アニメの話ではありません。そして宗教の話でもありません。聖書学の話です。ヱヴァンゲリヲンは「福音」です。「福音」とは「良い知らせ」です。良い知らせというのは「神が動いた」ということです。具体的には「イエスを地上に遣わした」ということになります。ちなみに私はキリスト教徒ではありません。
「聖書学」というのは「文献学」で、聖書にあるどの文書が、どの時代に、どんな人によって書かれたかを追求します。いたって「科学的」な作業です。私は加藤隆さんの「新約聖書の誕生」を読むまで、こういう学問の存在すら知らなかったと思います。
大学時代、課題で「新約聖書と日本文学」という文章を書かされました。で、まあ初めて新約聖書をちゃんと読んでみたわけです。四つの福音書だけですが。まあ「なんだかよく分かりません」でした。四つの文章が矛盾しているのです。同じような内容、イエスの伝道の様子が書かれていますが、マルコ、マタイ、ルカの内容はちょっとずつ違います。ヨハネは文体からして違います。「一つの福音」だけならなんとかまとめられます。しかし四つをまとめようとすると明らかに矛盾があって無理でした。
「みだらな目で人妻をみると姦淫だ」と書いてあります。マタイです。しかし別の福音書では「罪を犯してないものがいようか。みんな罪人だ。君たちに不倫した女性を裁く権利はない」とも書かれている。ヨハネ書ですね。どっちもイエスの言葉です。どっちなんだ?ということです。
今なら分かります。四つの福音書は「違った時代に、違う目的を持って書かれたもの」です。最初の福音書はマルコと考えられていますが、マタイ、ルカ、ヨハネはその「増補版」などではない、というのが加藤隆さんの主張です。マルコは「なんか違うな」と思った人がマタイやルカを書いた。だから互いに対立的というか対話的なわけです。論争的とも言っています。
地上のイエスの死は、だいたい紀元30年ごろと考えられています。それから40年ほどたってやっとマルコが成立します。マタイ、ルカ、ヨハネはその後です。1世紀中か2世紀初めです。諸説があるようです。
ただマタイとルカの筆者はマルコ書を読んでいました。またQ史料という「イエスの言語録」があったと想定されています。現存はしません。そういう事情で、マルコ、マタイ、ルカは似ています。似ているけれど、本質的に違った部分があります。マタイは道徳主義的傾向があり、ルカ文書ではローマ的な支配のあり方が評価されているそうです。
私にとってそういう詳細な違いは問題ではないのですが「四つが論争的で、一つの原理にまとめられない」という見方は、大学時代の私の疑問を見事に説明する理論でした。
イエスの伝記といった性格の文章は、イエスの死後30年以上書かれませんでした。迫害を受けつつも活動する教会の「弟子たち」によって口伝されていました。これは「弟子でないとイエスを語れない」ということです。「イエスの独占」という状態でした。従ってマルコが書かれたことは、教会にとって衝撃であったようです。それはギリシャ語で書かれました。新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかしイエスはアラム語を話していました。ギリシャ語しか理解しない信徒も多くなり、徐々に弟子たちも死を迎え、「イエスの独占」が難しい状況になっていました。
そして新約聖書のような「文章集」が「異端の手」によって編集されます。教会はこれに対向して「聖書の聖典化」を進めます。異端の聖書を排除して、教会が認められる「福音書」を選んで、新約聖書の編集を進めます。しかし決定版はなかなかできず、結局325年のニケイア宗教会議までに、キリスト教がローマの国教になり、新約聖書の形も定まってきます。イエスの死後、300年がたっていました。
聖書選定の基準はさほど厳密なものではなかったようです。4つの福音書の「整合性」などが厳密に検討されたわけではないようです。従って私が日本語で読んでも分かるような、記述の矛盾が生じます。それ自体、さほど問題ではなかったようです。当時、福音書は「乱立」していましたが、乱立状態に終止符を打つことが優先されました。そして各教会で伝統的に使われ、ローマ支配とも大きな矛盾はなく、「問題がある」とされなかった文章が選ばれたようです。そして一度選ばれると、それらは正典となり、批判することが難しい書物になりました。しかしそれでも何が正典かを巡っては、地域によって論争は存在しました。
新約聖書が「違った時代に、違った目的を持って書かれた文章」によって成り立つと考えれば4つを統一的に理解しようという試みが成功しないのが分かります。加藤隆さんが考える「聖書像」はそのようなものです。
アニメ・ヱヴァンゲリヲンと死海文書について
ヱヴァンゲリヲンQという映画がありますが、これはQ資料からきたネーミングでしょうか。TV版はかつて見た記憶がありますが、「新劇場版」は真剣にみたことがありません。特にヱヴァンゲリヲンQは最初をちらっとみて、なんだかわけわからないなと思った記憶があります。
シン・ヱヴァンゲリヲンの「ネタバレ」を読みましたが、複雑すぎて難しく、よく理解できませんでした。
難しさというのは「神秘性」につながりますが、新約聖書が統一的に捉えられないのは、違う文章だからで、そこに「神秘性」はないと思います。TV版のヱヴァンゲリヲンには、よく「死海文書」が登場します。調べればすぐ分かりますが、あれは死海の傍のクムラン洞窟で見つかった「古い旧約聖書の写本」です。死海文書というと神秘的ですが「クムラン文書」です。つまり旧約聖書です。
見つかった時は「ユダヤ教、キリスト教に根本的な影響を与える記述があるのでは」と話題になりました。しかしそういう記述はないことが分かっています。そもそも新約聖書とは関係ありません。ユダヤ教の聖書です。ただ「旧約聖書が見つかった」というだけのことです。(旧約聖書はキリスト教にとっても聖書ですが、クムラン文書を残した集団はユダヤ教徒です)
死海文書というと何やら意味ありげですが、つまりはクムラン文書で、旧約聖書の断片とか、クムラン教団の規則や儀式書です。
難しさやわかりにくさに「必ず意味がある」ということはありません。ただしシン・ヱヴァンゲリヲンのことではありません。あくまで聖書の話です。
「聖書学」というのは「文献学」で、聖書にあるどの文書が、どの時代に、どんな人によって書かれたかを追求します。いたって「科学的」な作業です。私は加藤隆さんの「新約聖書の誕生」を読むまで、こういう学問の存在すら知らなかったと思います。
大学時代、課題で「新約聖書と日本文学」という文章を書かされました。で、まあ初めて新約聖書をちゃんと読んでみたわけです。四つの福音書だけですが。まあ「なんだかよく分かりません」でした。四つの文章が矛盾しているのです。同じような内容、イエスの伝道の様子が書かれていますが、マルコ、マタイ、ルカの内容はちょっとずつ違います。ヨハネは文体からして違います。「一つの福音」だけならなんとかまとめられます。しかし四つをまとめようとすると明らかに矛盾があって無理でした。
「みだらな目で人妻をみると姦淫だ」と書いてあります。マタイです。しかし別の福音書では「罪を犯してないものがいようか。みんな罪人だ。君たちに不倫した女性を裁く権利はない」とも書かれている。ヨハネ書ですね。どっちもイエスの言葉です。どっちなんだ?ということです。
今なら分かります。四つの福音書は「違った時代に、違う目的を持って書かれたもの」です。最初の福音書はマルコと考えられていますが、マタイ、ルカ、ヨハネはその「増補版」などではない、というのが加藤隆さんの主張です。マルコは「なんか違うな」と思った人がマタイやルカを書いた。だから互いに対立的というか対話的なわけです。論争的とも言っています。
地上のイエスの死は、だいたい紀元30年ごろと考えられています。それから40年ほどたってやっとマルコが成立します。マタイ、ルカ、ヨハネはその後です。1世紀中か2世紀初めです。諸説があるようです。
ただマタイとルカの筆者はマルコ書を読んでいました。またQ史料という「イエスの言語録」があったと想定されています。現存はしません。そういう事情で、マルコ、マタイ、ルカは似ています。似ているけれど、本質的に違った部分があります。マタイは道徳主義的傾向があり、ルカ文書ではローマ的な支配のあり方が評価されているそうです。
私にとってそういう詳細な違いは問題ではないのですが「四つが論争的で、一つの原理にまとめられない」という見方は、大学時代の私の疑問を見事に説明する理論でした。
イエスの伝記といった性格の文章は、イエスの死後30年以上書かれませんでした。迫害を受けつつも活動する教会の「弟子たち」によって口伝されていました。これは「弟子でないとイエスを語れない」ということです。「イエスの独占」という状態でした。従ってマルコが書かれたことは、教会にとって衝撃であったようです。それはギリシャ語で書かれました。新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかしイエスはアラム語を話していました。ギリシャ語しか理解しない信徒も多くなり、徐々に弟子たちも死を迎え、「イエスの独占」が難しい状況になっていました。
そして新約聖書のような「文章集」が「異端の手」によって編集されます。教会はこれに対向して「聖書の聖典化」を進めます。異端の聖書を排除して、教会が認められる「福音書」を選んで、新約聖書の編集を進めます。しかし決定版はなかなかできず、結局325年のニケイア宗教会議までに、キリスト教がローマの国教になり、新約聖書の形も定まってきます。イエスの死後、300年がたっていました。
聖書選定の基準はさほど厳密なものではなかったようです。4つの福音書の「整合性」などが厳密に検討されたわけではないようです。従って私が日本語で読んでも分かるような、記述の矛盾が生じます。それ自体、さほど問題ではなかったようです。当時、福音書は「乱立」していましたが、乱立状態に終止符を打つことが優先されました。そして各教会で伝統的に使われ、ローマ支配とも大きな矛盾はなく、「問題がある」とされなかった文章が選ばれたようです。そして一度選ばれると、それらは正典となり、批判することが難しい書物になりました。しかしそれでも何が正典かを巡っては、地域によって論争は存在しました。
新約聖書が「違った時代に、違った目的を持って書かれた文章」によって成り立つと考えれば4つを統一的に理解しようという試みが成功しないのが分かります。加藤隆さんが考える「聖書像」はそのようなものです。
アニメ・ヱヴァンゲリヲンと死海文書について
ヱヴァンゲリヲンQという映画がありますが、これはQ資料からきたネーミングでしょうか。TV版はかつて見た記憶がありますが、「新劇場版」は真剣にみたことがありません。特にヱヴァンゲリヲンQは最初をちらっとみて、なんだかわけわからないなと思った記憶があります。
シン・ヱヴァンゲリヲンの「ネタバレ」を読みましたが、複雑すぎて難しく、よく理解できませんでした。
難しさというのは「神秘性」につながりますが、新約聖書が統一的に捉えられないのは、違う文章だからで、そこに「神秘性」はないと思います。TV版のヱヴァンゲリヲンには、よく「死海文書」が登場します。調べればすぐ分かりますが、あれは死海の傍のクムラン洞窟で見つかった「古い旧約聖書の写本」です。死海文書というと神秘的ですが「クムラン文書」です。つまり旧約聖書です。
見つかった時は「ユダヤ教、キリスト教に根本的な影響を与える記述があるのでは」と話題になりました。しかしそういう記述はないことが分かっています。そもそも新約聖書とは関係ありません。ユダヤ教の聖書です。ただ「旧約聖書が見つかった」というだけのことです。(旧約聖書はキリスト教にとっても聖書ですが、クムラン文書を残した集団はユダヤ教徒です)
死海文書というと何やら意味ありげですが、つまりはクムラン文書で、旧約聖書の断片とか、クムラン教団の規則や儀式書です。
難しさやわかりにくさに「必ず意味がある」ということはありません。ただしシン・ヱヴァンゲリヲンのことではありません。あくまで聖書の話です。
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