フランスでは女性の活躍が目立っています。DSKの後任としてIMF専務理事のポストにつきそうなのは、ラガルド経済・財務・産業大臣(Christine Lagarde)ですし、大震災の後、サルコジ大統領とともにやって来た原子力複合企業アレバ(Areva)のCEOはアンヌ・ローヴェルジョン(Anne Lauvergeon)、フランスの経団連、MEDEF(Mouvement des entreprises de France)の会長はロランス・パリゾ(Laurance Parisot)と、いずれも女性。また日本人を黄色いアリ(fourmis jaunes)呼ばわりしたエディット・クレソン(Edith Cresson)がすでに女性首相になっています(在任期間は、1991年5月~1992年4月)。
ですから、さすが女性に優しい、白馬に乗った王子様の住む国フランス、と思えそうなのですが、どうも実際は違うようです。
“L’affaire DSK”(ドミニク・ストロス=カン事件)以降、あからさまな女性蔑視的発言が、それも政治家など影響力のある人たちから、発せられています。もちろん、発しているのは男性・・・男性が女性を見下している。
例えば、『小間使いの日記』(“Le Journal d’une femme de chambre”)。オクターヴ・ミラボー(Octave Mirabeau)作の小説(1900年刊)ですが、過去にジャン・ルノワールやルイス・ブニュエルなどによって映画化されています。この作品にあるように、小間使いは「性」も含めて主の所有物。19世紀末においても、こうした状況だったようです。だからこそ、DSKの事件がアメリカではなくフランスで起きていれば、大した問題にならなかったのに、と言われるわけです。しかも、この作品のタイトルにある“femme de chambre”、小間使いだけでなく、ホテルの客室係にも使われるフランス語ですから、DSKがフランス系ホテルで思わずフランス風にふるまってしまったのではないか、とも思えてしまうわけです(陰謀にはめられた、という説もまだ生きていますが)。
しかし、被害者と同じ女性から見れば、許されるべき事件ではありません。それなのに、DSKを擁護する、あるいは被害者を揶揄する意見が男性側から発せられている。これでは、黙っていられない。というわけで、フェミニズム団体を中心に10ほどの団体に所属する女性1,000人以上が共同でメッセージを公表しました。署名した人たちの中には、作家・キャスター(France3)のオードリー・ピュルヴァール(Audrey Pulvar)、作家のアニー・エルノー(Annie Ernaux:『ある女』、『場所』、『シンプルな情熱』など)、パリ市議会議員のクレマンティーヌ・オタン(Clémentine Autain)、雑誌“ELLE”の編集者であるマリ=フランソワーズ・コロンバニ(Marie-Françoise Colombani)などが名を連ねています。
さて、どのようなメッセージを発表したのでしょうか。5月21日の『ル・モンド』(電子版)が伝えていました。
ここ1週間ほど、公人によって発せられる女性蔑視の発言の連続に私たちの耳も聾せられるほどだ。それらの発言は、テレビで、ラジオで、職場で、ソーシャルネットワーク上で繰り返されている。大したことではない、とか、小間使いの尻を追いかけただけだろう、女性を愛することはいけないことなのか、あるいは女性の外見や服装と男性の女性に対する態度の因果関係などさまざまな意見が述べられており、女性差別に関する詞華集さえ編纂できそうなほどだ。
私たち女性及び一部の男性は、怒っている。激怒している。憤慨しているのだ。
5月14日にニューヨークで起きたことの詳細は知らないが、それ以来フランスで起きていることは良く知っている。女性差別者や反動的な人たち、特にエリートと言われる男性たちの間に素早い反応が一気に盛り上がった。
あけすけな女性差別の言葉を公にすることが決して非難されないというこの国の状況が如実に示されている。他のどんな差別に対してもこれほどの寛大さは認められていない。
男性からの女性に対する差別的な言辞は、強姦のもつ重大さを軽減しよう、強姦を羽目を外した程度のことだというある程度受け入れられやすい曖昧な状況に定位させようと狙っているようだ。男性たちは現在の、そして将来の犠牲者たちに、訴えるなよ、というメッセージを送っている。もう一度言おう、強姦、そして強姦未遂は重大な犯罪なのだ。
男性たちの言葉は、女性に対する暴行がどの程度までいくと許されないかを示している。この社会の指導的立場にいるエリートたちにとっては、そのことが特に心配な点だ。フランスでは社会階層や年齢に関係なく、毎年75,000人の女性が強姦されている。犠牲者の唯一の共通項は、女性であることであり、強姦魔の唯一の共通項は、男であることだ。
そして、男性たちの発言は、性的自由と女性への暴行との間に我慢のできない混同をもたらしている。暴行、強姦、強姦未遂、セクハラ・・・これらは、女性の体を自由に扱おうという男性の意思の表れなのだ。次のような言い換えは危険で不誠実なことなのだが、男性は女性と男性の解放が行き過ぎないようにブレーキをかける道徳的秩序の回復を支持しているという声を立て始める。
公人たる者が長年慣れ親しんだステレオタイプな言説を吹聴することはすべての女性に対する侮蔑であり、人間としての尊厳を求め、男女平等を日常的に進めようとしている女性、そして男性に対する侮辱である。
・・・ということで、今日もまた、署名メッセージです。言論人を中心とした女性たちの憤り。それも、DSK本人ではなく、DSKの行為を擁護する、同じようなことを行ってきた、あるいは今も行っている男たちへの怒り。女性に対する性的暴行に寛大な態度を示すフランス社会への憤慨。特に社会的エリート層が抱く、下層階級の女性には何をしても殆ど許されるという思い上がりとその伝統に対する憤怒。
上流階級が互いに助け合う社会。だから、庶民階級出身の女性が裁判に訴えたところで勝ち目はないということなのでしょうか。階級社会。
一方、そこまでは露骨に階級を前面に押し出すことのないアメリカ社会。そこには、さまざまな理由から、耳目を集める事件の被害者を支援する腕利きの弁護士がいます。大西洋を挟んで、違いも多いようです。
郷に入れば、郷に従え。“When in Rome, do as the Romans do.”“A Rome, il faut vivre comme à Rome.”ということなのかもしれませんが、それにしても、フランスの階級社会、特権階級の勝手気ままさ、根強いものがあるようです。
ですから、さすが女性に優しい、白馬に乗った王子様の住む国フランス、と思えそうなのですが、どうも実際は違うようです。
“L’affaire DSK”(ドミニク・ストロス=カン事件)以降、あからさまな女性蔑視的発言が、それも政治家など影響力のある人たちから、発せられています。もちろん、発しているのは男性・・・男性が女性を見下している。
例えば、『小間使いの日記』(“Le Journal d’une femme de chambre”)。オクターヴ・ミラボー(Octave Mirabeau)作の小説(1900年刊)ですが、過去にジャン・ルノワールやルイス・ブニュエルなどによって映画化されています。この作品にあるように、小間使いは「性」も含めて主の所有物。19世紀末においても、こうした状況だったようです。だからこそ、DSKの事件がアメリカではなくフランスで起きていれば、大した問題にならなかったのに、と言われるわけです。しかも、この作品のタイトルにある“femme de chambre”、小間使いだけでなく、ホテルの客室係にも使われるフランス語ですから、DSKがフランス系ホテルで思わずフランス風にふるまってしまったのではないか、とも思えてしまうわけです(陰謀にはめられた、という説もまだ生きていますが)。
しかし、被害者と同じ女性から見れば、許されるべき事件ではありません。それなのに、DSKを擁護する、あるいは被害者を揶揄する意見が男性側から発せられている。これでは、黙っていられない。というわけで、フェミニズム団体を中心に10ほどの団体に所属する女性1,000人以上が共同でメッセージを公表しました。署名した人たちの中には、作家・キャスター(France3)のオードリー・ピュルヴァール(Audrey Pulvar)、作家のアニー・エルノー(Annie Ernaux:『ある女』、『場所』、『シンプルな情熱』など)、パリ市議会議員のクレマンティーヌ・オタン(Clémentine Autain)、雑誌“ELLE”の編集者であるマリ=フランソワーズ・コロンバニ(Marie-Françoise Colombani)などが名を連ねています。
さて、どのようなメッセージを発表したのでしょうか。5月21日の『ル・モンド』(電子版)が伝えていました。
ここ1週間ほど、公人によって発せられる女性蔑視の発言の連続に私たちの耳も聾せられるほどだ。それらの発言は、テレビで、ラジオで、職場で、ソーシャルネットワーク上で繰り返されている。大したことではない、とか、小間使いの尻を追いかけただけだろう、女性を愛することはいけないことなのか、あるいは女性の外見や服装と男性の女性に対する態度の因果関係などさまざまな意見が述べられており、女性差別に関する詞華集さえ編纂できそうなほどだ。
私たち女性及び一部の男性は、怒っている。激怒している。憤慨しているのだ。
5月14日にニューヨークで起きたことの詳細は知らないが、それ以来フランスで起きていることは良く知っている。女性差別者や反動的な人たち、特にエリートと言われる男性たちの間に素早い反応が一気に盛り上がった。
あけすけな女性差別の言葉を公にすることが決して非難されないというこの国の状況が如実に示されている。他のどんな差別に対してもこれほどの寛大さは認められていない。
男性からの女性に対する差別的な言辞は、強姦のもつ重大さを軽減しよう、強姦を羽目を外した程度のことだというある程度受け入れられやすい曖昧な状況に定位させようと狙っているようだ。男性たちは現在の、そして将来の犠牲者たちに、訴えるなよ、というメッセージを送っている。もう一度言おう、強姦、そして強姦未遂は重大な犯罪なのだ。
男性たちの言葉は、女性に対する暴行がどの程度までいくと許されないかを示している。この社会の指導的立場にいるエリートたちにとっては、そのことが特に心配な点だ。フランスでは社会階層や年齢に関係なく、毎年75,000人の女性が強姦されている。犠牲者の唯一の共通項は、女性であることであり、強姦魔の唯一の共通項は、男であることだ。
そして、男性たちの発言は、性的自由と女性への暴行との間に我慢のできない混同をもたらしている。暴行、強姦、強姦未遂、セクハラ・・・これらは、女性の体を自由に扱おうという男性の意思の表れなのだ。次のような言い換えは危険で不誠実なことなのだが、男性は女性と男性の解放が行き過ぎないようにブレーキをかける道徳的秩序の回復を支持しているという声を立て始める。
公人たる者が長年慣れ親しんだステレオタイプな言説を吹聴することはすべての女性に対する侮蔑であり、人間としての尊厳を求め、男女平等を日常的に進めようとしている女性、そして男性に対する侮辱である。
・・・ということで、今日もまた、署名メッセージです。言論人を中心とした女性たちの憤り。それも、DSK本人ではなく、DSKの行為を擁護する、同じようなことを行ってきた、あるいは今も行っている男たちへの怒り。女性に対する性的暴行に寛大な態度を示すフランス社会への憤慨。特に社会的エリート層が抱く、下層階級の女性には何をしても殆ど許されるという思い上がりとその伝統に対する憤怒。
上流階級が互いに助け合う社会。だから、庶民階級出身の女性が裁判に訴えたところで勝ち目はないということなのでしょうか。階級社会。
一方、そこまでは露骨に階級を前面に押し出すことのないアメリカ社会。そこには、さまざまな理由から、耳目を集める事件の被害者を支援する腕利きの弁護士がいます。大西洋を挟んで、違いも多いようです。
郷に入れば、郷に従え。“When in Rome, do as the Romans do.”“A Rome, il faut vivre comme à Rome.”ということなのかもしれませんが、それにしても、フランスの階級社会、特権階級の勝手気ままさ、根強いものがあるようです。