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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

イザヤ書52章

2020年06月25日 06時28分57秒 | イザヤ書
52章 慌てなくてもよい
おはようございます。罪を犯した者に対する神の優しさが溢れる箇所というべきでしょう。神は、私たちの心を捻じ曲げないお方です。そうであればこそ、素直に心開き、神の言葉と取り組み、神と良く語り合う、よき時を持つべきでしょう。新しい人生の力はそこに生じるのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神は確かにおられる
 1節、「無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け」神は私たちに命じられる。もはや、誰も私たちを脅かす者はないのだから、いつまでも座り込んでいてはならない、と。むしろ、そこから立ち上がって元の座に着け、と。「力をまとえ」「美しい衣を着よ」と力強い。
3節、「あなたがたは、ただで売られた。だから金を払わずに買い戻される」捕囚の民は、戦争に負けたために、何の値踏みもされずに、ただで奴隷として連れ去られた惨めな者たちであった。そこで神はただで、つまり奴隷と言う不名誉な烙印を押すことなく、そのまま取り戻してくださる、という。
 神は、このイスラエルの苦境を、ご自分に対する侮りとして受け止められていたのである(5節)。神がおられる、神は愛である、というのに、このざまは何だ、というわけだろう。もちろん、イスラエルの苦境は、彼らの咎の故に起こったことであり、神の裁きに他ならない。しかし神はやはり愛であり、神は人が行く当てのない者であることを知っておられる。神は正義の神であり、祝福の神である。そうであれば、神はいつまでも怒り続けることはなく、いつまでも放っておかれることもない。ああ、確かに神はおられたのだ、確かに神は愛なのだ、とわかるようにしてくださる、と言う。
2.立ち上がれ
 このように生ける愛の神がおられるというのは実に「良い知らせ」であり、それを伝える者は、素晴らしい存在である。これをパウロはイエスの救いの知らせに適用した(ローマ10:15)。確かに神がおられて、万物の王であることを覚えればこそ「塵を払い落として、立ち上がれ」という命令も素直に受け止められよう。11節は、直接的には第二の出エジプト、バビロンからの脱出を語るものとされる。しかし、大きな文脈からすれば、私たちにも語り掛ける霊的な出エジプト、今閉じ込められた苦境からの脱出と言うべきだろう。そして12節に注目したい。「慌てて出なくてもよい」という。立ち上がる力がなければ立ち上がる力が自分の中に満ちてくるまで待つということだ。「主があなたがたの前を進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられる」。神は立ち上がれと言うが、それは叱咤激励ではない。神は「もう行こうか」と人が自分の足で立ち上がるのを待っておられるのである。
 13節以降は、第四のしもべの歌である。これまでの至高なるしもべとは反対に、低く卑しい、しもべの姿が語られる。そのしもべは、世界中の国々に認められ「驚かす」存在となる。いわゆる53章に続くイエスの十字架の預言である。確かにそれは「まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないこと」であった。神の愛の深さが語られていく。

イザヤ書51章

2020年06月24日 06時28分36秒 | イザヤ書
51章 神の祝福を信じる
おはようございます。「酔っていても酒のせいでない者よ」まさに、悩みに酔いつぶれている時は過ぎ去りました。「目覚めよ」と言います。人生の再スタートは、人が置かれた絶望的な現実からではなく、神が語りかけている現実から出発するのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神を信頼せよ
イザヤのメッセージは単純である。繰り返し、祝福の神に目を向けよ、と言う。アブラハムやサラがいかに祝されたか。跡継ぎもなく、ただ無器用に神に従っただけの老夫婦が、どのように祝されたのかを考えよ、という。神を認め、神に拠り頼め、そして神の助けを得よ、という。しかし、人は神を求めず、頑なである。そして、人のそしりを恐れ(7節)、人のののしりに心折れ、先に進めない思いの中でよどんでいることがあるものではないか。
しかし、たとえあなたをそしる者、ののしる者の勢いが、いかに強くあろうとも、神の力はそれ以上である。神は人に加勢してくださる。ただあなたが思うような方法ではなかったりする。人は、敵対者の攻撃を一瞬に除き去って欲しいと願う。だが神は、そのようにはなさらないことがしばしばである。じわじわと、私たちが苦しんでいる間に、敵する者も同じようにじわじわと弱めていく方法を取る(8節)。まさに敵に「燃える炭火を積む(ローマ12:20)」ことをもってよしとし、その結果は先に見ることになることがある。
大切なのは、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる」(8節)とあるように、神の正義は貫かれることだ。神に、信仰を抱く、信頼を置く、イザヤはただこの一つを語るが、人はその一つの真理の前に逡巡してしまう。
2.人を恐れるな
だからイザヤは言う。「目覚めよ、目覚めよ(9節)」「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。あなたは何物なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。13節「滅びに定められているかのように」恐れているのはどうしたことか。神には自然を支配する力がある(15節)、神を信頼せよという。嵐を恐れたペテロがイエスに語られたように、恐れる脅威などないのである。「酔ってはいても、酒のせいではない者よ(21節)」まさに、人は酒に酔うかのように、悩みに酔い、飲まれてしまうことがある。だがもうその盃を捨てよ、と神は言う。かつてイエスは、38年も病にかかり、ベテスダの池に伏せていた人に、「良くなりたいのか」と自分の人生の目的を思い出させたように、神はあなたに人生の目的が何かを問う。あなたは、打ち破れ、確かに今や無一文、孤立無援のごとく思っているかもしれない。しかし、アブラハムに倣い、何も持たざる老夫婦が、ただ神の祝福の招きに一歩を踏み出したように、立ち上がる時が来ている。かつて「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」(マルコ9:23)とイエスは言われた。まさに、「信じます。不信仰な私をお助けください」(24節)と、神のことばに身を投じるのだ。神の裁きは終わったとイザヤは言う。また十字架は、私たちの呪いの終わりを告げている。この神が語られた現実から出発するのだ。神の祝福を信じよう。

イザヤ書50章

2020年06月23日 07時11分41秒 | イザヤ書
50章 主は私を助ける
おはようございます。事態は常に逆である。そんな事実を考えなくてはなりません。神が私たちを忌むべき罪人として拒んでいるのではなく、人間が神を過小評価し、その器を小さく考えていることがあるものでしょう。神の偉大な愛の中に飛び込んでいきたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神は離縁せず、売り飛ばさない 
 1節「あなた方の母親を追い出したという離縁状は、どこにあるのか」ここで想定されているのは、母親と子に例えられるエルサレムとその住民である。エレミヤは、「配信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した(エレミヤ3:8)と語ったが、イザヤは、エルサレムについて言えばそうではないのだ、と言う。捕囚の民となり、国を失ったイスラエル、もはやだれも国の再興を期待することはできなかっただろう。それは離縁状を渡され見捨てられた妻に等しいことであった。しかし神は言う。その離縁状があるのなら、出してみろ、と言う。また奴隷のたとえが語られる。「わたしがあなたがたを売ったという、私の債権者とはだれなのか」(1節)、と。神は人を創造した。その創造者が人間を売却するのなら、一体誰がそれを買うのか。誰もいない。
 人には人を離縁する冷たさがある。あるいは人を売る残酷さがある。「一緒に幸せになろうね」と言いながら、いつしか疎ましくなり、自分の思いにそぐわぬことになれば、紙切れ一枚で関係を解消しようとするところがある。あるいは人のたましいの値打ちなど秤もせず、犬猫と同じように値段をつけて売り飛ばす蛮行がある。しかし、神は神であって人ではない。神が人を嫌うことも、見捨てることもない。むしろ、人が神を見捨てる。最初の人アダムがそうであったように、人が神に背を向け、自らを離縁させていく。
2.第三のしもべの歌
 4-9節は、第三のしもべの歌と呼ばれる。第一の歌(42:1-9)、第二の歌(49:1-6)、第四の歌(52:13-53:12)と、イザヤ書にはしもべの歌と呼ばれる一群がある。しもべは種々解釈されるが、第四の歌が頂点となるので、後でまた取り上げるが、神は、窮地に立たせられた人間の苦悩を見逃す方ではない。
だから、呼びかけておられる。自分の元に戻ってくるように招いておられる。しかし、人は、その神の愛を受けることができずにいる。自分は追い出された者、関心を向けてもらえない者と思っている。またもや人の心が神を堅く締め出している。事態は常に逆である。神は、闇の中にある人を助け出されようとしている。人が神を捨て去り、反逆の牙をむいても、神はそれを超えて私たちを助けられようとしている。「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(10節)。しかし、自分の力になおも頼ろうとするのなら、つまり、なおも「火をつけた燃えさし」に拠り頼もうとするならば、その結果は「苦悶の場所で伏し倒れる」(11節)ことになる、という。人の光ではなく、神の光こそ、まさに暗き世の光なのである。何の望みもないと思う時にこそ、私たちに熱い思いを持って救い出そうとしておられる主により頼もうではないか。

イザヤ書49章

2020年06月22日 07時23分24秒 | イザヤ書
49章 主のしもべ
おはようございます。聖書を読み、これが語られた時代背景を思い浮かべる時に、実にこれは神の言葉以外の何物でもないことを思うところがあります。人にはこのようなことばは語れない。罪人の混沌とした社会に輝く、一条の光というべきものでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.第二のしもべの歌 
3節の「しもべ」は誰を指すのだろうか。彼は、神に召され、神の栄光を現すことが約束されている。彼は与えられた使命が困難なものであり、それが「むだな骨折りとなり、むなしく自分の力を使い果たす」ものになることを予測している。しかし自分の使命が神からのものであり(4節)、イスラエルのみならず、諸国の民、つまり異邦人にも救いをもたらすものであることを確信している(6節)。
 「しもべ」をイスラエル民族であると集合的に理解することもできるが、5節でそれは否定される。しもべとイスラエルははっきり区別されている。また、第一のしもべの歌(42章)もそうであったが、ここでは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムの再建を超えて(10-12節)、さらにメシヤによってもたらされる終末的な解放と永遠の救いの希望が語られている。このように神の使命を身に受けて、困難であることを予測しながら、これに立ち向かう終末的人物は、イエス・キリスト以外に誰が該当するだろうか、と思われるところである。
2.シオンの回復
しかし、このような終末的な栄光を示されても、現実は厳しく、心が萎え、その希望に立つことができない、ということがあるだろう。イザヤの力強い励ましを読む時に、これが神のことばでなく何であろうかと思うところがある。イザヤから出たものではなく、まことに人をお造りになり、人を命を与えられた神のことばとして読む他はないことばである。
神は、二つのたとえをもって、人に対する神の変わらぬ愛を告白される。一つは、母親である。母親の愛の深さをとりあげ、母親が乳飲み子を忘れるわけがない、ならばまして神は、という(15節)。またもう一つは、手のひらに、恋人の名を入れ墨にする古代の習慣(雅歌8:6)を取り上げ「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」という。神は、私たちの名を自分の身に刻むほどに、私たちを愛している。ならば、神が約束を果たさないことがあろうか、というわけである。そして神は過去の存在ではない。「わたしは生きている」という(18節)。神は生きて働かれるお方である。シオンは「花嫁」に、イスラエルの民は「飾り物」と「帯」に例えられ(18節)、廃墟となったエルサレムが建て直されること、いやそれ以上に町に人が溢れ、繁栄を享受する神の計画が語られる(19節)。それが現実に起こった時に、誰もこれが自分の力でなしえたことだと思う者はいないだろう(21節)。むしろ、神が約束どおりのことをしてくださったことを認識するのである。確かに、神を「待ち望む者は、恥を見ることがない」(23節)。人には、恥辱と、蔑みに苦しめられる経験があるものだ。しかし、その中で腐り果ててはならない。神は、私たちの味方であり、私たちの救い主、贖い主、そして強き助け手である。罪人に対する神の愛を経験することが人生の目的である。

イザヤ書48章

2020年06月21日 06時03分52秒 | イザヤ書
48章 バビロンから逃れよ
おはようございます。イザヤのことばを、それぞれの時代の人々が、それぞれの時代の意味付けを持って読んだことでしょう。今の時代に生きる私たちはこれを以下に読むべきか、その本質的なメッセージを捕まえたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンからの解放
 この章は、後半40章からの区切りと、つまり第二イザヤと呼ばれる終わりの部分、と見なされることがある。というのも、48章が呪いの宣告で終わり、バビロンの滅亡とキュロスに関する預言も、ここで終わっていて、これ以降は、より後の時代のメッセージとなっているからだ。
1節「聞け」と言う。率直にイスラエルの不信仰が責められている。イスラエルは、本来、祝福の基となるために選ばれた民であった。しかし、彼らは神の使命に生きることはなかった。3節、「かつて起こったこと」は、恐らく出エジプトのことであろう。神はモーセに出エジプトの計画を告げられたが、イスラエルの民はそのことばを信じなかった。彼らはいつも心を頑なにし、その心は偶像に向かった。「首筋は鉄の腱、額は青銅」(4節)と比喩的に語られるように、服従できず、堅く心を閉ざしていた。だから、今、神はイスラエルに新しい出エジプト、実際には、キュロス王によるバビロンの破壊と、イスラエルの解放を告げても、それがわからない。「新しい事」「あなたの知らない秘め事(6節)」を告げても、それを理解する力がないし、信じることもできない、というわけである。
 「それは今、創造された。ずっと前からではない。」(7節)。この「今」をどのように考えるか。神の創造のみわざは、はるか創世の時代に終わっている。しかし、実際に神が、この混沌とした世の中に、新しい創造を起こすことなど難しいことではない。バビロン捕囚の状況がどれほど動かしがたい現実であれ、神に、新しい時代を興すことは、不可能ではない。不可能性の中に神の可能性を信じる信仰が求められている。
2.バビロンから出よ
 12節、再び「聞け」と言う。前半の「聞け」と異なるのは、焦点がイスラエルの民ではなく神に向けられていることである。神の可能性を信じるために、神をよくよく知るべきである。そもそも私たちが信じるべき神はどのような方か。「わたしは初めであり、また終わりである」は神が万物の根源であることが語られる。その神が、事をなされるのだ(14節)。
 さらに神は「あなたを贖う主(17節)」であると言う。神は私たちに「益になることを教え」「歩むべき道に導き」何よりも、私たちをしあわせにするお方である。それはアブラハムの人生とイスラエルの歴史に証しされた、根拠のあることである(19節)。
大切なのは、このメッセージを耳に、決断を迫られた人々が誰であったかだ。それは、後の時代、後少しで滅びようとするバビロンで、安逸に暮らしていたユダヤ人に対してであろう。「バビロンから出よ。カルデアからのがれよ」(20節)。主のことばは、常に本当の幸せのありかがどこにあるのかを予め語り継げている。