人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

光にみちた世界

2011-10-09 10:23:59 | スピリチュアル
    〇
光にみちた世界は
何も神殿や
社ばかりではないのです
もっといえば
いたる所に
神様の光は
みちているのです

自分のような人間は
まだまだ
なんて
思うのが
間違いの元
今は
そんな上品な
遠慮が
通る時じゃありません
みんな
神様の分霊 
分生命という
教義は
なぐさめでも
おかざりでも
ありません

みんなが
明るい
神の
いのちに
目覚めて
その
目覚めを
深くすればするほど
光は
増し加わり
強められていくのです
なぜなら
人間は
神様の
光を受けて
生まれた存在なのだから
元々が
明るいんですから

ただ
あんまり
明るすぎて
こんなに 
自分は明るいのかしらと
思わず
あたりをみまわしているのが
今の状況です
世界人類が
平和でありますように
という
祈りを
唱えながらでも
これでいいのかしら
私は明るいのかしら
本当に
明るいのかしらと
思っちゃう
こっちからみてると
もうどうしようもないなあと
思うほどだし
笑ってしまうけれど
みんな
明るいんです
五井先生が
保障します

私には
何がみえているかと
いうと
みなさんの
肉体の奥の
奥の奥の
光りかがやいている
さながらの
生命がみえてるんです
くらいくらい
想念や
業といった
幽界の世界じゃない
幽・霊・神界を
突き抜けて
どこまでも
明るい
さながらの
ほがらかな
生命が
みなさん
一人一人の
天命が
みえているんです

だから
五井先生
病気です
子どもが死にそうです
家の中が
引っくり返って
いますと
泣きながら
きてもね
そこで感情を
動かされないんじゃない
十分
みんな
大変だと
思うし
かわいそうだと
私の個性
神様が
守護の
神霊が
のこしてくれた
人間
五井昌久の
心は
おもうけれど
本心本体の
ずっと
神界に
つながって
いる
私自身は
奥の奥の
みんなの
天命を
一瞬に
して
みているし

みせられるんです

いのちというもの
いのちを
支えている
人間の
天命
神様から
与えられた
天命というものは
ずっとずっと
宇宙神の
みこころの
大奥の
奥底にまで
つらなっている
ものなのです
それを
私は
みているんです

だから
この世の中での
或る
一人の個人を
いやす
かしわ手を
打っているようでいて
実は
その人の
何十生
何百生
何千生後の
みちすじを
ばーっとみて
それで
その道筋は
誤りなく
保つことができるように
守護の
神霊が
その人の
魂を
みちびきやすいように
とりあえず

とりのぞいておいた方がいいものを
のぞくわけです

けれども
のぞくといったって
それが
その人の
願い通りの
ものを
とりのぞくとは
かぎらないんです
あくまでも
この世も
あの世もなく
ひとつづきに
ずーっと
つづいてゆく
いのちというもの
その人のその人らしさと
いうものが
真実に
発揮できるように
そのために 
のぞくわけなんで
今の今
とりのぞいてほしいと
思うものと
神様側で
とりのぞくものとは
ちがうんです

しかし
それじゃあ
人間の
現在の
苦しみを
かえりみないと
いうことになって
神様というのは
何て
不公平だというと
それは
やっぱり
ちがうんです
どう
ちがうかと
いいますとね
そこに祈りが
与えられている
これで
不公平じゃないんです

いつも
私が
申しますように
祈りというのは
光のはしごなんです
世界人類が平和でありますように
という
祈りの
エレベーターにのれば
そのまま
辛いまま
悲しいまま
肉体がいくら
辛がっていても
かなしがっていても
そのまま
光にみちる 
そういう
光の
エレベーターである
祈りを
私は
神様との
約束事で
いただいたんです
これは
私達みんなの
人類すべての
祈りです

誰をも
痛めず
誰をも
傷つけない
自己も
他己も
自分の心も
他人の心も
本心の奥の奥まで
てらして
そのままに
光にみちさせ
その人の肉体が
意識していようが
いまいが
光の世界に
つなげてゆく
祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
聖者といわれる
人々が
説いた
祈りには
みなこの
力がこもっています
だから
どこから入っても
いいんですけれども
しかし
私が
神様から
いただいた
世界平和の祈りは 
この力の
源みたいな祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
みんな
救世の
大光明が
かがやきわたっているのですが
世界平和の祈りは
さらに
救世の大光明の
本体そのものから
光を 
放射される
そういう
光の
本尊みたいな
祈りなんです
だから

この祈りを
してゆく内に
知らず知らずの
間に
みんなの心が
平和になり
平安に
なってくる
肉体ばかりではなく
霊体
神体まで
光がみちてゆくのです
そういうすごい力を
持った
祈りというものを
神様が
人間に
与えて下さっているのです
だから
何にも
心配することは
ないのです

もっと
いうと
みんな
厚かましく
五井先生に
荷物を
預けなきゃあ
みんな
遠慮して
こんなことを
五井先生に
頼んじゃわるい
こんな泣きごとを
ならべては
申しわけないと
思っちゃう
何が申しわけないんですか
預けて
任せて
スッキリした
いのちに
ならない方が
よっぽど
神様に
申しわけないんですよ

神様の 
前に
はだかになる
はだかの心で
祈るというのは
神様に
恥をさらす
ことじゃありません
人間の
おもいでは
はずかしいとか
何とか
あっても
そういう
色々なものが
まざっているのが
肉体人間の
おもいであり
おもいぐせなんですから
だから
それを
自分一人で
解決しようなんて
思うと
とんでもなくくるしいんです

そのまま一度
すっきりと
神様に返してしまう
返してしまって
もう一度
いのちの
明るい
朗らかな
光をいただく
自分の中に
かがやいている
天命に
気付いてゆく
天命の存在に
気付いてゆく
それが
日々の
新生ということであり
いただきなおす
生生
という
ことなの
です
そのことに
気付けば
おのずから
生命は
光に
みちるのです

あなた方の
生まれる以前から
守護の神霊は
あなた方の
いのちが
光にみちた
もので
あることを
知らせるために
あらゆる
手段を
使ってきて
そうして 
祈りの座に
あなた方を
みちびいてきたのです

この
守護霊
守護神
そうして
神様の愛を
おもうとき
私達は
自然に
暗い所から
明るい所へ
すなわち
闇から
光へと
場所を移され
いのちが
本来
その
かがやきを
放っている
世界
本心
本体
真実の
人間が
活きづいている
自由の
天地へと
永遠の住み家に
案内され
移されるのです

人間のいのちが
どんなに
自由で
明るく
無邪気な
神への愛と
人への愛に
みちたものであるか
この一点を
示されるために
神様は
五井昌久という
働きの
場所を
お使い下さったのです 

決して
私がとびぬけていた
わけではありません
私が
特別
とびぬけた
すぐれた人間で
あったわけではないのです
ただ
私は
どんな時にも
神様に
素直だった
神様の
前に
いのちを
投げ出して
完き
よろこびに
あふれこそすれ
それを
一度も
後悔したことのない
人間だった
ただ
それだけなのです
そして
これは
こういうことは
私一人に
おきることではないのです

実は
人間の
真性は
本来そういう
すなおな
光にみちた
ものなのです

人間というものを
考えるときに
みんな
どうしても
この
肉体界の
目に
みえる
範囲の
なかで
片づけて 
しまう

元々
肉体界と
いうところは
波動の
あらい
ところだし
肉体人間は
この眼で
たしかめられる
ものに
安心して
そこに
すがって
生きてきた
それが
ならい性なのです

けれど
それが
人間の
すべてではない
目にみえる世界
などという
せまい世界が
人間の
本来の
場所ではないんです

人間は
自由の天地の
住人です
神の
分生命
分霊として
縦横無尽に
神の光と
人にやどった
分生命
分霊としての
光を
交叉させて
働き
活きづいてゆく
その天地を
一人一人が
からだの
奥に持っている
そういう
存在なのです

神界は
あなた方の
なかにあるのです
一人として
神界の
住人でない
人はいないのです

みんな
神様の働き手
神様は
公平な
やとい主
みんなの個性を
みんなのいのちを
明るくして
明るく使って
自在な
天地を
つくって
ゆかれるのです

天地は自分自身
神は
あなた方の
なかに
住んで
光を
たえまなく
送っているのです

人間は
伸縮自在
どこにでも
誰のもとにでも
おもいを
とばしてゆける
だから
そのおもいを
すませれば
それは
祈りになり
光そのものに
なって
我々の心を
まわりを
この地球を
宇宙を
みたしてゆくのです

世界人類が
平和でありますように
という
祈り一念
その祈りのなかに
肉の身のかなしみ
この世での
やり切れなさも
すべて
放り込んで
ゆけば
光一元の
世界へと
みちびかれてゆくのです

我々が
やるんじゃない 
一人の
人間の
力はよわい
けれども
この肉体人間を
愛して愛して
愛し抜き
肉体人間の
奥の
天命を
いとしんで
やまぬ
宇宙神の
愛と智恵の心は
それぞれの
守護の
神霊を
動かさずには
おかない
力を
もっています

それは
まさに
きわみのない
愛であり
ゆるしの世界です
この世的な
おもわくや
利害などというものを
一切浄め切って
全く本来の
人間のすがたを
あらわさずにはおかない
神の愛なのです

よわい
人間には
かぎりがある
といったのは
肉体にとじこめられた
我々の
肉体世界で
おのずから
受ける
制約と
いおうか
限界を
さしているのです
けれども
決して
人間が
さながらに
持っている
ほがらかないのちを
指しているのではありません

おもいというものが
この肉体界に
渦まいて
いつか
とらわれとなり
業となり
それを放って
真実の
人間に
かえすために
神が私をつかわされたと
いうのは
度々
申し上げた
とおりです

おもいが
つくる世界には
限りがあるが
おもいを解き放った
真実
自由な
世界には
全く 
枠も
へだても
ありません
ただ
光かがやいて
いるばかりなのです

人間というものは
永遠の進化
こうした 
神様の
愛と
真理に
とけこむ
いのりとなるための
進化を
ずっとずっと
なしつづけてゆくものなのです
霊界も 
神界も
何百
何千という
向こうの
世界の
修行場も
そのために
存在している場所なのです

真実に
人間が
自由になること
つまり
神様の 
愛と光が
この地上に
そして
宇宙に
みちあふれて
大調和
という
大神様の
永遠の
いのちの 
ながれと
一体になること
その進化の
はじまりが

この時なのです 
みんな
こうした
人間本来の
相(すがた)をあらわし
すがたにかえる
時なのです
中心に
帰一し
老子のいう
無為のいのちに
遊ぶ
そのときなのです

祈りは

そうして

光は
我々とともにあり
光は
神様の
愛を
放射して
我々のいのち
をはげまし
久遠の
ながれへと
みちびいてゆくのであります
        昭和62年1月30日