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騙される人物は敵であるか

2014-04-03 21:28:02 | 科学っぽい思考

 私は今日は仕事の帰りにバナメオエビを買ってきて、白菜やネギと一緒に煮て、このブログを書きながら食べている。なかなか美味しいと感じているが幾分、サイズが小さい気がしている。

 以前、阪急阪神ホテルのレストランでこのバナメイエビを芝海老と偽って料理にして出していたことが報じられていたが、芝海老とバナメイエビの味の差などわずかであるわけで、名前を隠して同じように調理されて出てきた時にバナメイエビを食べた人と芝海老を食べた人で大差にはならないだろうと考えられる。もし、南米の郷土料理に使うのは芝海老などではなくバナメイエビであると決められているとき芝海老をバナメイエビだと偽って出すと顰蹙を買う可能性は高い。

 料理を食べる時に感覚の共有や信用はかなり大切のようで、逆に料理が美味しいと感覚の共有ができるようになったり信用ができることがあるループが結構あるのかもしれない。社長や上司が食事をご馳走してくれたわけだが、そうしてくれるのは食事が美味しいと信頼や満足感、感覚の共有が生じることを本人が体験しているからだろうと考えている。その食事の題目に偽りがあるということはかなり問題らしく、腐っていたことよりも作為的なだけに信用が落ちる。名前とその名前が指し示している事象を無作為にまたは故意に違うようにすると多くの場合で論理的につじつまが合わないことを言うよりも信用が低下する経験則が私にはなんとなくあるのだが、人間は短いものの方が理解しやすく、理解しやすいところで間違うのは間違っていることを理解させるのと同様であると考えられ、私は物理的にはあっているような気がしていて、その食品偽装もそれに当てはまっているように思われる。

 時々、人を騙して利益を得る人物がいるわけだが、騙す側にとって騙される人物というのは一体にどんなものかと考えてみると変な気持ちになる。おそらく、騙した側にとって、自分のことを無視して、利益をもたらさなかった人物よりはるかに好感が持てるのではないかと感じられるのだ。騙したことによって、無視していった人物よりも将来的な溝が深まる可能性が余計に高いにも関わらず、感情的には騙されいる人物の方に心の動きは向いているのだ。昨今の宗教指導者はもしかしたらそんな感情を有している人もいるかもしれない。もし、そのような状態に陥らないように相手を騙すとしたら自分を表に出したりせずに誰かに動きを依頼して依頼した人物もろともにいなくなった方が都合が良いと推測しているのだがそのような感情や思考の廻りは希で例は在日朝鮮人が大量に加入していた右翼団体ぐらいしか見つからない。以前、「ライ麦畑でつかまえて」にあるフィービーの持っていた左利きのキャッチャーミットがどうので人を騙すときは反対になるのではないかというとりとめのないことを言っていたが大韓国民団でなく朝鮮総連側の人間が多かった右翼などそうだったのかもしれない。

 結論を言えば、騙すという行為は敵に対して行うことがある行為ではあるが、成功するのはたいてい味方になろうとしている側の人であって、上手く人を騙すほど才能があって人間的に経験を積んだ人物というのは本当の信用を体感的に知っている人であろうと思われるわけで言っている内容よりも感情表現の面で人間的に信用して良い場合が多いのかもしれない。

 

 

 



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