歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「麒麟がくる」・第四十三回・「闇に光る樹」・足蹴シーンのみの感想

2021-01-31 | 麒麟がくる
ドラマそのものの感想というより、信長についての雑感です。

本日の回の最後、地獄の宴と言うようです。「膳がどうしたこうした」で、信長が光秀を叩き、さらに蘭丸が食ってかかってました。

おなじみのシーンながら、背景が違います。まず信長の嫉妬。それから「樹を切る」=信長の命を絶つという光秀のリアクション。同じシーンでも、背景や意味合いが全く違うものです。

私はよく知らなかったのですが、このシーンは一次史料にはないようです。フロイスの叙述も伝聞体のようです。でも比較的近い時代の二次史料には出てくる。実際にあったかも知れないし、実際はなかったが、説得力を持つため二次史料によく使われたのか。そこはよく分かりません。しかしこうして印象的に映像化されると、謀反の「決め手」としての説得力はあるなと感じます。

さて、信長はどう「因縁をつけた」のか。「1の膳が間違っている」ということでした。フルコースのうちの「1の膳」になんらかの間違いがあったと、因縁をつけたわけです。いつもは鯛が腐っているとか言う因縁なのですが、本日は膳のあり方でした。

最近読んだ本に、「信長以降、膳のあり方が簡略化された」と書いてありました。有りていに言うなら「面倒なことはやめよ」ということです。天下人がそんな感じなんで、随分とフルコースのあり方が変わったということでした。

「面倒なことはやだな」というのは信長の大きな特徴のように思います。「やれるけどやらない」という信長のあり方を表している気がします。

よく指摘されるのは斎藤道三との会見です。いつもの服でやってきて正装に着替え、道三を驚かせるわけです。「正装なんてできるよ、でもやりたくない」という信長の特徴を示しているとされます。

「儀式を見ると、荘厳と感じるより、可笑しくなってしまう」、、、実は私にもそういう傾向があるのですが、信長もそういう傾向が強かったように思います。

朝廷との付き合い方などもそうです。学者さんが「信長は紙の使い方ひとつでも、当時の礼法を立派に守っていて、実は保守的だ」とか言うわけです。保守的でも構わないのですが、それって「信長の性格じゃないでしょ。やればできるからやってるだけは」とは思います。「やれないわけではない」ので、「朝廷や幕府の礼法なんて、知識持った者に命令すればできるよ」というところは見せるわけです。でも本音では「メンドくさいな」と思っていたふしがあります。実際に信長がやったのは「まあ田舎者とバカにされないように、相手に合わせて上質な紙を使っておけ。喜ばせておけばいい。」という命令ぐらいでしょう。

官位なぞもそうですね。左大臣になってくれと言ってもなんだかんだ言って断ります。なったら儀式があります。習えばできます。でも「習うのも面倒だな」と思っていたのではないか。官位問題はこんな理由だけで片付きませんが、1%ぐらいそういう理由だったのではないか。よく真面目な顔してあんな面倒なことできるよな、アホかと感じていたのではないか。

これと違って秀吉などは「習う」のですね。いくら独裁関白といっても礼法はあります。みっともないことはできない。だから熱心に習うのです。信長はさほど「熱心には」習った感じがしません。「膳のあり方」が簡略化されたのは、要するに面倒くさいからで、その信長のあり方は他でも見られる気がするのです。

「お前たちが大事に思っている礼法なんて、お前達にしてからが人に習ったものであり、習えば誰にでもできるけれど、あまり意味はないよな」という信長の声が聞こえてきそうな気がします。

この文章、なんの根拠もなく、ただ思い付きで書き散らかしているので、あとで反省して削除するかも知れません。

最後に一つだけ真面目なことを書くと、こういう面倒くさい礼法を取り入れることで、徳川幕府は長く存続しました。信長も政権を作っていたら、好き嫌いに関係なく、取り入れたかも知れません。

明智光秀のハッピーエンド・光秀の死とともに一つの時代が終わる

2021-01-31 | 麒麟がくる
光秀の死とともに、ひとつの時代が終わる。戦国と呼ばれ、乱世と呼ばれた時代、一介の油商人山崎屋庄九朗が、美濃一国の主、斉藤道三となりえた時代、尾張のうつけと呼ばれた悪童が、天下の権を握りえた時代、人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織り成した時代は、ここに終わりをつげる。そして歴史は中世の破壊から近世の建設へと、新しき秩序を作る人々を迎え入れようとしていた。

大河「国盗り物語」、最後のナレーション

「光秀の死とともに一つの時代が終わる」という言葉に「感動」したのは、総集編のVHSビデオを見た時です。特に感動したのは「人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織りなした」の部分でした。

小説の「国盗り物語」の方は小学6年で初めて読んだと思います。原作には上記のような言葉はでてきません。それでも「光秀以前と光秀以後で時代が変わるのだ」とは思っていました。つまり明智光秀は小学生の私にとって「一つの時代を終わらせた凄い武将」だったのです。だからその後の大河ドラマを見ながら、光秀の扱いがあまりに酷いことをずっと悔しく思っていました。ブログにも「国盗り物語がリメイクされたら、光秀の評価は一変する」と書いたこともあります。そしてリメイクされ、それは特に後半、国盗り物語とは全く違う作品にはなりましたが、光秀の評価が一変した、ことは間違いないと思います。

それをもってハッピーエンドとは言えませんが、これで未来の大河脚本家は、光秀を軽んじることはできなくなったとは思います。(実際そうなるかはわかりませんが)

私は今も昔も司馬遼太郎さんのファンです。信長のファンで、かつ光秀も好きです。しかし司馬さんファンだからと言って「信長は革命児だ」という気はありません。信長の魅力はそんなところではないのです。ただ小声で「合理主義者だぞ」とは言いたくなります。しかし合理的でない面も信長は多大に持っている気もしてきています。変な人です。
ちなみに司馬さんは信長があまり好きではない。「国盗り物語信長編」は出版社の依頼でいやいや書いたものです。だから視点人物が十兵衛になることが多い。ご本人も作中で「気が緩むと光秀の話ばかりになってしまう」と「いう趣旨のこと」を書いています。

信長については随分と学者さんの本を読み、ある程度の史実はわかっている「つもり」です。そして史実が分かればわかるほど、司馬さんの「描こうとした」ことがよく理解できるようになりました。史実を知るほど、小説の魅力もまた高まるのです。蛇足ですが、史実か否かより実は「文章の格調とか韻律」と言ったものに私は惹かれます。あの文体は真似できません。

私は研究家でも学者でもないので「研究に終わりはない」とか言う資格はありません。あえて言うなら「趣味に終わりはない」というところです。光秀はあまりに史料がないため、よく分からない武将ですが、信長も「知れば知るほどわからなくなる武将」です。「何を考えているのだ、そもそも考えているのか」という点が多々あるのです。例えば政権構想です。あのまま信長が生きて、信忠の後見として政権を作ったとして、どんなものになるのかほぼ分かりません。秀吉の方向に行ったかも知れないし、結局は足利幕府と同じ体制になった可能性もあります。歴史は一人の英雄が作るものではないとすれば、民衆の集合意思と商業経済の発展によって、江戸体制に近いものとなった可能性もあるでしょう。この点についてもっとも「踏み込んでいる」のは藤田達生さんで、ご本を読みながら「思考中」ですが、何かを書くほどの段階には私自身はありません。

分からないから考える。それが楽しいわけです。「麒麟がくる」によって、私の中ではますます光秀も信長も「わからなく」なりました。ただ知識だけが多少増えていくだけで、まとまらないのです。だから楽しい。しかも2023年には「どうする家康」があります。また考える時間がある。なんと楽しいことかな、と思います。

豊臣秀吉や徳川家康のように「近世を確立させた」わけでもないのに、あんなに人を殺したのに、信長は日本における大スターです。幸福な武将といえるでしょう。光秀が今後どうなっていくのかは分かりませんが、「光秀の気持ちは分かる」という人間は確実に増えていく気がします。うまくまとまりませんが、光秀も運のいい武将です。

麒麟がくる・正親町帝の譲位問題は本能寺の変の「原因」となりうるか。

2021-01-31 | 麒麟がくる
ドラマ「麒麟がくる」、ここにきてドラマで提示された数ある要因の中でも「帝の譲位問題」が突出して「要因」となってきた感があります。
正親町帝の譲位問題は「本能寺の変の要因」となりうるでしょうか。

まず端的に結論から書きます。

ドラマ的には「かろうじてなり得る」
史実的には「なり得ない。」なぜなら「譲位を望む」という正親町帝自身の宸筆(自筆の手紙)が東山御文庫に残っているから。

ということになります。ドラマ的に「なりうる」のは当然で、ドラマだから基本的にはどう描いてもよいのです。でも上記の宸筆という「動かぬ証拠」があるので、「かろうじて」だと思います。譲位という重要問題で天皇がリップサービスをした、という小説的解釈をすればなりたつ。だからドラマ的には成り立つのかな、と思います。

とはいえ「手紙があるから」は実は決定的証拠にはなりません。天正2年ごろの気持ちに過ぎないからです。「譲位を迫った」という学者さんはいます。そしてその学者さんがこの手紙を知らないわけはありません。そこ(学会論争)は私の手に余るのでスルーさせてください。

さて

そもそも天皇が譲位して上皇になるのは「あるべき姿」でした。正親町帝が譲位できなかったのは「費用の問題」です。その費用を出すのは幕府ですが、義昭は出しませんでした。「出せなかった」のかも知れません。信長は義昭を追放して「天下人」になるや「費用は出すから譲位なさっては。」と申し入れるわけです。天皇は喜びました。これが天正元年1573年の「年末」です。本能寺の約8年前です。

しかしこれは実現しませんでした。その理由はよくわかりません。戦の状況がそれを許さなかったこと。戦に費用を回すのが先決となって信長にしても費用を出せなかったことなどが指摘されています。

正親町帝がどう喜んだかというとこうなります。帝自身の宸筆の要約です。
「譲位につき内々の申し入れがありました。譲位は(上皇になることは)御土御門院以来の望みでありましたが、実現できずにいました。そなたから申し入れがあったことは奇特(特に優れていること)であり、朝家再興の時がきたと頼もしく思っています」

天正元年から2年の譲位問題が流れてから、しばらく動きはなかったようですが、朝廷では「儀式用の衣装の虫干し」などをして「いつ譲位、即位があっても大丈夫」なような用意をしていました。

天正9年になって朝廷は、信長に官についてくれ、左大臣になってくれと申し入れます。これに対して信長は「譲位の件が片付いてから」と回答します。しかし陰陽道から見て譲位には不吉な年とされたようで、延期されます。信長の左大臣就任もなくなりました。次の年が本能寺の変です。

信長にとって譲位を実現することは朝廷を「あるべき姿に戻す」ことであったという指摘が存在します。「あるべき姿」ですから天皇も喜んだわけです。史実的には「強要」とか「不敬」とか「僭越」とかいうことはないと思われます。信長が莫大な費用を出すのです。信長から申し入れがなければ、朝廷としても動きようがありません。正親町帝が「やっと譲位できた」のは天正14年、1586年です。本能寺の変の4年後、秀吉の時代です。ただし本能寺の2年後にはすでに譲位は決定し、仙洞御所などの造営が始まっています。ここからも帝が譲位したかったのは明らかなような気もします。

私のこの文章の元ネタは金子拓氏の「織田信長、天下人の実像」です。上記のことにつき詳細に叙述されています。私のまとめは拙いので、あとはこの本をご覧ください。