よっちんのフォト日記

旅先や日常で感じたことを
写真と文章で綴ってみたい。
そう思ってブログを始めてみました。

藤原頼通-京都府宇治市:平等院

2024年05月10日 | 京都(京都市以外)
Byodoin Temple, Uji City, Kyoto Pref.


さてさて、平等院を訪れたワタクシ達は、改めて鳳凰堂の美しさに感嘆していました。
鳳凰堂を建立したのは言うまでもなく藤原頼通なのですが、この頼通の人生というのもなかなか興味深いんです


藤原頼通は、藤原道長の長男として992年に誕生しました。朝廷で圧倒的な権力を持つ父の力によって異例のスピード出世を遂げていき、
わずか26歳で摂政の地位につくのです。ですので、頼道は生涯を通して道長には頭が上がらなかったようですね


当時、摂政に就任するのは、天皇の親族や配偶者というのが一般的でした。そのため、藤原道長は66代一条天皇の妃となった藤原彰子を筆頭に、
4人の娘を次々と天皇へ嫁がせています。こうして、藤原道長は娘達に将来の天皇となる男子を産ませ、
自らは天皇の「外戚」となることで摂政の座を手に入れたのです。ちなみに摂政は天皇が幼少時に、関白は天皇が成人した後も
名目は「天皇を補佐して」ですが、実質的には天皇に「とって代わって」政治を行う役職です。
藤原氏が摂政、関白を独占したことから、この時代の政治を「摂関政治」と呼ぶわけですね


摂政となった頼通は、その後3人の天皇の関白を務め、実に52年間も関白の地位に就いています。
藤原頼通は道長のように天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇へ嫁がせました。
しかし期待していた男子には恵まれず、これが摂関政治の終焉につながったとされます。
関白を務めた3人の天皇が亡くなると、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなり、藤原頼通の権力は弱まります


そして長年対立してきた、尊仁親王が71代後三条天皇として1068年に即位しました。
後三条天皇は約170年ぶりに誕生した、藤原氏と血縁関係がない天皇でした。
後三条天皇は藤原氏に遠慮することなく政治改革を推進。政治の実権を天皇の手に取り戻していきます


一方、藤原頼通の時代には、それまで表面化しなかった問題が次々と噴出します。
1028年、上総国(現在の千葉県)で国司の圧政に不満を持つ平忠常が反乱を起こします。
藤原頼通は討伐軍を送ることを決めますが、縁起の良い日をわざわざを選んだため実際に派遣されたのは約40日後というありさま。
その間に勢いを得た反乱軍との戦いは長引き、鎮圧まで3年を費やしました。
この辺りは「迷信」「陰陽道」などを盲信していた平安貴族らしいと言えば、「らしい」ですね


1039年には比叡山延暦寺の内部抗争がもとで、僧兵が藤原頼通の屋敷に火を放つという事件も起きています。
東北地方では、豪族の安倍氏の朝廷への反抗による「前九年の役」が勃発します。1051年から12年間にわたって戦いが続きました。
当時、地方には朝廷の力が及ばず、また朝廷の貴族達は一族の出世ばかりに目が向いていたため、地方が大いに乱れ治安が悪化。
やがて武士の台頭を招くこととなり、世の中は貴族から武士(平氏や源氏)の時代へと変わっていくのですな


こう書いていくと、藤原頼道という人が幸せだったのかどうか、ワタクシは疑問に思ってしまいます。
ワタクシなどは父親が出来の悪い人物だったので、父親は反面教師ではありましたが、父親から指図されることが無かったのは
気楽と言えば気楽だったのかもしれません

使用したカメラ:4、5、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2


世の中には「権力志向」が強い人と弱い人がいますが、私は全くと言っていいほど権力志向がありません。
ですので職場においても上の人に取り入ることも媚を売ることもなく、派閥的なものにも全く無頓着でした。
そのために損をしたこともあったのでしょうが、それでよかったのだったと思っています。



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