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老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

539;老人介護は 他人事じゃない

2017-11-14 05:19:00 | 介護の深淵
写真と本文は関係ありません。それにしてもなぜ今頃白いタンポポなのか?

老人介護は 他人事じゃない 

人間、自分の身に火の粉が降りかかってはじめて
それが大きな問題であることに気づく

在宅介護
いじめ
等々

当事者でなければわからない
当事者でなければわからないことなのか
という反論も返ってくる

当事者でなくても
当事者の痛みや苦悩、不安をどこまで感じとり
わかりあおうと意識しているか

ケアマネジャーも人間
様々なタイプのケアマネジャーがいる
勤務時間は8:30~17:30、土日・祝日は休み
大きな組織の居宅介護支援事業所ほど、勤務時間外は、対応しないところが多い
(対応するところもある?)

在宅を訪れ、宅急便ではないが利用票に印鑑をもらうだけで終わるケアマネジャーもいる

しかし、「それでいいのか~」、とバカボンの声が聴こえてくる
在宅介護者は24時間、ひとり暮らし老人、老老介護(高齢者世帯)も含め
勤務時間外に急変や突発な事故に遭遇したときまで
関わっていたらケアマネジャーの身がもたない

本当にいま緊急時のときだったら
「救急車を呼べば~」と話す人もいるが
家族介護者にしてみれば救急車を呼ぶかどうかもわからず、慌ててしまうのが実情
そのようなとき、「いつでも困ったときは夜間でもよいから電話下さい」の声かけがあれば
家族介護者は心強い

手前味噌だが拙者の場合は、たった一人の居宅介護支援事業所(株式会社として法人格を持っている)
24時間対応、深夜でも夜明けでも電話があれば駆けつける
介護相談は介護者が仕事や夕食の介助を終えた後で、訪問する(17:30以降も対応。20時の場合もある、土曜、祝日は対応)
(サービス担当者会議は、事業所の協力も頂き18:00開催もある)
(最近、無理できない身になり、緊急時以外は日曜は休みにしている)

私自身
老い先10年後の自分は
後期高齢者になる
病いもあり
高熱続きや交通事故でいつ人工透析に戻るかわからない
免疫抑制剤の副作用で骨粗鬆症が進行
骨粗鬆症が有るが故に今回チョッとした転倒により肋骨骨折
年齢相応の物忘れはある、自分も認知症老人になるのかな・・・・
老人は大腿骨骨折で入院すると、退院時には歩行困難またはふらつき歩行と認知症が出現
転ばぬ先は杖だが
転んだ先は認知症となり要介護

だから老いになると
いつ要介護になるかわからない
それだけに
老人介護は他人事ではなく
自分のことになるかもしれない
そう脅しをかけるような話であってはいけないけれど
言いたいことは
いまから在宅介護のことや介護保険サービスについて
自分が棲む市町村や町内ではどうなっているか
関心を持つことも大切
認知症サポーターでもよい
介護に関わる人々と顔見知りになる(つながりを持つ)ことが大切
顔見知りになるなかで、
老人や在宅介護者のことを本当に親身になってケアマネをしている人を見つける

介護相談が必要になったとき
自分だけでなく
近所でも
在宅介護になったとき
介護の顔見知りのケアマネジャーが頭に浮かぶ


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489;生理的欲求と介護⑥ 「睡眠」ⅰ

2017-10-27 04:19:41 | 介護の深淵
 生理的欲求と介護⑥ 「睡眠」ⅰ

人間に限らず動物は
満腹になれば眠くなる。

眠る
睡眠
睡眠の「睡」という漢字も
「ねむる」という意味がある
熟睡 午睡 睡魔 
眠気(ねむけ) 微睡(まどろ)む
昏睡になっては心配だが・・・・

人間(動物)は
眠気が襲い
微睡みの状態になり
眠りの境地に浸る
そのときは至福の境地
眠りのおまけである「夢」は
幸せな夢ならば最高である

眠気や微睡み、睡魔どれも自然の摂理であり
生理的欲求である

眠りを邪魔されると
人間不機嫌になる
更に物理的強制的に眠いのに起こされると
イライラしたり落ち込んだりと感情のコントロールが難しくなる
思考力や記憶力、集中力もなくなる。

取り調べで 電球の光を目に当て眠らせないのは
一種の拷問であり
それに耐えきれず自白(嘘の自白もある)に追い込まれる

人間 眠らなければ生きていけない
眠り(睡眠)も人生の一部であり
嫌なことも不安も忘れ眠れるときが「幸せの時間」
不安や悩みが高じてくると眠れなくなり
眠剤の力を借り睡眠をするようになる

赤ん坊や愛犬・愛猫の寝顔を見ていると
本当に癒され可愛い

新婚当時 あなたの寝顔は愛おしく素敵だった
いまは・・・・・・

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479;生理的欲求と介護 ⑤ 「排せつ」 ⅱ

2017-10-21 16:11:06 | 介護の深淵
 生理的欲求と介護 ⑤ 「排せつ」 ⅱ

「排せつ」行為は、
他者に見られたくない恥部であり、トイレは秘密の空間にある。
また、空腹よりも「ウン・ション」は我慢ができない。

とくに紙オムツをするようになったら、人間お終いだ。
死んだ方がましだ、と老人は話す。
(オムツをして死んだ老人はまだ見かけない)
オムツのお世話になり他者に取り換えてもらうことは、
赤ん坊と同じレベルになり
大人から「半人前」の人間になってしまったことを意味する。

喉が乾けば、人間に限らず他の動物も水を飲むのも自然の摂理。
水を飲んだり食べたりすれば、尿や糞が出るのも自然の摂理。
「オシッコがしたい」「ウンチが出そう」、尿意・便意を感じたとき
誰しもトイレへ向かい、便器で用を足す。
これは当たり前の行為である。

そして大切なこと、それは誰もが洋式便器に坐って、用を足している。

要介護5の認定を受けていても、椅子や車いすに座ることができる人は
紙オムツに尿・糞をするのではなく、洋式便器に坐り用を足せるのである。
紙オムツから洋式便器で排便をした人は、紙オムツに糞は出したくない。

同じ排せつ介助を受けても、
他者から紙オムツを取り替えてもらう
トイレで、一連の排せつ行為のなかで、できないところだけを手助けをしてもらう
排せつ行為として、あなたはどちらがよいですか、と聞かなくても
オムツよりはトイレの方がよいに決まっている。

しかし老人が入院すると、
歩くのが大変だったり、排せつ動作に手間がかかったりすると
医療従事者は「バルンカテーテル」を挿入してしまう。
本来の看護とは何か。
自然に尿が出るのに、管で排出する。
肺炎は治癒したが、尿意は喪失し紙オムツになって退院。
もし、ナイチンゲールが生きていたら
彼女は安易に使うバルンを見て何と思うだろうか。
不必要にバルンを用いるのは、生理的欲求に反し非人間的なケアなのでは、と思ってしまう。

排せつ器官が駄目になり尿が容易に出ないときにはバルンは必要である。バルンを100%否定しているのではない。

私も術後安静のため、7日間バルンを挿入され、苦痛を体験。
一番苦痛だったのは、排便中、排便後にオシッコが一度に放尿されたとき
思うように管に尿が流れず、尿が溢れでたような感じで、尿道の痛みが耐えられなかった。
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477;生理的欲求と介護 ⑤ 「排せつ」 ⅰ

2017-10-18 00:16:47 | 介護の深淵
 生理的欲求と介護 ⑤ 「排せつ」ⅰ

生理的欲求の2つめは「排せつ」である
「排せつ」は「食べる」ことの意味とは違う意味で、
耐えられなく、辛いものを感じてしまう。
人間に限らずの他の動物も同じく、
食べたら必ずと言っていいほどオシッコやウンチ(「排せつ」)を出す。
これは我慢できるものではない。
筆者、23歳の頃の話で「ひと夏」の体験をしたことがあった。
上高地を散策していたときのことで
寒村のある蕎麦屋で食べた蕎麦が「当たり」
突然腹痛になり
少し間をおき次に襲ってきたのは
便意をもよおし、いまにも肛門括約筋が緩みになるのを堪え
早くトイレを見つけ駆け込みたい心境にになった。
片方の手は腹を抑え、もう一方の手は肛門を抑え抑え歩く。
探せど探せどなかなかホテルは見つからず
肛門括約筋は極限に達し、顔は青くなり冷や汗になってきた。
極限が切れる寸前に内装工事中のホテルが見つかり、
トイレになだれ込み入るや否や、下衣を降ろすと同時に「多量軟便と下痢」を排出。

神戸や東日本の大地震で一番困ったことのnumber1は「トイレ」であった。

口から食べ物を摂ると、必ず糞尿が出る。
出ないとそれは大変なことになり
生命(いのち)取りになり「糞死」しかねない。

老いてくると
爺さんより婆さんの方が、、
あたりかまわず、恥らいもなく、
立ちションを平然と用を足している。
これも恥らいよりも
自然の摂理が我慢できず
ところかまわずの行為に出てしまう。
それほど排せつは切実な行為なのかもしれない。



一部下品な表現があったことをお詫び申し上げます。
他に適切な言葉が見つからず、ただただ言葉不足を痛感します。

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473;生理的欲求と介護 ④ 「食べる」 ⅳ(終わり)

2017-10-14 16:34:57 | 介護の深淵
生理的欲求と介護 ④ 「食べる」 ⅳ(終わり) 

一杯の水

一杯の水(お茶 でも同じ)を
老人(お客様)に出すとき

個々の老人の特徴(特性)を覚えておく
初めての老人に対しては、「細かく聴くこと」

「冷たい水」がいいのか
「ぬるま湯」がいいのか
「お湯」がいいのか
また、最近(今日、昨日・・・)お腹が痛くなかったか
下痢はしていなかったか
猫舌なのか
などなど 細かく聴くことが大切。

ただ水を出すのではなく、


韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』第4話「母の教え」のなかで
ハン尚宮(さんぐん)は、チャングムに話す。

水でも器に盛られた瞬間から料理になること。食べる人への配慮が一番だということ。
“料理は人への気持ち”である。

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472;生理的欲求と介護 ④ 「食べる」 ⅲ

2017-10-14 10:00:40 | 介護の深淵
秋桜デイサービスの台所

生理的欲求と介護 ④ 「食べる」ⅲ 

マズローの欲求の階層からみれば、
生理的欲求である「食べる」は、
最下層にあり低次元の欲求ではあるけれど、
介護施設やデイサービスなどをご利用されている老人にとり、
「食べる」ことは〔楽しみ〕であり〔待ち遠しい〕。

食事時に
お膳の上に
「冷たいご飯」「冷めた味噌汁」「冷たいおかず」が並べられても
箸はあまり進まず、バケツに捨てられた残飯を見ても
無関心な介護職員や栄養士。
明治・大正から昭和一桁までの老人は、
食べれなかった過去〔戦前や終戦直後〕の時代を思えば、
冷えたご飯や味噌汁、おかずであっても、
文句のひとつもこぼさずに食べておられる。

〔これから団塊の世代以降の老人は我慢ならないであろう〕

おかずが冷たくても、ご飯と味噌汁だけでも温かければ
何故か箸は進む。
それはお腹のなかに、温かいものが入ることで、
人の体や心も温もりを感じるからである。

ご飯や味噌汁は最後に盛り付ける。
50人もいる介護施設ではそうはいかず
最初によそったご飯、味噌汁は、冷めてしまっている。
仕方がないと諦めるのではなく
どうしたら温かいものを温かく食べられるか。
テーブルごとに、お櫃を置く
味噌汁の鍋をテーブルの近くに置き、よそった順番から配る。
できる利用者には、お櫃からのご飯の盛付けをお願いする。
これだけも食卓の雰囲気は変わる。

たまに家族そろって外食するから、うれしいし〔贅沢した気分〕、美味しいし、楽しい。
とくに主婦は、嬉しい、作ることもなく後片付けもなく、解放される
(上膳下膳からの解放)。
しかし、いつも上膳下膳になると、受け身の食事になってしまう。

小規模である秋桜デイサービスは、
餃子作り、コロッケ作り、料理のしたごしらえ、ホットプレートでカレー作りなど
利用者(老人)とスタッフ(介護職員)が一緒になって行う。
料理する過程から参加することで、美味しさや食べる喜びは、2倍も3倍も膨らみ拡がっていく。
食後の食器拭きは、いつもお願いしている。

確かにマズローが述べているように食事は、生理的欲求であり、
人間生きていく上で欠くことのできない基本的欲求である。
老人介護においては
「今日が最後の晩餐かもしれない」
そう思い
食事作りや
食事の雰囲気を
大切にしていきたい。


食べること 人間に残された最後の喜びかもしれない。



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470;生理的欲求と介護 ④ 「食べる」 ⅱ

2017-10-13 03:55:08 | 介護の深淵
 生理的欲求と介護 ④ 「食べる」ⅱ

いま田畑や木々は実りの秋にあり、
野山に棲む熊、猪、鹿、野猿、烏な達は、
人里に出没し農民を悩ませている。
野生の動物達は、熟した頃に訪れ、
食べごろの物を選び、喰い散らかし去って行く。
野生の動物達でさえ、秋の味覚を味わっている。

病を抱えた老人は
いつ、突然死に遭遇するかわからない。
いま元気であっても
”夜明け前に亡くなりました”と家族から訃報の電話が入る
だから秋桜デイサービス(定員10人)では
今日が最後の食事になるかもしれない、という想いで
昼食を作り一緒に食べる。

だから旬の物や本人が食べたい物を出す。
ときには(一口だけでもいいから)塩鮭や筋子を食卓に出したりする。

いつも作ってもらい食べるだけでは、申し訳ないと思う老人。
たまには、餃子やコロッケ、カレーライス、お好み焼きなどを最初から作ってもらう。
自分たちが作った料理は、更に美味しく感じる。

また車に乗り、蕎麦屋、ラーメン食堂、ファミレス、道の駅等に入り
外食を楽しむ
家族の人とは外食に来ることはない。
何故なら不自由な自分が行くと足手まといになるから、
本人は行かずに我慢し、家で留守番をしている。
でもこうして同じ仲間で行くと
時間や人前を気にせずに
外食を楽しむことができることは、
嬉しい。

自由に旅に出かけることも容易でなくなってきた老人にとって、
残された唯一の楽しみは「食べる」こと。
家族ではないが家族のような仲間(疑似家族)と「食べる」。
食べること、それは単なる生理的欲求にとどまらず、
その人の食生活や心までをゆたかにしてくれる。
食べることは、最下層の欲求ではあるが
生きる力(あるいは希望)をもたらしてくれる。
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469;生理的欲求と介護 ④ 「食べる」 ⅰ

2017-10-12 15:24:51 | 介護の深淵

  生理的欲求と介護 ④ 「食べる」

生理的欲求の1つである「食べる」とは。
人間にとり食べることは、生きることと密接な関係にある。
食べなければ、腹が減り、腹が減っても食べないで居続けると飢え死(餓死)となる。
人間に限らず、他の動物も同じであり弱肉強食の世界のなかで生存している。

食事が満足に出されず、空腹感や渇望感がある子どもや老人は
家庭以外の場所で食べ物が出されると、
他者の眼を気にすることなく貪り食べる様は、デイサービスの昼食風景でも見られる。
食事に飢えている子どもや老人は、ある意味では家族愛に飢えているような気がしてならない。
食を満たすことは、生命を紡ぐ上でも大切になってくる。

しかし、人間は腹を満たせば(満腹)、それで満足する動物かというと、そうではない。

「食」は、生活であり文化であり、
故郷(ふるさと)の味、おふくろの味が懐かしく、
東京の小料理や割烹では、故郷の料理や旬の食べ物を求めお客が暖簾(のれん)をくぐる。

仕事など自分が頑張ったとき、家族などの誕生祝い、嬉しいときなど
人間は外食や家庭ではご馳走を振るまったりして、食事を楽しんだり、食を味わったりする。
一人だけで食事は(どんなご馳走であっても)味気なく、箸も進まなくなる。
気の合った人たちと、食事するときは、美味しいし、楽しいく、満足感に浸れる。



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467;生理的欲求と介護 ③ 「生理的欲求と病める老人」

2017-10-12 00:36:59 | 介護の深淵
 生理的欲求と介護 ③ 「生理的欲求と病める老人」

赤ん坊は生まれたばかりの無力な存在にあり
《食べる》《排せつ》《睡眠》の3つの欲求は、
人間生きていく上で不可欠な欲求であったが、、
それは泣くことで母親などに助けを求めていた。

脳卒中等の病気や大腿骨骨折等の事故に遭遇した老人達は
赤ん坊と同じく自力で生きる力が損なわれた存在に置かれる。
「ひとりで生きることはできず」、「誰かの手を借り」なければならない。
そのような要介護老人は、「弱者」(好きな言葉ではない)に映り
ある意味では赤ん坊と似たような状態に在る。
しかし、赤ん坊と老人は似たような状態にあっても
老人は長い人生を過ごしてきた《生活史》があるだけに
赤ん坊以上に《プライド(誇り)》を持っている。
それは自尊心であり、
人間の生活に値するような《生理的欲求》が充たされているかどうかが、
大きなテーマとして問われてくる。

病気が因で手足・体が不自由になったり、認知症の症状が表出したとき
《食べる》《排せつ》《睡眠》の生理的欲求は、自力で行うことが困難になる。
明治・大正・昭和9年以前に生れた昭和一桁の老人達は、
度重なる戦争と貧困生活のなかで「忍従」の二文字で生き抜いてきた老人達の精神力は強い。、
(寝たきりや認知症を患ったとしても、「弱者」老人であるとは言い切れない一面もある)。

しかし、現実は誰かの手を必要とする老人達であることには変わりはなく、
特別養護老人ホームや老人保健施設などの介護施設やサービス付き高齢者住宅などで暮らしている老人達が居る。
《食べる》《排せつ》《睡眠》の3つが充たされている介護施設や高齢者住宅は、
質の高い施設ではないが、安心して老親を預けることができる施設であり、及第点がつけられる。
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465;生理的欲求と介護 ②  「生理的欲求と赤ん坊」

2017-10-11 08:57:35 | 介護の深淵

 生理的欲求と介護 ②  「生理的欲求と赤ん坊」

マズローの欲求5段階説 なんだか硬い話のような感じになり
それは介護と、どう関係があるのか

人間生きていく上で
 「食べる」「ウンションをする」「眠る」 
欠かすことのできない生理的欲求であることは
生きている自分自身がよくわかる
それらは、空気と同じく当たり前の事としてできている
空気みたい行為である
空気が希薄になると人間呼吸が乱れ苦しくなって、はじめて空気の有難みや存在がわかる
人間 病気や大きなケガをしたとき、
不自由になり「食べる」「排せつ」「眠る」こともままならず
生理的欲求が満たされない危機に陥ったときに、
食べる、排せつ、眠るという、「こと」の有難みがわかる

ここで赤ん坊と生理的欲求がどう関わり合うのか、考えていきたい
赤ん坊は、純粋無垢であり、顔を見ているだけで心がほぐれる
あなたの笑顔(微笑み反応)に癒される存在
しかし赤ん坊は、母親や保育士のお世話がなければ生きてはいけない
母乳、ミルクそして離乳食、オムツの取り換え、添い寝のどれかが満たされないと
ぐずりはじめ、それでも母親が気がつかないと泣き始める

赤ん坊は泣くことが仕事 とよく言われる
赤ん坊は いまなんで泣いているのか
腹をすかし泣いているのか
オムツが濡れ気持ち悪くて泣いているのか
眠くて泣いているのか
赤ん坊にとり泣くことが言葉であり
母親は泣き方の違いを感じ取ることにより
この泣き方は
母乳なのか、オムツなのか、眠いのか を見極める
これは何れも人間最初の生理的欲求である
赤ん坊は無力な存在に置かれている
誰かの世話を受けなければ生きていけない
だから赤ん坊(人間)の欲求の始まりは上記の3つ(ピンク文字)からである
健やかに成長していき 「ヒト」から「人」になるのも
生理的欲求を満たしていくことで、母子の信頼関係も培われていくのである

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464;生理的欲求と介護 ①

2017-10-11 02:37:15 | 介護の深淵
インターネットより「マズロー(心理学者)の欲求5段階説(自己実現理論)!この法則を示した図と、マーケティングへの応用論の解説」から上記の図を引用
 生理的欲求と介護 ①

介護職員初任者研修(旧 訪問介護員2級課程)や心理学のテキストでも
必ず目にするアブラハム・マズロー(心理学者)の「欲求5段階説(自己実現理論)」の図が掲載されている

人間の欲求を5段階(階層)に分け、説明されている。

ここでテーマにしたい欲求は、
一番下の階層にある「生理的欲求」である

人間が生きていく上で欠かせない
「食べる」「排せつ」「寝る」は
生きていくうえで欠かせない欲求であり
それは生理的欲求を意味する

この生理的欲求は
私たちの日常の生活においては
当たり前の欲求であり
深刻な問題として感じていることは
普通の生活ならばないのではないか、と思う

介護職員初任者研修で
このマズローの欲求5段階説の説明(講義)をされるが
実際の介護とどう結びついているのか
どこまで掘り下げて話をされているのかわからないが

生理的欲求が
今日の介護施設や介護事業所において
どこまで満たされているか

(在宅介護との関係については除外していく)
私のなかでは
昔も今も変わらず
生理的欲求と介護との関係については悩み続けている
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376;認知症老人と存在論 ①

2017-09-11 04:38:12 | 介護の深淵
 認知症老人と存在論 ①
~ハイデガーの哲学から考える~


はじめに
 
ハイデガーの存在論に邂逅したとき、自分は強い衝撃を受けた。
「なぜ、いま自分はここにこうして生きているのか」
認知症老人に関わっている自分の在り方というものが鋭く問われ
居場所の意味を
再度、ハイデガーの哲学を通し
認知症老人介護の在り方を見つめていきたい。

創文社から『ハイデッガー全集』が刊行されているが、
まだ自分の読解力では難解であり、
北川東子さんの『ハイデガー・存在の謎について考える』(NHK出版、シリーズ・哲学のエッセンス)から引用させていただき
「自分」という存在を考えていきたい。

北川さんの引用文を用いたとき、〔 〕内に数字で記した箇所は前掲書の頁であることを意味する。
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324;介護

2017-08-22 03:42:34 | 介護の深淵
窓から雨上がりの空 虹が見える

介護 

介護は 体も心も束縛し、時間を奪う
失ったこと、できなくなったことに囚われると悲しく辛くなる
でも
失ったことよりも、いま有るもの、できなくなったことよりも、いまできることを数えていくことで生きる勇気がみえてくる
介護は 人間回復の営み
介護は 助けられたリ助けたりのお互い様の営み
介護は あなたの掌の温もりから人間の優しさを感じさせてくれる
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245;事故

2017-07-15 11:50:05 | 介護の深淵
事故

車に置き去り
熱中症で死亡

いたたまれない事故だけに
他人ごとではない
他人を預かるということは
その人の生命を預かる
そのことを忘れてはならない

難しい操作や複雑なことで
事故は起きらない
基本的なことを怠ったり
手抜きをしたときに
事故は起きる
難しいことではない
人間の心の隙間から
事故は起きる
生命を預かっていることを
人間に携わっている仕事の人たちは
忘れてはならない
               
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209;人生の春 ②

2017-06-20 11:35:24 | 介護の深淵
夕陽に染まった淡い雲

ご訪問いただき、ありがとうございます

自然は春夏秋冬、四季の変化や彩りの変化を
わたしたちの日常生活のなかにもたらしてくれる。
季節の移り変わりは、人間の心を勇気づけてくれたり
癒してくれたりもする。
わたしは北海道に生れ育った。
厳しい冬であっても、必ず春を迎える。
冬から秋へと季節が逆戻りすることはない。
冬は厳しく、辛い。
しかし、凍えるような寒さや吹雪にあっても
木々が芽を膨らませながらじっと春の訪れを待つのと
同じように、人間もそうして春を迎える。
介護員は介護を媒介として
生きることを諦め、希望を失くした老人に
「春」をどうもたらしていくのか。

それは、希望、勇気、歓喜をどうもたらしていくのか。
そこに老人介護の本質があるように思える。

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