Gメモリーズブログ

有限会社クリエイティブデザイン羽沢組

ミラクルな?一枚の写真

2012年05月11日 | 代表羽沢のG雑感
誰も思いつかないアイディアと
好きな事をとことん追求する姿勢



▲右が竹内宏介さん、中央がターザン山本さん。

 今日はゴジラではなく、プロレスの話。
 先日、竹内宏介さんが亡くなりました。かつての全日本プロレスのテレビ解説者としてプロレスファンには知られた方で、週刊ゴングの編集長を務められ、後に日本スポーツ出版社社長になられました。

 20年以上前になりますが、当時私の勤めていたデザイン事務所が週刊プロレス(週プロ)のページの一部のデザインを担当していたため、私もたまに担当。さらにこの頃は週プロスタッフが全日本プロレスのパンフレットやポスターも請け負っていたため、それらのデザインもレギュラーで担当していました。まだジャイアント馬場さんがご存命だった時です。
 当時、プロレスマスコミとして週プロとライバル関係にあったのが週刊ゴング。表に出なかった部分も含めて当時のこのライバル関係はかなり過激な部分がありました。ファンだけではなく、時には複数のプロレス団体やレスラーを巻き込んで、「週プロ派」「ゴング派」と言われる事も。当時の週プロ編集長は、あのターザン山本さん。そしてゴングのトップが竹内さんでした。お二人とも編集者という立場だけではなく、プロレスの興行や各団体のしがらみの仲介等にも大きな影響を及ぼしていた方です。そして業界では「大」がつくほどの犬猿の仲と言われていました。
 私自身は仕事での立場としては週プロ寄りだった事は確かですが、いちプロレスファンとしてはニュートラルでいたかったので週刊ゴングも購読して楽しんでいました。

 ある時、驚く事がありました。レスラーや関係者が多く集まる全日本プロレスの記念パーティで、山本さんと談笑していた時にたまたま近くを竹内さんが通りかかりました。日頃、部下達には「ゴングとは話をするな!」とまで言っていた山本さんが竹内さんに声をかけたのです。それだけでもびっくりなのに、私を紹介していただき、3人でしばらく談笑(ほとんど2人の楽しい毒舌!)。心の中では2人が話をしている事そのものに驚くばかりでした。竹内さんと話したのはこのときが初めてでしたが、テレビ等と全く変わらずとても気さくな方でした。そして3人で写真を撮らせていただきました。
 竹内さんと山本さんが一枚の写真に納まる等、当時の2人の関係を知る方にとってはかなり驚きで、いろんな人にこの時の写真はびっくりされました(今でもですが…)。毒のある山本さんに対等に渡り合える竹内さんの懐の広さを感じました。
 批評、批判、斬新なコピー等でカラーを打ち出していた週プロに対して、ゴングは豊富な資料と新鮮な企画やマニアからライトなファンまで行き届く紙面と、対照的な編集でした。これはそのまま当時の山本さんと竹内さんのカラーであり、2人のキャラクターそのものと言えたと思います。

 竹内さんはプロレスファンにとっては、ミルマスカラスを世に広めた人として有名ですが、紙面の面白い企画記事だけではなく、プロレスそのものも数多くの仕掛けの裏方として活躍され、多くのレスラーや団体からの信頼があったそうです。
 立場的に一緒にお仕事させていただく事はありませんでしたが、プロレス会場でお会いした時には、あれから何度か簡単な挨拶だけさせていただくだけになりました。
 竹内さんの誰も思いつかず、それでいてファンのかゆい所に手が届くようなアイディア満載の記事を見るたびに、雑誌に関わる仕事をしている者としても、プロレスファンとしても、機会があれば一緒にお仕事させていただきたかったと思った方でした。
 好きな事をとことん、しかも面白い見せ方をする姿勢や行動力は見習う事が多くありました。もしかしたら、アイディアやその姿勢という意味では、今の私の仕事にも影響しているのかもしれません。
 ですから65歳という年齢で逝かれたのは残念です。
 心よりご冥福をお祈り致します。

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