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ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

切り裂きジャックの正体

2014-09-11 12:15:21 | 事件

19世紀の半ば、イギリスにはアイルランドからの移民が殺到していた。 そのためロンドンをはじめとする多くの都市は、人口が急激に増えていた。

1882年からは、ポグロムを怖れるユダヤ人がロシアなど東欧諸国から逃れてくるようになり、ロンドンのイースト・エンド地域は過密状態になっていた。 失業と住環境は悪化の一途をたどり、食べるもの・眠る場所にも事欠く貧困層が増え、強奪・暴力・アルコール依存は日常茶飯事になり、困窮は女性を売春にはしらせた。 1888年10月のロンドン市警察当局の推定によると、イースト・エンドのホワイトチャペル地区には62の売春宿が存在し、1200人の売春婦がいた。

経済問題は社会的緊張をもたらし、デモが頻繁に行われ、不穏な空気が社会に漂った。 犯罪、先住民保護政策の要求、人種差別、反ユダヤ主義。 社会への不満が鬱積し、ホワイトチャペルは不道徳の温床として悪名を高めつつあった。 1888年に発生した猟奇的連続殺人事件は、メディアが前代未聞の報道合戦を繰り広げたため、ホワイトチャペルの悪名を決定的なものにしたのだった。

 

 

 

“切り裂きジャック” (Jack the Ripper) の名は、のちに犯人と名乗る人物が書き送ってきた手紙に由来している。 公的には犯人は、“ホワイトチャペルの殺人鬼” (The Whitechapel Murderer)だった。 しかし当時のメディアがこぞって “切り裂きジャック” の名称を報じたため、いつしかそれが通称になった。

 

 

 

確実に切り裂きジャックの犯行と信じられている殺人は、5件。 1888年の秋の2ヶ月余りの間に続けざまに起きた。

が、他にも前年末から1891年始めにかけて女性が殺害されており、それら全部を推定被害者として含めると、被害者数は12名に上るという。 (20名という説もあり。)

 

 

 

『ホワイトチャペルの連続殺人』 の現場を示す地図。 赤丸が、確実に切り裂きジャックの犯行と考えられている5件の事件(The Canonical Five)の現場。

(なるほど。 ホワイトチャペル地区って、ロンドン塔の北東にあたるんですね。 あれ、ロンドン塔の脇からテムズ河にかかるタワーブリッジがない?と思ったら、この地図は1882年頃のものだけれど、タワーブリッジ着工は1886年だったからのようです。)

 

 

犯人を名乗る人物から送られてきた手紙のうち、本物の可能性が否定されていないもの。 左は “Dear Boss Letter”、中は “From Hell Letter” と呼ばれている。 右は不明。  (そっか! ジョニー・デップが主演した映画 『フロム・ヘル』 の題名は、ここから来たのか。)

 

  

 

当時のロンドン警視庁とロンドン市警察当局の必死の捜査にも関わらず、とうとう犯人の逮捕・起訴には至らなかった。 庶民から上流階級まで、容疑者はたくさんいたのだが。 当時在位していたヴィクトリア女王の孫に当たるクラレンス公まで疑われたというのだから驚き。 それから、ここには挙がっていないけれども、『不思議の国のアリス』原作者のルイス・キャロルも。

 

 

 

で、ようやく本題に入ります。 事件から(ちょうどこの時期に起きていたんですね)126年後の現在。 とうとう切り裂きジャックの正体が判明したとのニュースが、7日(日)に入りました。

「切り裂きジャックの正体を突きとめた」と公言するのは、ロンドン北部在住の実業家ラッセル・エドワーズ氏(48歳)。 映画 『フロム・ヘル』 を見て切り裂きジャックの謎に魅せられ、ジャックに関して現存する文書を読みあさったそうです。 またロンドン警視庁内にある犯罪博物館を管理するアラン・マコーマック氏は興味深い話を聞かせてくれ、エドワーズ氏もそれを信じるようになりました。 

「当時の警察は、犯人の正体を確信していた。 捜査を指揮していたドナルド・スワンソンは、重度の精神疾患を患っていたユダヤ系ポーランド人のアーロン・コスミンスキー(上、左から3番目)が切り裂きジャックだったと書き残している。 しかし十分な証拠がなかったため、彼が精神病院に収容されるまで24時間監視をつけるしかなかったのだ。」

2007年にエドワーズ氏は、『切り裂きジャック事件に関連したショールが競売にかけられる』 ことを新聞で読みました。 ショールは被害者の一人キャサリン・エドウズ(5人のうち4番目の被害者)の遺体の傍らで見つかったもので、当夜現場に駆けつけた警官の一人だったエイモス・シンプソン巡査が、上司の許可を得て針子だった妻のために自宅に持ち帰った(!)そうです。 しかしショールについた血痕におののいたシンプソン夫人は、それを身につけることも洗うこともしないまましまいこみ、ショールはその後、子から孫へと受け継がれ、とうとう競売に出されました。 ショールの由来に関する信憑性は不確かだったものの、エドワーズ氏は迷うことなくショールを獲得。 彼は後日、前の持ち主から、ショールの背景を説明する手紙を受け取ったそうです。

分子生物学の権威であるリヴァプール・ジョン・ムアーズ大学 (Liverpool John Moores University) の Jari Louhelainen hakusi 博士(カタカナ表記わからん)が、エドワーズ氏の依頼に応えて力を貸してくれました。 博士はここ10年ほどの間に開発された最先端の技術を使ってショールを精密に検査。 赤外線カメラの使用により、濃い色のシミは単なる血痕ではなく、引き裂かれた動脈からほとばしり出た動脈血であることを指摘したそうです。 まさしくキャサリン・エドウズが殺された通りの方法です。

 

                 

 

しかし次の発見は、エドワーズ氏を驚嘆させました。 UV撮影技術により、精液と思われる痕跡が浮かび上がったのです。 切り裂き魔自身の痕跡を発見できるとは思っていなかったエドワーズ氏は興奮しました。 狂ったような残忍な襲撃を裏づける、腎臓の細胞らしきものも確認されました。 (キャサリン・エドウズの切り裂かれた遺体からは左の腎臓がなくなっていました。) しかし痕跡があまりにも古かったため、通常の方法でのDNA検出は不可能でした。 そこで博士は、『バキューミング』 と呼ばれる方法を採用。 緩衝溶液を満たしたピペットを使い、布地から遺伝物質を損なうことなく取り出しました。

検出された遺伝物質の解析には、通常使われるゲノムDNA(人間の遺伝子データを完全に含む)はこの場合使えなかったため、ミトコンドリアDNAが使用されました。 ミトコンドリアDNAは女性のみを通じて子孫へと受け継がれる遺伝子で、ゲノムDNAよりも豊富にあり、またずっと長期間生き残れるそうです。 遺伝子データを比較するため、被害者キャサリン・エドウズの子孫であるカレン・ミラーさんからDNAサンプルを提供してもらいました。 ミラーさんのサンプルは、ショールから検出されたエドウズのものと思われるDNAと完全に一致しました。 (理数系全滅のワタクシ。グダグダな意訳でたいへん申し訳ございません・・・

 

青と茶色からなるショールを広げるエドワーズ氏                                              DNAが検出された箇所

 

 

絹のショールは売春婦だったキャサリン・エドウズのものにしては高価すぎるので、エドワーズ氏はずっと、切り裂き魔自身の持ち物だったと考えていました。 ショールの染料を分析した結果、ショールは19世紀始めに東欧で製造されたものであると結論されました。 (アーロン・コスミンスキーはポーランド生まれ。)

いよいよ精液らしきものの痕跡からDNAを検出する段階になりましたが、ここで博士は、遺伝子学の世界的権威であるデイヴィッド・ミラー博士の助力を得ました。 2012年に、皮膜組織の生きた細胞を検出することに成功。 この細胞は、射精時の尿道の組織のものであると考えられました。 切り裂き魔の第三の被害者エリザベス・ストライドの住居からほんの180mほどのところに、二人の兄と一人の姉とともに住んでいたというコスミンスキーは、当時23歳。 DNA比較のため、コスミンスキーの姉マチルダの子孫である女性がサンプルを提供してくれました。

数ヶ月に及ぶ比較検査の結果、とうとう完全に一致するDNAが確認され、ショール入手から7年後に、ようやくエドワーズ氏はアーロン・コスミンスキー(下左)が切り裂きジャックだったとの確証を得たのでした。 そのエドワーズ氏が著した “NAMING JACK THE RIPPER” (下右)は、一昨日(9月9日)発売に。

 

                            

 

アーロン・コスミンスキー(Aaron Kosminski)は、1865年9月11日(今日じゃん!)に現ポーランド中央部にあるクウォダヴァ(Kłodawa)に7人兄弟の末っ子として生まれた。 父親の死後、ポーランドを占領していたロシア人によるポグロムを怖れた二人の兄と一人の姉とともにイギリスに逃れてきた彼は、1881年にホワイトチャペルのスラム街に落ち着いた。 母親も後からやってきて彼等に加わった。 当時の移民登録によると、彼の職業は美容師だった。

妄想型統合失調症にかかっていたコスミンスキーは、1891年に姉をナイフで脅して精神病院に収容された。 当時の記録によると、彼は少なくとも1885年頃には発症していた。 症状は幻聴や自己ネグレクトや、(毒殺されるとの被害妄想から)他人が捨てたものしか食べない、などであった。 貧しい食習慣により痩せ衰え、1919年2月には44kgしかなかったとの記録が残っている。 二度と社会に復帰することのないまま、コスミンスキーは収容されていた病院で壊疽のため1919年3月24日に53歳で死亡した。

 

あまりにも有名な切り裂きジャック。 19世紀最大の(?)ミステリー。 これが本当の彼の正体なのでしょうか・・・?

本当にコスミンスキーとエドウズの子孫のものと一致するDNAが出たのなら、間違いない気はしますが。 このショールが誰のものだったにしろ、双方やその近親という両サイドがショールに近づく機会はなかったはずですから。 このショールは、本当に彼のものだとしたら、当時としてはけっこう高価なものだったようだから、おばあちゃんか誰かの形見だったのかもしれませんね。 でもなぜ殺人に出掛ける際に持参したのかな。 凶器(鋭利な刃物)を持ち運ぶために包んだのなら、凶器は現場には残されていなかったのだから、犯行後ふたたび凶器を包んで立ち去るのが普通では? 返り血を浴びるのを防ぐために使ったにしては、血痕が少なすぎるし。 まさかコスミンスキーは事件前にショールを盗まれるか紛失するかしていて、それがエドウズか真犯人の手に入っていたため、現場で発見された、よって実はコスミンスキーは無罪・・・ なんてことはないでしょうね。

コスミンスキーがジャックだったのなら、2ヶ月余りの間に5人も殺すほど活発だった彼が、なぜその後ぱったり殺人をやめてしまったのかも不思議です。 1891年に精神病院に収容されるまで、2年以上あったのですから。 もっともジャックの犯行とは確信されていないその後の犯行(上の地図の白い印とか)も犯していたのなら、辻褄は合いますが。 あ、でもコスミンスキーには監視がついていたはずでは・・・?

切り裂きジャック=コスミンスキー説に異論を唱える人は、かなり出てくると思います。 私自身、心の奥底で、切り裂きジャックはこのままミステリーであり続けて欲しい・・・なんて気がしています。 いずれにせよ、ミステリー・ファンの私には、興味深いニュースでした。

 

 

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