ひからびん通信

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龍馬暗殺の実行犯と首謀者の検証(2)

2010年10月27日 | 歴史
 坂本龍馬と中岡慎太郎は,1967年11月15日,京都河原町近江屋新新助宅2階の母屋において,刺客により暗殺されているが,前回の検証により,実行犯は,佐々木只三郎,今井信郎,渡辺篤ら京都見廻組隊士であることはすでに明らかにした。
 
 では,見廻組隊士佐々木只三郎ら刺客は,龍馬の潜伏先をどのようにして突き止めたのか,そして見廻り組の刺客を裏で操っていた黒幕は誰かが問題になるが,それは今も諸説紛々の状況にあるところ,最近注目すべき見解が登場してきた。
 
 これは日本史家磯田道史によるものだが,福井藩士中根雪江の日記「丁仰日記」には龍馬暗殺時の政治状況が詳しく明らかにされている。
 中根は福井藩の政治工作を担当するものであり,京で多くの要人とあって情報を収集し,その際の状況を詳しく日記に書き記していた。

 中根は,幕府高官の永井尚志(玄蕃)と頻繁に会って会って交渉しているが,この永井が龍馬暗殺の検証をする上で重要な人物となる。
 
 大政奉還は,1967年10月14日に行われるが,その後龍馬の暗殺される同年11月15日までの政治状況が龍馬の死の行方を決定付けたようだ。
 そのころの政局は,大政奉還の賛否が中心となっていて,11月10日,中根は徳川慶喜の側近老中板倉勝静と面会するが,その際板倉は大政奉還を悔しがり,それを中根が諌めている。
 また翌11日には過激な幕府復権論を起きていることを知る。幕府奥祐筆の渋沢誠一郎は,「徳川御三家と親藩大名の兵力を合わせれば政権の取り戻しも有る」旨主張し,尾張藩などに出兵を要請していた。
 一方薩摩もこれに対抗して約2000の兵を京に入れ始めていた。

 このような情勢の変化に動揺した中根は,薩摩の情報を得るため,薩摩藩士吉井幸輔と面会するが,その際,吉井は,「老中板倉らが政権奪還を企てているようだが,そうなったら戦乱である。早く新政府の大綱領を作ってこれに背く者を討って取る外ない。明15日には小松帯脇刀が土佐の後藤像二郎と同伴してこちらに着くはず。」などとと言っている。
 そして11月中旬ころ,薩摩と土佐の共同作戦があり,龍馬は,その暗殺される直前ころ,新政府樹立に向けた大綱領を書いていた。 

 したがって,薩土の動きを封じるためには,幕府復権派としては何としてでも龍馬を早く葬り去らなければならなかった。

 そして中根は,15日,永井邸で会津藩士小野権之丞と居合わせ,改めて会津の幕府復権論の強さを知るに至るが,その夜,龍馬は中岡とともに暗殺される。

 龍馬暗殺直前の政治情勢を踏まえると,大政奉還後の幕府復権論に立脚した会津藩が,龍馬の暗殺を首謀し,松平容保らに指示された佐々木只三郎ら京都見廻り組が実行行為に及んだものと考えるのが説得的である。

 なお,龍馬は,暗殺される直前,「俺は永井玄蕃と松平容保と会った。今は何も心配することなし安心せよ。だから殺される心配はない。」などと周囲に語っていたということであるが,そうであれば龍馬の所在は容易に会津側に知るところとなっていたはずである。
 
 大政奉還後の政治状況が,必ずしも武力による倒幕一辺倒ではなく,倒幕派と幕府復権派のせめぎ合いに中にあって,その中で龍馬の暗殺を位置づけることができるとすると,龍馬暗殺の悲劇は,あまりにも猜疑心に欠け脇の甘かった龍馬が,自ら招いてしまった破局でもあったような気がしてならない。
 
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