって、神様が色んな働きをこうやってなさる
ということの証をここでやっているようなもんだね。
そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。そんな無駄なことを神様はやらないと
思いませんか。本当にそうですよ。やっぱり誰かに
聞いて欲しいという気持ちが皆あるでしょ、皆
苦しいから。聞いて欲しいといっても、吸いとり紙の
ようにね、自分というものをさしはさまないで、
深くうなずきながらね、ああそれは大変ですねえって
聞くというのはこれは大変なことよ。実際に。絶対に
自分が出るもの。そんなことはあなた言うけれども、
私の経験によればということになるよね。なる
けれども、そこは本当に難しい。
人に対する時というのはね、私の経験によればと、
それを出しちゃうと相手が悲しむね。60 70 80
生きて来た人がね、私はこう生きて来たと言いたく
なるのもよく分かるけれども、悩んで苦しんで
切羽詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。その人の経験談を聞きに来た訳じゃ
なくって、とに角ただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。軽くして
欲しいんです、まず。医者のね、頭痛がするから
頓服下さいというのと同じなんです。頓服
あげといてね、熱下げて頭痛とって、頭痛とった
後にね、何で頭痛くなったかというの一緒に
考えましょうよというゆとりを、そこから導き
出すんですよ。頭痛とらないでね、説教したって
しょうがないの。だから、ある人は頭痛で来るかも
わからない、ある人はおなかが痛いといってとんで
来るかもわからない。先生、姑が!という人も沢山
いたしね。嫁さんとうまくいきませんという人も
いたしね。どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさいというん
じゃないですよ。そうじゃなくって、どっちもに
対していたわりがないと、人間関係なんて
いうものは本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。
だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。自分を可愛がりすぎる
あまりに、相手が見えないということになっちゃうと
これはあぶないんです。自分自分自分が辛い辛い辛い
と想うとね、その辛い辛い辛いが相手を変に
傷つけたりね。あるいは、こう気持ちをにぶく
させてることがあるんですよ。自分が一番辛いと
想うからね。だけども、自分も辛いけれども本当は
相手も辛い。
ところが、人間というのは不便というか何と
いうかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、いない
でしょ。とってもじゃないけどありませんよ。
だから私が出来たという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。神様に自分の生命というものを
差し上げちゃって、投げ出しちゃって、それで、
どうなとして下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体という
ものを見たから。もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、そう
やって皆さんと話をしたり、今こっちから見たり
聞いたり、祈りを届いたりするのを見ていると、
あるいは感じてるとね、本当に何とかして下さい、
どうにかして下さい、本当に辛い祈りが多い。
だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。その役目を未来永劫五井先生は
引き受けた訳だから、だから、皆さんは安心してね、
五井先生と呼んで下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを聞かせる
なんて、とてもじゃないけど私の気持ちが
ゆるさないとかね。どっかでかっこうつけたりとか、
ありますね。恥ずかしがったりとかね。だけども、
そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。行ってどういう手当てが
出来るか分からないけれども、しかし、最善の
手当てをするわけよ。どういう手当てが出来るか
分からないというのは、皆さんの心に思ってるような
手当てが果たしてこっちが出来るかどうか、
その時期かどうか、よくは分かんないけれども、
しかし、神様の愛というものを携えてこっちが行く
ということは確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。だから、
いつかその悩みとか苦しみとか辛さというものは
消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば消えて
ゆくんだ、五井先生を通して神様の愛というものが
通ってきて、その大愛によって我々の諸々のもの
というのは消えてゆくんだということね。そこさえ
しっかり見ていてもらえば、こっちは本当に
守り易いんですよね。やりやすいんです。
まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね滞らせないように
しておかないとね。これはしんどいですよ。
辛いんです。本当にね。今しんどいという
大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。
あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、
しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さ
という言葉があるけれども、本当に心が疲れて
疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、
ずっと申してますように、本心というものは、
心が疲れているように見えても、本当に疲れを
しらない。疲れを知らないどころか、神様の側から
光というものを受けとってね、そして、あなた方の
中のそういう想いとか悩みとかいうものを軽く軽く
して、光の方へ引っ張ろうとしている。そういう
ものが同時にあなた方の奥に深くにあるのです
からね。
だから、心だけを感情だけを自分だと
思ってしまうと、勘定は払わなければいけない
ですね。勘定払って借金払ってね、そうして、
本心の方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと
降りてゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、エレベーターを
使って降りてくれればいいわけです。それで、
エレベーターでサーッとね神様のところへ行く。
さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。
自分の中の雑念というものはそんなに気にする
必要はありません。出させとけばいいんです。
そういうものもこっち側はもうよく知ってますしね。
前も話したかわからないけれども、法然さんという
偉いお坊さんが、ある信者さんに聞かれたでしょう。
南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥陀仏
と言えば言う程雑念が出てきて困ると。法然さんが
偉い人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、
眠ってもいいいんです。本心のところで霊体は
聞いていますからね。肉体は疲れるから
眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっとして、
絶対にお話だからお祈りだから、まっすぐに背筋を
伸ばしてと、そんなもんじゃないんです。
もっと生命というものはほがらかでね、本当は
障りのないもんでしょ。ひろやかなもんですよ。
だから、そこを目指して我々は祈っていくん
ですからねえ。窮屈になる為に祈るわけじゃない
でしょ。もっともっと自分のたがをはずす。それを
目指して祈るんです。何々をする為に祈るとかね、
そういう風にしてしまうとね、その為にが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、めざしが
嫌いでいわしがいいとかね。生がいいとかいう人も
あるかもしれないけれど、そんなんじゃ
ないんですよ。
神様の御心というものは深くて暖かくって本当は
やわらかい。北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから脱ぎっ放しに
できない、むしろ、どんな風が吹いてもしがみ
ついたでしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ
照ったから、サーッと脱いじゃったね。あれと一緒
なんです。どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方は
もってるわけ、自分の中にね。それを日常の慌しい
中ではね、ここにふるさとがあると思えたって
なかなか思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除をして
もらって、そうして、そのひびきにのって統一して
もらってねえ、もらってというのは、私が
あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。一緒に
祈って、祈りの階段をのぼってもらって、お互いに
神様の大生命の中に入ってゆくんです。その
お手伝いを私がしているんです。だから、安心して
どうぞ私のところへ色々もってきて下すって結構
ですから。
やっぱり人間というものは、そんな窮屈なことを
目指すんじゃない。祈りというものは窮屈なことを
目指すんじゃない。こうしなければならぬという
ものじゃないからね。人間の中の想いの枠を
はずしてゆく。世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に朗らかに
ひろやかに深くね、広々とさせることですよ。
しかし、人間にはそれぞれの立場というものが
あってね、立場によって出てくる言葉って
あるんですよ。私は前に妙好人ということを
言いましたよね。白光に寄ってくる人は特別な人は
来なくていいと言いましたよ。妙好人みたいな人が
集まりゃいいって。それは何も妙好人を理想にした
訳じゃない。けれども、神仏へのあるいは
大生命へのものすごく素直な祈りがあり希求が
ある。そういう人をやはり理想にしたい。他の、
社会的な地位だとか立場だとか、そういうものは
一切いらない。そういうものはむしろ宗教に
とっては本当に雑なものになるんです。やっぱり、
すっきりと生き通しの生命になってゆく為には、
自分の中のそういう雑物をのけてゆく、その為に
祈りがあるわけですから。
ですけれどもね、さっき言いかけましたように
立場があってねえ。例えば、高橋君なんかは、
この人善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、
善人だけがいいわけでもないんです。善人という
ことはいいことだけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直
ということはいいけれども、何でもかんでも言って
しまうということが、その人の人生にとっても
他の人の人生にとっても良いことか悪いことか
といったら、何でもかんでもつつみ隠さず自分の
気持ちを相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれないけれども、
それによって相手が傷つくということもある。
だから、その立場立場によってね、ある時ある人が
善人に見えることもある。ある時ある人がずるく
見える時もある。それは、その人がその人の
生きてきた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか
感じる。その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないといけない訳ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。
我々の目指してゆくところは、そういう色んな
面を持っていても、その生命をさながらに明るく
朗らかにしてゆくということですから、そこへ
向かってゆかなきゃいけないわけですからねえ。
だから、私達はその立場立場によって、見える
感じる想えるということをまず認めた上でね、
その上でさらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやるということ。
降りて行ってやるということね。それが大事
なんです。上からね、あなたこうしなきゃ
いけませんよ、こうすべきですよ、という風に
言ってしまいますとね、それがしたくとも出来ない
という人が沢山いるわけですよ。おもいは一杯ある
けれども弱くって出来ない、ありますよ。だから、
それがいけないと言ってしまうと、もうその人全体を
否定することになる。禁止することになる。おまえが
いけないということになる。
だけど、神様というものは、おまえはいけないは
ないんです。おまえは可愛いけれど、おまえは
駄目だ、おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側からすれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、人間の
我々の目から見ますとね、ああしょうがない
人だなあ、やっかいな人だなあ、こんなつまんない
人がいるかしら、もう色々言ったって何にも
わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る時期、
分かる時期気づく時期、あるいは、傷ついて一歩進む
時期、色々あるわけね。そこで、へたに我々が
裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、この人を
標準にして話をしようとかねえ、そういうことは
言っちゃあいけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。神様という
ものは、無限定な愛なんですよね。その愛という
ものは測り知れない、測るものはないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
その生命というものは、どんなに豊かであることか。
これは分からない程豊かなんですよね。言葉なんか
では言いつくせないでしょう。量とか質の問題
じゃない。存在そのものが愛なんだから、その愛に
抱きとられて、そこから出てきた生命というものが
我々自身だとすれば、我々というのはすごい宝物を
もっていただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、もちきれません
すいませんということは、やっぱりこれは傲慢不遜
になる訳です。いただいたものなんだから、それを
どう使うかは神様の方でお決めになるんだから、
そこですっきりと神様にお任せをしてね、そうして、
どう使っていただくかはわかりませんけれども、
日々私共はつとめてまいりますというつもりで、
世界人類が平和でありますようにとやって
いきますとね、いつの間にか我々を使って下さる
わけですね。我々は、我々も気づかない内に
器になってまいります。その器になるということは
自分を磨くということでもあれば、皆さんに喜びを
分けるということでもあれば、自分の深い本心が
そこで満たされて光になってゆくということでも
ございます。そんなに難しいことでもないけれども、
しかし、不断に祈って、そうして、超越者に任せて
愛の源に任せてやっていくということが
大事だろうと。
その為に、色々申しましたけど、てっとり早いのは、
五井先生と呼ばれれば私はゆく訳ですから。呼んで
下されば、引き出すお手伝いを致しますからね。その
引き出しがいくつあるか、その幅とか量とか
そんなものは神様の方で決めることであって、
皆さんの方で、私量が少ないからなんて、そんな
遠慮することはありません。ただ、そういうものを
引き出すお手伝いを私はしにまいりますので、どんな
時でも構いません。文句たらたら恨みごとたらたら、
色んなものを引き受けます。私はずっと十字架に
かかっておりますから、かかりっ放しですから。
私に全部言って下すって結構です。だけども、
神様の御心というものは、そういう深いところに
あるんだということをねやはり承知なすって、
その上で祈って下すったら、光のエレベーターも
もっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて
ゆくことが出来る。そうして、自己の為にも他己の
為にも、世界人類の為、宇宙人類の為にも
なっていく。そういう世界が、皆さんとともに
築いてまいれることだと思っています。
昭和63年8月26日