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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

イザヤ書66章

2020年07月09日 07時11分06秒 | イザヤ書
66章 主のことばにおののく
おはようございます。イザヤ書完読です。神が忌み嫌われるのは、偶像崇拝と形式主義的な信仰です。これは、イエスが戦った宗教的二大悪というべきものでしょう。イエスはそのために十字架につけられ、嘲られましたが、最終的には復活の勝利に与ったのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神のご計画と業
イザヤ書は、黙示録と重なる興味深い書である。黙示録も、基本的に新しい出エジプトを語り、終末のビジョンを指し示す。そしてそのビジョンを共有する今の心の幸いがある。
 さて66章は、65章に続く神の応答であるが、まず1-5節、神は「貧しい者、霊の砕かれた者、神の言葉におののく者に(2節)」こそ目を留めるとされる。神は霊であり、目に見えないお方である。だから、偶像を造り、その神のために神殿を建て、献げものを携えて崇拝に熱中する者たちを、神は罰せずにおられない。5節は、「今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」という十字架上のイエスに対する嘲りを思い出させることばである。祭司長や律法主義者たちは、イエスの神に対する熱心を嘲ったが、最終的に、神の怒りに触れて度肝を抜かれたのは、彼らであった(マルコ16:32-39)。
神のみことばは必ず時至り実現する。しかも、人が予測するよりも一歩先にそれは実現する(7節)。突如、一瞬にして、ということがある。確かに、主の日は盗人のように来るのであり、教会は神の御国の種を宿し、それを生み出そうとしている現実がある。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」(9節)。捕囚帰還然り、出エジプト然り、キリスト者が希望を抱く神の国も然り、それは時至れば必ず起こりものである。空しい希望ではない。そして信じる者は皆、乳飲み子のように愛される安息の平和を享受する(12-14節)。だから、その望みを抱いて、今を喜び生きるように、と神は語る(10-11節)。
2.形ではなく、真実に主を愛す
 15-17節は、再度、偶像崇拝に対する警告である。神が忌み嫌うのは、偶像崇拝、まことの神の否定である。しかし、形式的な礼拝も同じように忌み嫌われる(23-24節)。まことの神を愛する熱心を、明らかにしたのがイエス・キリストであった。そのイエスがこの24節を引用して、当時の偽善に満ちた律法主義、形式主義の信仰者を批判している(マルコ8:48)。イエスは申命記を愛読された、と何かの書で読んだことがある。申命記の主題は、神の愛であるから、確かにそうだろう。だが、イザヤ書の最後の節を引用するイエスの心は、やはり、まことの神に対する霊的な愛と信頼を語る、預言者の心にも深く共感しているようだ。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。」(22節)神はもはや、全世界からご自身を求める者を、霊的なエルサレムに集められる。その日は近い。その救いの中心に立つのは、目に見えない神を真実に恐れ、そのみことばに心から従い、その武骨さのゆえに嘲られるわずかな信者である。世の形式からすれば、神の祭司、レビ人となるには無資格とされる者を、神はお選びになり、その者たちによるまことの礼拝を受け入れられる、と言う。形を整えるのではなく、心において神に繋がる信仰が求められている。

イザヤ書65章

2020年07月08日 07時01分55秒 | イザヤ書
65章 楽しみ喜べ
 おはようございます。人は過去の記憶の中に生きている者です。しかし、未来の展望の中に生きている者の生き方はまた違います。主の御国の素晴らしさを思い、そこに向かっている者として歩ませていただきましょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の答え
 先の預言者の祈りに(63-64章)、神が応答している。本来は、イスラエルの民にこそ、与えられる祝福であったのに、彼らは、神に従わず、偶像礼拝に陥り(3節)、異国の異教的習慣に染まり(4節)、律法を守らず、その心は神から遠く離れていた。神はそのようなイスラエルに対して厳しい裁きを告げられる(6、7節)。しかしそれは神の本意ではない。
神は愛であるから、主の名を呼び求める者には、あわれみ深い。いつでも答えてくださる。たとえ、神を尋ね求めず、頑なに、良くない道を歩む者であっても、神は「わたしはここにいるから」と待ち構えている、と言う(65節)。預言者が、期待したとおりの神である(64:4)。
大切なのは、人の神に向かう心である。人が、この神の祝福を受けようとするか否かなのである。ただ、それは、必ずしも、信仰者として模範的な生き方をしているかどうかを意味しているわけではない。むしろ、神の哀れみに寄りすがって、主に従って生きているかどうかである(13、14節)。
2.他の名の祝福
だから、他人がどうであれ、主の前に真実に生きる小さき者があれば、神に見過ごされることはない。腐れたぶどうの房の中に、一粒の甘い実があるなら、それは損なわれないと言う(8節)。彼らは、神の約束の地を相続するのである(10節)。実に真実な者に対する神の細やかな目がある。「ガド」は言ってみれば福の神、「メニ」は運の神として拝まれた偶像である。これら偶像の神を拝み続けるのではなく、まことの神のみを拝すべきことが勧められる。偶像に執着する者にはのろいを、これと決別し、神に立ち返る者には「ほかの名」を、つまり、もはやこれまで貼られた不名誉なレッテルはすべて取り去られる、というのだろう。
3.新天新地の祝福
 さらに神は答える「先ことは思い出されず、心に上ることはない。」(17節)。人はいつまでも過去の記憶に生き、落胆しているものだ。「曲がったものは真っ直ぐにできない」というが、まさに、曲がりきって、よれてしまった人生に何の希望を抱くことができるだろうか、と考えている。しかし神は言う。「わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」神は創造の神である。神に不可能はない。期待は棄ててはいけない。しかしより大切なのは、人が味わうべき祝福は、何かを所有することよりも、何かを共有することにあることだ。もうすぐ、悲しみも叫び声もない、御国の約束が訪れる時が近づいている。以心伝心というがごとく、神と人の心が、打つ前に響くごとく通い合う時が近づいている(24節)。25節は、11:6-9の引用であり、御国の祝福を語る。もはや、争いもなく、平和で静かな時を永遠に共有する、そこに向かっている者として、この社会の喧騒を超えて生きたいところだろう。

イザヤ書64章

2020年07月07日 07時22分38秒 | イザヤ書
64章 奮い立って主にすがる
 おはようございます。63章に続く、預言者イザヤのとりなしの祈りです。ただひとりでぶどう踏みをした神に対比し、ただひとりでとりなすイザヤの姿が印象的です。ぼんやり物事を考えてしまいかねないCOVID-19禍にあって、大事にすべきことが見えてくるように。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.驚天動地の事態が起こらんことを
63章7節から続く預言者の祈りとなる。既に見たように、預言者は、「わたしの側に立つ者はだれもいない」(63章)と語る神に共感して、人間のはなはだしい罪深さに心を留めている。「私たちはみな、汚れた者」「義はみな、不潔な衣」「枯れた木の葉(6節)」と語るように、預言者は、人間の現実を厳しく見ている。そのような預言者を極端に思い、受け入れがたく感じる人も多いことだろう。誰も彼もが悪いわけではないだろう、と。しかし、神の義は人が考える程度のものではない。かつてペテロは変貌山でイエスの聖さを目撃し、それは「この世の職人にはとてもなし得ないほどの白さ(マルコ9:3)」であると伝えたが、もし神の義、神の聖を目撃することがあれば、人は自分の何であるかに恐れ震え、沈黙せざるを得ないことだろう(イザヤ6:5)。だが人間の感覚は余りにも鈍麻し、現実にはそのようにはならない。だから罪深き人間が救われるとしたら、神が「天を割いて降りて来られ」「山々が揺れ動く」、想像を絶するような、見たことも聞いたこともないことが起こらない限り、到底不可能と言うべきである。使徒パウロは、この4節をコリント人への手紙の中に引用し、十字架の出来事がそうであった、と語る(1コリント2:9、10)。確かに、人の罪に赦しのためにいのちをささげたイエスの十字架は、たましいを心底揺さぶる驚天動地の出来事であった。だが預言者はまだその十字架を知らない。
2.どうか、主よ
だから9節以降の、預言者の神に対するとりなしは叫びに近い。サマリヤの陥落という歴史的な事件を目の当たりにし、残されたユダに対する神の裁きを確信せざるを得ない状況にあって、預言者は祈らざるを得ないのである。実際後にバビロン捕囚を経験した読者は、その惨状にあって、「主よどうか激しく怒らないでください」と祈らざるを得なかっただろう。そのように祈る何の権利もなく、討ち滅ぼされて当然で、静かに身を引くべき立場にあろうとも、いじましくも、人間は命ある限り回復を願わざるをえないのである。神が愛であるとすれば、やはりあつかましくもそこに希望をつなぐのである。そこで、回復を求めて、代弁する、それが預言者の祈りであった。ただ一人「ぶどう踏みをした」神の姿に(63:3)、ただ一人とりなす預言者の姿が浮かび上がってくるところだ。
ウィーンでグラーベンのペスト記念碑を見た時に、このようなものはもう昔話かと思ったが、愛の神の懐に飛び込んで訴える祈りが、再び求められている時代である。というのもCOVID-19禍が見せてくれたのは、まさに、病の怖さよりも、その病にあって立ち振る舞う人間の罪深さではなかったか。しかしその罪深き人間を見捨てることのない深き神の愛に訴えて回復を祈る使命がある。イザヤはその列に加わるように招いている。

イザヤ書63章

2020年07月06日 07時10分55秒 | イザヤ書
イザヤ書63章 主のたぎる思い
 おはようございます。61章、62章は、私たちに希望を与える素晴らしい主の励ましのことばでした。しかし63章は一転して、私たちの現実を語ります。そして、主の励ましが私たちのものとなるようにとりなす預言者の祈りが心を打つ一章です。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.だれもいない
 エドムは、死海の南に位置する。ボツラは、その主要都市であり、エドムの王ヨバブの出身地である。もともとヤコブの兄エサウに起源を発したが、イスラエルには友好的ではなかった民族で、神の都シオンに敵対する勢力の象徴とされた。
1-6節は劇詩形式で描かれている。つまり、聖歌隊が舞台の一角から「エドムから来るこの方、ボツラから深紅の衣を着て来るこの方は誰か(1節)」と呼びかけると、舞台の中央に、深紅の衣を着た主ご自身が現れて、「私は救いをもたらす大いなる者」と歌う。そして聖歌隊が「なぜ、あなたの装いは赤いのか」と尋ねると、主が「わたしひとりでぶどう踏みをし」、「私の装いをすっかり汚してしまった(3節)」と答えている。つまり、神は敵対する暴虐のエドムと戦い、これを裁かれたと言う。これはイザヤ書34章の再述であるが、単純にエドムに対する裁きを語るのではない。その趣旨は、敵対者に、裁きを執行したものの、だれも神を助けて正義の戦いを共にする者はなかった(5節)、イスラエルですら、神と行動を共にせず、神がただ一人、血だらけになって奮戦したと激白するところである。エドムであれイスラエルであれ、神の義に立たない者は皆神の敵とされている。こうしてこの箇所は、最後の審判者イエスの姿を思い浮かべさせられることになる(黙示録5:4、19:13)。
2.預言者のとりなし
第二幕、聖歌隊と主役の主が退くと、神のあわれみを請い、とりなしの祈りをする預言者が登場する。だから人称代名詞は、7節から「わたし」が「私」となりわけだ。
まず預言者は、神がイスラエルに与えられた過去の大いなる恵みを回顧し感謝する。イスラエルの子らは、今こそ責められてはいるが、まことに神の子である。神ご自身がそうおっしゃったではないか、と(8節)。彼らが苦しめば神も苦しみ、ずっと昔から共にいてくださったではないか、と(9節)。裏切ったのはイスラエルの方であり、弁解の余地もない。何ともバツの悪い思いにありながら、それでも、窮地にあっては、まことの神の子として、かつてのモーセの日々を思い起こし、あわれみ深い父のあわれみにすがる他はない(11-14節)。「私へのたぎる思いとあわれみをあなたは抑えておられるのですか(15節)」。預言者は、神の懐に飛び込んで、自らの窮状を訴える。預言者に、神の愛と熱心を疑う心はない。そして物事の解決は、神が自ら行動を起こす以外にはないとわかっているのである。だから神に見捨てられたようなイスラエルに代わってとりなし「どうかお帰りください(17節)」と絶叫している。今の日本に必要なのは、このような祈りなのだろう。「たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ」と叫び、同胞の癒しと回復のために、愛の神の懐に飛び込み、とりなす祈りである。

イザヤ書62章

2020年07月05日 06時54分32秒 | イザヤ書
62章 新しい名を与えられる
 おはようございます。聖書を読み、思うことは、まことの神の愛の深さ、そのことばの温かさが心に沁みるところではないでしょうか。人生簡単に諦めてはなりません。神とともに再出発する心を持ちたいところではないでしょうか。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の悦子
「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために沈黙はシナイ。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは(1節)」なんと力強い励ましの言葉だろうか。心を深く揺さぶるような神の語り掛けである。そのように、神の声を聞き、信頼していくのが信仰というべきものだろう。いつまでも自分を枯れ木だ、何もかも失い、老いぼれて、ボロボロの自分に何の望みがあるのか、と言ってはならない。神の声に耳を傾けよ、である。神は、「あなたは新しい名で呼」ぶ(2節)と言う。人の評価はなかなか変わらないものだろう。一度貼られたレッテルを剥がすのも用意ではない。しかし、かつてイエスは、一介の漁師シモンをケパ(ペテロ)と呼んだ。そしてペテロが想像しえなかった新しい人生が始まった。神はことばであり、創造主である。神が「光りよ、あれ」と語れば光が生じる。無から有が生まれる。だから、もはやあなたは「見捨てられた」とも「荒れ果てている」とも言われない(4節)。矢内原忠雄は「日本流では「悦子」とでもいうところ」と注釈するが、神は、あなたを妻とし、あなたを「喜び」とする、と言う。まさに、花婿が花嫁に夢中になるように、あなたは大事にされるし、価値ある者とされる。大切なのは、どんな偶像がこのように語り掛けるのか、である。これまでイザヤは偶像崇拝を戒めてきた。そして、かくも温かい血の流れる作り物ではないまことの神の語り掛けを伝える。ためらわず、神に語り掛けに応じよ、である。
2.行動を起こせ
だから、「黙っていてはならない」。「主を休ませてはならない」と言う。要するに、神は、「わたしは黙っていない。その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と言うのだから、私に心を合わせよ、ということだろう。私と一緒にやろう、これからの人生は私と一緒に生きるのだ、という神の温かい語り掛けである。
 8-9節、10-12節、神の二つの約束が語られる。「わたしはあなたの穀物を、再び敵に食物として与えない。あなたが労して作った新しいぶどう酒を、異国の民が飲むことはない」もはや、これからの人生においての労苦に無駄はない、ということだろう。労した実が他人に取られ、残りカスを食らっていると思わされて来たなら、もうそのように思うようなことはさせない、と肩を落とす妻に語り聞かせる夫の決意がそこにある。労した実は、労した者が第一に受け取るべきである。公正さを示す神が、私たちに誓う。「通れ、通れ、城門を(10節)は、直接的には捕囚帰還を想定したものなのだろう。だが、今の時代に適用することもあながち間違ってはいない。「見よ、あなたの救いが来る」そのように語り掛ける、まことの神の愛に素直に感謝し、信頼して、歩むこととしよう。