Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

About life of marriage結婚生活について

2018-09-24 | 生き方

Marriage is a type of group that created by mankind.

結婚は人類が作り上げた集団の型である。

Encountered with a person who has completely different family name,

they make a bond with blood and inherit it to next generation.

全く別姓の人が出会い、

血で縁を作り後世につなげている。

They tie up each other with emotion and

they go to be separated by the emotion.

 

感情で結ばれ、

感情で別れていく。

Marriage is protected by law and

also attack opponent by the law.

 

法律で守られ、

法律で相手を攻撃もする。

It is under controlled by sexual hormone and

when the hormone becomes exhausted,

the love relationship goes to transform

to be just a physical relationship.

 

性ホルモンの支配下におかれ、

そのホルモンの枯渇により、

恋愛関係がただの物理関係に変貌していく。

People who chosen marriage as a ticket

which can take them to be happy

but when they judge they are not happy as they expected,

their marriage become to invalidate

from the status of love relationship into metrical relationship.

 

幸せになる切符として結婚を解釈した人は、

幸せでないと判断した時点で結婚状態を無効化する。

People who chosen to be married with whom has a condition

which is favorable to ensure social status

but when they come to judge such condition breaks down,

the meaning of marriage gets lose.

社会的地位を確保するために選択した好条件相手との結婚は、

その条件が崩れた時点で存続意味を失う。

 

I got remarried in my 50’s.

私は50代に入って再婚した。

 

It might be said properly that

my first marriage in Japan was

as to be a mean to survive if I have to describe it.

日本での初婚は強いて言えば、

生き残るための手段だったと言った方が適切かもしれない。

However, I still have a connection with him like kind of relatives,

so he is still a part of my life.

だが、今でも元夫と親戚のような関係を保っているから

彼も私の人生の一部分を占めている。

 

The first marriage that I have experienced which was based on law,

it seems to make able to take objective point of view

to see my current marriage life with my husband to compare.

初婚で形式的な法律に基づいた結婚生活をした経験があったからか、

今の夫との結婚生活に比較的に客観的な立場をとることができる。

Since I have been married with my husband internationally,

I have been having marriage pattern that

I never even imagined in my past.

夫との国際結婚により、

過去に想像すらできなかった生活様式を送っている。

 

The residential environment has been changed,

住まいの環境が変わり、

The kind of food I eat has changed,

食べ物の種類が変わり、

The language I use has changed,

使う言語が変わり、

The life style also has changed,

生活習慣も変わり、

The people I meet are also have been changed,

会っている人達も変わり、

The scenery I see also has changed,

見える景色も変わり、

The type of stress I take also has changed,

ストレスの種類も変わり、

Even the season has taken differently to change.

季節の変わり方さえも違う。

 

However, things that seems to unchanged yet,

it might be such as subject or phenomenon that I try to know,

the type of know ledge that related with personality formation

depending on my personal tendency.

だが、変わらないと思われるのは、

知ろうとする対象や現象、

知識の種類といった人格形成に関わる性格傾向だけかもしれない。

 

Strange thing is,

the old memory that attached on somewhere in my brain,

it reappears as changed way with a different interpreter,

so it makes me surprised.  

不思議なことは、

脳裏にへばりついた昔の記憶が捉え方を変えて再び現れてくるので、

自らのことながらその再解釈には驚かされる。

 

I have been trying to carry out my belief that

would not be influenced by changeable circumstances,

but it seems to too hard to maintain

because the surrounding conditions of mine have changed a lot.

私は環境の変化に左右されない信念を貫くことを

実行しようとしてきたのだが、

変わってしまった周りの条件が多すぎて、

その信念を維持することが難しくなってきた気がする。

 

Sometimes I wonder if there will be a perfect form of a marriage.

たまに、完璧な結婚生活があり得るだろうかと思ったりする。


Thinking that what is a cause that

makes married people feel their marriage are imperfect

and what idea is rooted for their judgement in their mind.

不完全な結婚生活だと感じる心的背景には何が原因なのかも考えたりする。

 

Also think that what is pattern of thinking to judge

happy or unhappy and determine

which has a value for their mental backgrounds?

不幸だと判断することや幸せだと感じる価値判断に

根付いている考え方は何だろうかとも考えたりする。

 

I might should appreciate for my doing practice zazen-meditation that

made me not to hurry to get a conclusion for those above thoughts.

それらの考えに、

結論に急がなくなったのも

坐禅の修行のおかげかもしれないと思ったりする。

 

Whichever way of marriage types,

if someone tries to get a conclusion in a hurry,

the one loses option to choose for next opportunity

so that the situation gets narrow and suffering.

どんな結婚の在り方にしろ、

結論を早く出そうとすると次に選ぶ選択肢の余裕が無くなり、

状態が狭苦しくなる。

 

I try not to decide assertively as my conclusions such like,

my marriage is happy, perfect or ideal.  

私は私の結婚生活が幸せだとか、

完璧だとか、理想的だとかの

ある断定的な状態に結論つけないようにしている。


Saying these and those like I want to do

but couldn’t do actually what I supposed to do,

such ideas come and go like seasonal change

and I am gazing at those mind changes.

自分がやりたいことをあれやこれや言い、

その言ったことを実際やったりやれなかったりしながら、

想いついたことも季節の変化のように過ぎっていくことを眺めたりする。

 

I guess that many of marriage problems caused by trials that

add extra forces artificially to be as they desired

before something gets solidifies spontaneously.

多くの結婚問題は何かの状態が自然に固まる前に、

余計な人工的な力を加え思い通りにしようとしたから

起こるかも知れない。

 

However, there must be a marriage case

which only can be solved by separated for the best.

だが、ある結婚では別れだけが

最善な解決策になる場合もあるだろう。

Even separated if someone tries to reconstruct their bonds that

they have been having from past,

it is possible for them to find a new form of relation to be.

そうなっても過去に結ばれた縁を再構築していけば、

新たな関係の在り方を見つけるようになるかも知れない。

 

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30 Comments

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Unknown (桂蓮)
2018-10-03 06:53:40
システムの間について

システム、ストラクチャ
system
システム, 系, 方式, 制度, 系統, 体制

仕組み
arrangement
配置, 配列, アレンジメント, 整理, 手配, 仕組み
contrivance
仕組み, 仕組, 案, 案出, 機軸, 工面
construction
建設, 構築, 構造, 建築, 建造, 仕組み
plot
プロット, 陰謀, 筋, 筋書き, 構想, 仕組み
devising
仕組, 仕組み

辞典的意味とZIPさん定義について
考えてみました。

原点回帰かあ~

辞典的意味を考えるのは私の趣味で
辞書を読むのが好きでしたね。
人の考えに影響されたくない時、私は辞書を読みます。
飽きてくるまでは読み続けられます。

システム的な間としてのコメント
これは考えつけなかったです。

間、これもエンカウンターグループで習ったことばです。
間かあ~
返信する
Unknown (ZIP)
2018-10-02 22:44:24
ある一つの情報に対して、
新たな情報が付加されたり、
あるいは、
与えられた情報が切り分けられたり、
または、
何かが選択されたり、
そして、
何かが捨てられたり、
と言った具合に
言葉が繋がりを持って、一つの情報が何かに
形作られていくわけですが、情報のやりとり
(コミュニケーション)によって言葉が繋がりを持ち続ける状態を称して「システム」というわけです。
ブログにおけるコメント欄は、システムが作動する為に、無くてはならない「間(ま)」というわけです。
間を情報で埋めることによって、何かが形作られていくわけですから、間は当然システムとしての全体性を構成するものです。
コメント欄の無いブログは、当然、システムとしては成り立たないものです。

開設者がシステムを起動する意味として、
それを再検討することは当然必要があると思います。
即ち、システムの起動を続けるか、続けないのかそれが原点回帰という事でしょう。
返信する
表明 (桂蓮)
2018-10-02 10:47:26
自明、表明似たようで違う対象に使われている。

表明という言葉の使い方に初めて接したのは
恩師の増田先生が開催したエンカウンターグループだった。
表して明かす、明りの世界に表す
自明は仏教用語であるから
またウィッキさんの世話になる必要だが、
最近は
グーグル検索やウィッキにリンクしていくのが
面倒になってきた。

表明、その表れたものが何であれ
明かされる、明かされたら物体化して
公的なものになる。

その過程や結果に
明かした本人の取り扱い、取り扱わされることに
責任が生じ、
それを撤回することはできない。

このブログのコメント欄を閉じるか
開けておいて『招いてないことを招くことになる』おそれを私はどう処理するかをずっと考えている。

結論を急がず、また少し考えてみたい。
だが、自分のブログだから
誰からの眼を気兼ねすることなく
思ったことを書けることは
気のはけぐちにもなるので
ザラザラする気持ちを治めるにはいい場所かも...

恐山のコメント欄は再開されて
気が楽になったが、
削除対象になれないように書くのも億劫になってきた。
記事と関連させることに気が向くと
肝心なことが書けない。
制限が多すぎる、これが嫌なら書かなければいいのだが、それも結構難しい。


返信する
むっちゃんさんへ (桂蓮)
2018-10-02 01:57:14
実際、むっちゃさんが
『表れていることでーどう受けとったか』について
コメントしてもらって初めて
なぜ、のし様がむっちゃんさんへの返事に誠心をかけているかが実感できました。

私はそこでコメントをしたのは
コメントで得られる人間関係の損得よりは
コメントを残すことで『関わっておく』ことに
本能的に感じた何かがあったからでした。

何か、私の頭でなく
直感みたいな、押された感覚でしたかね。

だから、記事に関連したコメント内容よりは
『固まっていく何かを斬る』ことに赴きをおいていました。

その過程で
勇敢なむっちゃんさんと出会い、
その静かな迫力を楽しんでいましたね。

経緯はそんなところですが、
『私の隣に座っていた人の胸ぐらをつかんでビンタした。』ようなことは
私は以前にも似たようなことがよくありました。

そのようなことになると
私の足や拳のほうが早いので
私が仕返ししようとする思いよりも早く
反応でできちゃうのです。

ですが、相手が年よりだと
正誤に関係なく
そのまま受けてきましたけど。

昔、スナックで働いた頃
同僚の女の子が
私のクソ真面目な働きぶりをあざ笑いしてましたね。
で、彼女を密室に呼びました。
(中間省略)
彼女は仕事中に泣いて
翌日辞めましたね。

今回は私が辞めましたけど。

とにかく、配慮深いコメントをありがたく受取りました。
馴染みのないところでコメントをするのは勇気がいるのでしょうに。



返信する
読み流して下さい (むっちゃん)
2018-10-01 19:13:01
初めてコメント致します。
喫茶室常連、むっちゃんと名乗っている者です。

カウンターに座ってコーヒーを飲んでいると、顔見知りの人が来た。
その人としばらく楽しくおしゃべりし、再び黙ってコーヒーを飲んでいると、斜め前辺りに座っていたらしいやはり顔見知りの人が椅子を蹴って立ち上がり、私の隣に座っていた人の胸ぐらをつかんでビンタした。

そんな印象です。
青白き文学青年は半日以上、状況が理解できずに硬直していました。

いかにも貴女らしい(と言えるほど貴女を存じ上げていませんが)、潔癖なまでの筋の通し方で挨拶なさった、という印象を持っただけでしたので、私は個人的にとても驚きました。

もう二度と行きたくない、多分そう思っていらっしゃるでしょう。
私ならそう思いそうです。

でもあの喫茶室の扉は、常に『open』で『welcome!』だと思います。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-01 11:43:14
はい、やっちゃいました。
正直すぎて痛い目に遭いました。

感情で嘘はつきたくないし、
人と関わるため媚びることは絶対にしないし、
心に無いことは言わない、そうしてきたから
友達がいなかったでしたが、
ZIPさんがそのサガを理解して下さるのあれば
その他多くの人は要らないです。

昨夜は一睡もできなかったのでしたが、
私の夫もZIPさんと同じような話をしてくれたので
不愉快感が若干薄れました。

とにかく、私は昔から
エゴイスト的な自分中心の人とは
全く合わないですね。
今回のことで再確認できました。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-10-01 03:44:24
またやっちゃいましたね。
そのうちやるとは思っていましたが、思ったよりも早いので、ちとびっくりしました。

あまり気にしない方がいいですよ。
貴女に悪気が全くない事は、私には分かっています。
貴女にとっての自明性の在り方が、他の人とは少し違うことが、私には理解できるから。
返信する
表明か悩みか... (桂蓮)
2018-09-30 19:09:39
恐山ブログのコメント欄が再開された。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim

そこが閉じていたから、ここを再開するようになったが、
もう開けておく必要が無くなってしまったような気がする。

コメントをもらうことと返す(還す)ことは
心に予期せぬ風を迎えることに似ているかもしれない。

もらいたくない疲れるだけの礼儀正しいコメントをもらって
そのまま返さず、置いても
気に成るし、
礼儀正しくコメントに
礼儀正しく返事を返すのも
もう疲れてしまった。

そんな社交辞令コメントに疲れ果ていた時に、
ZIPさんの簡潔で切れのいい、単純明快なコメントの斬り方は
私に息吹のような
癒しでもあった。

ZIPさんの私に礼儀正しくいるように強制しない緩さが心地良かった。

だが今、再開した意味が無くなって
いつ、何が動機になって
このコメント欄を閉じることになるかについて考えている。

閉じるとZIPさんとの関りも閉じられるが、
恐山ブログでまた交流はできるから
切ることにはならない。

だが、他の礼儀正しい人から
社交辞令的なコメントももらいたくない。
また、私を評価してくる裁判官に接したくもない。

かと言って
気に入らないコメントだからと
嫌なコメントだけ削除するせこいやり方もしたくない。
(コメント欄を閉じる寸前に嫌なコメントを削除したが、削除した自分の行為で結構苦しんだから)

15年間、塾をやってた時
生徒、講師、保護者、塾関連の業者の方々に
私は最善の礼で対応することを心かけたてた。
今、公の模範的な在り方から解放され
やっと、自由になれた。

だが、このブログ社会に入って
また、その社交辞令をすることを暗黙で要求される。
それに従わないと表明したら
怒りや憤慨が返ってきた。

ややこしい人間関係はもう切っても
切らなくても
もう影響下に置かれなくなったが、

このコメント欄を公開することで
避けられない人とのぶつかりには
もう耐える気力が失せ続けている。

こんなに、独り言を書くのは
書くことでうっぷんを晴らしたいからか...

ここと恐山以外で
コメントしたことが原因で
人の本音の醜さの蓋を開けてしまったことがあった。

本音で人を害し、
本音で人を貶し、
本音で人の縁を切る。

その切られた対象になってみて
全ての謎が解ける。

負があり肯がある...






返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-30 10:18:02
ZIPさんのおかげさまで
私が重いがために中身を軽くさせて、無視していた側面に気づくことが多くありました。

自分の名誉みたいな名前の価値を上げることと無関係なかかわり方をして頂き、私こそ深く感謝しております。

多くの人は
人と関わっていく過程で
自らの評判を上げて
自らの存続価値を高めることを前提で
条件付き付き合いをしていると受け取る場合が多いのですが、

ZIPさんはその傾向がほぼないように見受けられます。
純粋に私と言う個人に向き合って頂き、
社会的な立場も去っておかれ
私の核心に迫った対面を承ったことに
常に感謝しております。

鎖のない、関係性...かもしれませんね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-09-29 11:53:11
桂蓮さんのおっしゃる通り、関係すること自体に目的を置いているわけではありません。
関係は続けるか、続けないか、ただそれだけの事です。

関係を続けることで得られる結果が、良くも悪くも、分かること、それが私にとって関係を続ける意味であり、分からない限り続けるしかないのです。

続けたくとも拒否されれば、それは分からぬままになってしまう事は承知の上のです。
また逆に、こちらが分かりたくなくとも続けられてしまうことも当然あるわけです。

続けなければならないほど、分かりたいことに
出会えることはそうそうないのではないかと思うのです。
続けることは、分からないことを分かり続ける
ことであり、それは自分という出来事でもあるわけです。

今までお付き合い頂き、深く感謝致します。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-29 03:16:00
ZIPさん特有の、ZIPさんらしさとでも言うべき解読の感じ方(捉え方)ですね。

私を含めた他の読者の方々の中に、特有の捉え方に多少の親近感を感じている方が多分おられるのではないかと思われます。

ことばに対しての感じ方が、
ZIPさん特有のものであることはさておき、

良しにつけ悪しきにつけ、
新たな関係性に超然しているその根底に在るものは、
人としてもう少し今よりもマトモでありたい、
より良くありたい、
しっかりしたい、
と言った上昇志向以外にも、

変わりたい、
踏み出したい、
超えてみたい、
という漠然とした変化に根ざす
可能性に突き動かされているわけです。

自分の知らない何かが、
自分を変える何かが
きっとあるはずだという可能性を否定できないが故に、
そうせざる得ないのです。

でも、ZIPさんにとって関係性というものは、
それほど意識して、
どうこう言う程のものではないはずでしょう。

上昇志向や自己超越性など、
わざわざ関係説というものなど理由にしなくても、何も問題はないはずです。

ある意味、このことがZIPさんの強みでもあり、
また、他人から距離をおかれることでもあるわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-09-29 02:47:17
[愛]は執着だから愛と言う言葉は使わない。
慈愛と言う言葉では無くて慈悲と言う言葉を使う。

しかし「悲」も執着そのもので、仏教上論理矛盾をおこす。慈悲もヘタをすれば上から目線の嫌味になる。

愛・悲関係なく
相手に対する敬意の念を心にいだく事こそが肝要なのでしょうか。対人関係で、また夫婦間に於いても・・・

どうぞご主人さまに対して敬意をもって接してあげてください。そうすれば寂しさなど起きないでしょうし。


返信する
Unknown (ZIP)
2018-09-29 00:28:00
桂蓮さん特有の、桂蓮さんらしさとでも言うべき寂しさの感じ方ですね。
私を含めた他の読者の方々の中にも、多少の違和感を感じる方が多分おられるのではないかと思います。
寂しさに対しての感じ方が、桂蓮さん特有のものであることはさておき、
良しにつけ悪しきにつけ、新たな関係性を求めてしまうその根底に在るものは、人としてもう少し今よりもマトモでありたい、より良くありたい、しっかりしたい、と言った上昇志向以外にも、変わりたい、踏み出したい、超えてみたい、という漠然とした変化に根ざす可能性に突き動かされているわけです。
自分の知らない何かが、自分を変える何かが
きっとあるはずだという可能性を否定できないが故に、そうせざる得ないのです。

でも、桂蓮さんにとって寂しさというものは、それほど意識して、どうこう言う程のものではないはずでしょう。
上昇志向や自己超越性など、わざわざ寂しさというものなど理由にしなくても、何も問題はないはずです。
ある意味、このことが桂蓮さんの強みでもあり、また、他人から誤解を招くことでもあるわけです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-28 15:49:48
izukun様、警告ありがとうございました。

ですが、私のブログが悪用か善用か、どちらでも使われて構いませんので、お気を使わず
また気になさらず

私は読者登録ありがたいとのコメントが
一番嫌いなので
後で、削除したくなったら削除します。

読者登録したのは
お返しが欲しくてしたのではなかったので
気になさらず

返信する
まことに申し訳ありません! (izukun)
2018-09-28 15:31:44
桂蓮さま

登録ありがとうございました。
米国にての研究活動、さぞ充実された日々をお過ごしのことと拝察いたしました。

さて、当ブログをご覧になっておわかりと思いますが、思わぬネット悪用者の問題で困惑しております。
初めに気がついてupされた方はご自身のブログを閉じ、別の被害者は読者に迷惑がかかることを懸念して、読者登録をすべて解除されております。

私も同様にすべきかどうか迷っているところです。既登録の方々についてそんな状態ですので、桂蓮さまの新登録は拝辞させていただきますので、悪しからずご了承くださるよう、連絡申し上げます。
事態がおさまり、まだ私がブログを続けているようでしたら、是非とも再度の登録をお願いいたします。
取り急ぎお詫びまで。草々
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-28 13:00:11
去年、恐山坐禅修行のため日本に行った時、
一人住まいの元夫に安否確認に行ったら、
私が日本を離れてから
誰にも会わず、家に引きこもりになって
外に出ないから
筋肉が衰えて
骨と皮しか残っていなかったでしたね。

家の掃除も全くやってなくて
私がたまに行って掃除、整理したままでしたね。

それで、毎日掃除をして
全てを洗って
家具にこびりついたたばこの黒ばみも洗い落として
布団のシーツを変えて
カーテンを洗って
使わないものをゴミ処分して

彼の親戚に連絡して
彼がどのような状況なのかを説明し
どうするかを親戚全部宛てに書いておいて

寂しさ...
簡単に言えますが
その現状は厳しかったです。

日本に3週間滞在しましたが、
彼の世話で
他に会いたかった人にも会えず、
掃除と世話三昧でしたね。

寂しさ、思いついたことはそれかな...
返信する
Unknown (ZIP)
2018-09-28 10:11:42
その根底にあるのが「寂しさ」なのでしょう。
その寂しさ埋める行為が様々な形で欲望として現れているのが社会であり、世の中であるわけです

寂しさを埋める行為が、恋愛であり、結婚であり、宗教でもあり、ネットの世界でもあるわけです

「寂しさ」が厄介なのは、「欲望」と直結し易いことはともかく、自分がそのままでいいと思えない事、現状を維持・肯定できないと思ってしまう事に尽きるのではないでしょうか。
返信する
Unknown (独り言)
2018-09-28 09:10:35
私のブログ発生源である恐山ブログ、
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/b370b8e74b6c062b19ed2b4ec5155aca
コメント欄を停止してから
一か月あまりになる。

恐山院代、南直哉師の自持ちブログだが
記事をアップする度に
何百のコメントが寄せられて
コメンテーター同士のチャット場になっていた。

記事と関連が無い、差別的なコメントは削除されても
多くの人がコメントを残していた。

私も結構なほどコメントをするレギュラーであったが、例外なく削除されたりした。

恐山ブログが切っ掛けで
今だ心の師匠として尊敬しているTに出会い、
この頃、簡潔なまとめをしてくださるZIPさんにも出会い、
その他、きっぱりと私の意見に対抗して下さる人々に出会った。

このブログのコメント欄を再開したのも
恐山でコメントができなくなり、
世と断絶された息苦しさに耐えなくなったからだ。

一方からの閉が一方の開になっているのは
何だか皮肉な感じもする。

私もコメント欄を閉じてた経験があるから
恐山ブログ主がコメント欄を閉じたことを理解できる。

コメントの大部分は
批判、賛同、同感、反対、分析
挨拶、義理のコメント、論争、自己開示など
その恐山コメントは
宗教論争も火花が散っていた。

それらのコメント群も
ブログ持ち主がアクセス数とか
人気順位とかを気にしていなければ
コメントの多数に意味をおいていないだろう。

ただ、精神的な疲れがとれて
再びコメント欄を再開できる日が来ることを祈っている。




返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-28 07:10:51
私が実際、仏教の教えに接したのは
中学1年の友人の家に行った時でした。

その前は
迷信のように信じている祖母に連れられて
お寺とか仏教行事に私の意志に反して
同行させられただけでした。

とにかく、私の友人の母親は
仏教信者で部屋に仏教の教えに関する冊子がありました。

そこに
『愛とは執着に過ぎない』と書いてありました。
(何事も徹底できない衆生の為の慰めとして、すがるに値する:このニュアンスが隠れていたような)
それを読んで
13才の愛を夢見る処女として
非常に不適切だと憤慨してました。

ですが、人生の経験を重ねている過程で
その憤慨を覚えた教えが
事例になっていることを見つけて
その教えが断定的な間違いではないと思ってきた時がありましたね。

ZIPさんへの応答になっていないでしょうけれど、
あの時に私が覚えた憤慨感と
あとになって、私の捉え方が変わっていく過程で
その無知による憤慨感について考えてたことも
思い出されたりしたので
書いてみました。

愛、結構自利自得のために使われていますよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-09-27 13:42:27
I agree with ZIP.
He seems very smart and intelligent guy.
He must be cool.
返信する
Unknown (ZIP)
2018-09-27 09:56:42
仏教的見地から見れば、愛とは何事も徹底できない衆生の為の慰めとして、すがるに値する
執着に過ぎないと言ったところではないでしょうか。
愛というもので不徹底さを擬装をしている限り後々後悔することは必定であるという教えは
以外と分かりにくい教えであると同時に、敬遠されがちなものです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-27 06:37:20
ZIPさんから解説してもらい
私が感じていたが言葉に定義できなかった事柄を明確にしてもらえ、頭が軽くなったような感じがします。

昔、若かった時も
相手がどんな人であれ、関係の本質を歪めることせずに、
事実を優先する関係性を保ってきましたね。
事実を優先させることから生じる不利益や不利を正面から受けてきましたね。

だが、どうしても『相手の愛で得られる利得』を拒むことはできなく、それを利用しましたが、
利用した際には相手の了解を得てました。

感情面でペアプレイしたつもりですが、
それを実際実行してきたから
結果的に人間関係が少なくなりましたね。

塾をやってた時、どうしても嘘をつかなくてはならない状況が多くありましたが、
嘘をついた時は、嘘をついたことで
相手に害を与えない場合のみに限定してましたね。

しかし、経済的な金銭面の利益に関わると
嘘をついて得られた結果が
相手と私に損得被害に関わらない程度内で
嘘を言ったりしましたね。

モラルの処理、美徳の扱い方など
それらが経済的な損得勘定とごちゃ混ぜにならないよう努めてきた気がします。

なんだか、私個人の生き方説明になってきましたが、
ZIPさんの言葉は
私の考えや行いを改めて考えさせる力がありますね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-09-26 22:51:34
結婚することで社会的に世帯という単位を構成することになるわけですが、
そうする事で、一人前とか、一丁前といった属性を我が身に纏いたがるのは、一端の大人になる為であり、そう呼ばれたいのに他ならないからでしょう。
しかし、実際にはパートナーとの共同生活は、
自分の期待や、予期に反して、中々思うに任せない、といったところが現実ではないでしょうか。
一端の大人ぶる為には、やはり「愛」は必要なのでしょう。
愛すればこそ、それらの乖離性を覆い隠せるし
複雑な感情に囚われることなく、考えずに済ませられるのではないかと思うのです。
思慮の浅い選択を可能にするのが「愛」であり
愛することで複雑な感情も処理できるのでしょう。
そういう意味では、桂蓮さんの態度は、
愛で誤魔化されることを良しとしない、
かなりの現実的行為主義の人であると思えるのです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-09-26 13:33:18
ZIPさんの制度における愛の装置には
私が根本的に考えていることと共通する箇所があります。
私は俗にいう『アイラブユー』に強い不愉快感があって、今まで3回(ジョークとして)しか使ったことが無いほど、使っていないです。

至福、この言葉を知ったのは
大学生の時の心理臨床の授業でした。
『福に至る』
なんって、響きがよいだろうと感激してました。
社会心理の授業で
ゼミの一つが幸せについて研究することだったから
幸せや愛着といった個人の感覚範囲の価値判断に
ある程度、深いところまで研究したことがあります。

厳密に
幸せだと感じることと至福に至る感じを受けることには
別の次元の感じがしていると思います。
(心理学ではこれを実際実験で証明しようとする人もいましたね)

言いたいのは、
愛していると言った時点で
相手に何かの価値に相当する行為を要求することになるだろうと思えたりします。

強いられた感情に応えずに苦しむ人もいれば
強いられても無視できる人もいますよね。

私は人からある感情のレベルまでついてくることを要求されるのに怒りさえ感じます。

勿論、私の夫や過去に知り合った人に
その言葉の使用を禁止してますし。

制度の一環としての結婚
ですが、それが国際になると
これはこれは
書類100%、法律100%になるわけです。

うちらが移民のために準備した書類は
箱に入れても積もれます。

制度だと言い切れない範囲でしたね。
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Unknown (ZIP)
2018-09-26 00:13:14
結婚することの根拠は、世間におけるごく一般的な形態に自分をはめ込むことによって、社会に認めてもらい、社会に参加することで、自分を一人前として限定づけることを目的にしているわけです。
要するに、自ら社会という型にハマリにいくことで、これまでの自分を更新することが主な理由になっているとしか思えないわけです。
更新する決意を幸せとして変換する手前勝手な
思い込みがなければ、結婚には至らないのではないでしょうか。

幸せという意味を、自分を更新すること、
即ち、生産性として貢献できる事と解釈するのであれば、変換する為の装置が「愛」であると言えるのではないでしょうか。
結婚は必ずしも制度として強制ではないですが、
暗黙の制度として成り立たせる為に「愛」という装置が使われていると思うのです。
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Unknown (桂蓮)
2018-09-25 20:13:40
のしてんてん様へ

私は初婚も再婚も結婚式をあげなかったので、
式の大変さが分からないのです。
ですが、塾長をやってた時に
講師達から結婚式に招待されて
全講師が出席したりして
本当に盛大に送りあげてましたね。

結婚式を挙げられなかったのは
式を挙げても来られる家族が一人もいなく
友達付き合いも極少なく
私側からはゼロ状態になるから
辞めてましたね。

愛が哀に変わる、現実的で苦いジョークですよね。
苦笑いしました。

今は朝の7時ですが、
昨日の朝からずっと起きているので、
2回目の朝を迎えています。

なので、何時間か前にメールを送ってますが、
まだお読みになれていなかったようですね。
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Unknown (桂蓮)
2018-09-25 20:02:51
参考までに

激賛して頂いた『馬とモンゴル』さんのブログは
モンゴルの写真と分かりやすい解説を載せているブロガーの一人です。
グーグルアクセス解析に現れるモンゴル発信は
おそらく馬とモンゴルさまからのクリックした分でしょうね。


馬とモンゴル様へ
この記事が最高だと絶賛されて嬉しいですが、
私本人はどうして最高になれたか
訳が分からないでいます。

私が記事を書く時は
誰か、読んでほしい人を心の中で指定して書きます。
今回は特に、結婚生活で悩んでいるフランス人の私の友人宛に書きました。

私は以前、日本で塾長を15年やったことがあり
もう人に説教調になるのはゴリゴリなので
自分のことを例えながら
迂回して、間接的に書いたつもりです。
それがお気に召された結果になり
嬉しく、またコメントまで頂きありがたいです。
返信する
結婚(命+制度) (のしてんてん)
2018-09-25 18:48:27
私は結婚して32年を越えますが、最も制度として意識したこ時は、結婚式でした。

その入口がなければそれはないという考えで、つまり社会制度として考えていたのではないかと思います。

もちろん、そんなめんどくさい儀式を潜り抜けた原動力は命の作用(愛)があったのは確かなことですけれど、そんな作用は制度に隠れてほとんど見えなかった気がします。

つまり結婚それ自体が人工的だということなのでしょうね。

しかし命は宇宙
宇宙に合う人工服は存在しないという訳ですね。

冷静に考えれば、宇宙に宇宙を重ねられるのは(愛)しかない。

私の場合(愛)が(哀)に変化しつつある気がしないでもありません^が^・・

制度は変わったり壊れたり、互いを幸せにしたり傷つけ合ったりしますが、

桂蓮さんのおっしゃいますように、

「結婚生活が幸せだとか、完璧だとか、理想的だとかの、ある断定的な状態に結論つけないようにしている」

という見識に私も賛同いたします。

制度に問題があるのではなく、どう生きるか、どう生きてもらいたいかという(愛)の問題として考えるべきなのでしょうね。

ところで、頂いたメールに返信いたしましたが、届いているでしょうか。
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最高の記事です (馬とモンゴル)
2018-09-25 18:13:07
蓮の花さん

こんにちは!

貴女の今までのブログ記事で今日の記事が一番最高の記事です

以前から危ぶんでいました

そしてコメント欄を閉じ心配していましたがきっとドアを開けてくれるだろう念じていました

その時は今までの貴女じゃなく日常の貴女に戻り世界中の人に愛されるブロガーになれることを願っていました

小難しい学術的な記事より身の回りの記事が貴女には素敵です
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Unknown (桂蓮)
2018-09-25 08:32:48
この記事にした理由は

このブログ会社のリアルタイム解析結果と違い、
Google Analystic結果は
このブログは英語圏の人に高い比率で読まれている分析があるからだ。

今まではこぼGooブログ会社の解析だけ参考にして
日本内の英語を勉強している人に向けて書いてきたのだが、
他の国々で日本語を学ぼうとする人達にも読まれていることが分かった。

将来の進路(本業として決めていること)のためにも
これからは英語をメインに日本語を二次的にしていくのが効率的に思われる。

この写真は
去年、日本に行くビザ申請のため
アメリカでパスポート更新するために撮った。
この写真を撮ってから
NYの韓国大使館に行って
ビザの更新やパスポート更新をした。



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