パラリンピック開会式で見た、彫像『身重のアリソン・ラッパー』(Alison Lapper Pregnant)の巨大な複製。 興味を持ったので、彼女について調べてみた。
この彫像のオリジナル(高さ3.6m)は、アーティストのマーク・クィンによって1999年に製作され、2005年9月から2007年10月までロンドン・トラファルガー広場の『第四の台座』に設置された。 高い円柱の上に立つネルソン提督の像でおなじみの、トラファルガー広場。 提督の足元は4つのブロンズ製のライオン像が囲んでいる。 広場の四隅にある長方体の台座のうち三つには、歴史的人物の彫像が設置されている。 が、北西にある『第四の台座』(The Fourth Plinth)に飾られる作品は定期的に代わり、またそれらは他の三つとは趣が異なることが多い。
『第四の台座』には1841年にウィリアム4世の像が置かれる予定だったが、、資金不足のため実現に至らず、その後ずっと空いたままになっていた。 つい最近の1998年になって、試しに現代アーティストの作品を飾ってみたところ、一般市民の好評を得た。 それでそれ以降、『第四の台座』にはモダン・アート作品が設置されるようになったのである。
『身重のアリソン・ラッパー』の展示には、「世界の観光客が集まる広場にそのような作品を展示すべきではない」という批判もかなりあったそうだ。 批判的意見は、主に二つに分かれた。 ひとつは「あの彫像は、歴史と伝統を反映する他の彫像と並べるにはふさわしくない」というもの。 もうひとつは「あの広場は、歴史に貢献した人物のみを讃えるべきだ。 アリソン・ラッパーは何かを成し遂げたことはなく、無名な存在で、自分の不運を利用しているだけだ」というものだった。
アリソン自身は、「彫像が身体障害に関する議論のきっかけになったという事実を嬉しく思います。 あの彫像は、女性であることのポジティブなイメージです」と述べた。
* * * * ここより、アリソン・ラッパーの自伝の抜粋のゆるーい意訳です。 * * * *
(アリソン・ラッパーは、1965年4月7日に生まれた。 アザラシ肢症という先天性疾患のため両腕がなく、膝のない両脚は極度に短かく、腿の骨が足の中で終わっていた。 時代が時代だったため、アリソンの母親は主治医に「赤ん坊の養育は国に任せるのが一番いい。子供のことは忘れるように」と説得され、母親はそれに従った。 アリソンは養護施設に預けられ、重度の身体障害・知的障害を負った子供たちと共に、そこで育った。 義手義足を提供されたこともあったが、それは見た目を普通に近くするだけで実用的価値はないと気づき、使用をやめた。)
私は数少ない、誰も面会に来ない子供のうちの一人だった。 2歳の頃、新しいヘルパーが私を外に連れ出してくれるようになった。 そのヘルパーは女性の副施設長と同居していて、二人は私を副施設長の郷里でのホリデーに同行させてくれた。 農場を営む副施設長の家族は私を温かく迎え入れてくれ、動物は犬と猫しか知らなかった私は農場ですばらしい時を過ごした。 農場滞在はその後も続き、私が4歳になる前に、副施設長の家族は私を養女にすることにし、法的手続きに入った。 私の母親はしかし、養子縁組の書類への署名を拒否。 何を思ったのか、母は私との親子関係を始める気になったらしかった。 私の農場滞在は終わりを告げた。 母と、その新しい夫と、母の両親と、私の姉が、やがて面会に来た。 が、失われた時間のギャップは埋め難かった。
5歳前から11歳になるまでは、その年齢の子供を収容した別棟で暮らした。 そこのスタッフは、子供たちを虐待した。 ふざけ半分で子供たちを軽く叩いたり蹴ったりし始め、エスカレートして子供たちに苦痛を与える段階になってもやめなかった。 スタッフの一人は特に乱暴で、彼は時々子供たちを部屋の向こうへと放り投げた。 部屋の壁際には一応クッションが並べられていたが、クッションに着地せずにコンクリートやビニールのフローリングに落ちて怪我をすることの方が多かった。 スタッフは結束していたので、虐待を訴えても無駄だった。 一度先生に訴えてみたことがあった。 が、それが看護師の耳に入ると、看護師が飛んできて「嘘を言うな」と私たちを叱り、私たちは一週間、通常より早く床につくという罰を受けた。 もちろんすべてのスタッフが残酷だったわけではなく、中には優しく思いやりのあるスタッフもいた。 が、若く無資格のスタッフは、大半が子供たちを手荒に扱い、それを楽しんでいるようだった。
11歳になって年長の子供の棟に移るとスタッフの乱暴はなくなり、環境もずっとアットホームになった。 今日の養護施設は家庭的でフレンドリーで、子供たちはとてもよく世話をされている。 私達は、運悪く生まれるのが少し早過ぎたのだった。 施設での最後の2年間は、私にとって最高の日々だった。 美術に興味を持った私はコンクールで賞を取った。 16歳になると、どの子も施設を出なければならなかった。 足の動きを改善する手術があったため、私は一年多く施設にいられたが、とうとう私にも退所の日が来た。 施設を去る車の中、長年友達と暮らしてきた私が知る唯一の『家』からどんどん遠ざかる車の中で、私は涙を止めることができなかった。 退所後障害のある若者が30、40人ほど暮らす施設に送られた私は、乗馬を習い、勉強を続けた。 唯一得意なのが美術だったので、社会人のためのカレッジに入学し、美術の基礎の単位を取った。
19歳になりロンドンで一人暮しを始めた私は、フランという男と知り合い、恋に落ち、同棲を経て、付き合い始めて2年以上してから結婚した。 が、結婚直後から、フランは支配的な面を見せ始め、やがて暴力的になっていった。 180cm以上あって雄牛のように強いフランは、ある晩私をキッチンの調理台に座らせると、私の両脚をゆっくりと引張り始めた。 「もう少し引張ればお前は床に落ちて、頭を砕くことになるな」と笑いながら。 私は恐怖に凍りついた。 フランは1インチ、また1インチと私の足を引張り続けた。 しかし彼は、私に近づきすぎるという過ちを犯した。 私は彼の肩に噛みつき、テリアのように歯をくいしばると、歯の間から彼に「今すぐ私を下ろさないと、もっと強く噛むわよ!」と叫んだ。 フランは私を下ろしたが、肩は血だらけで、私の反撃にひどく驚き、怒っていた。 その件以来、私は彼を怖れるようになった。 怖れている相手を愛することはできない。 フランを信頼していたが、その信頼は失われた。 私達は離婚した。
私は3歳の頃から足を使って絵を描き始めた。 16歳の時に美術のコンテストで入賞した私は、ローカル新聞の記事になった。 『口と足で描く芸術家協会』(Mouth and Foot Painters Association=MFPA)のイギリスの協会長が私に会いに来て、学生メンバーにしてくれた。 学生メンバーになると、画材を買うための少額のお金が毎月送られてきた。 メンバーにはクリスマス・カードに適した題材の絵を描くことが要求されていて、カードからの利益がメンバーの収入になった。 当時の私は、そういった題材の絵が得意だった。
24歳のとき、美術の学位取得を目標にブライトン大学に入った。 生体スケッチのクラスでは、対象となる人体の大きさや形はバラエティー豊かだったが、身体障害を負った人物がモデルになることはなかった。 それで私も、身体障害のない人体のスケッチを続けた。 2学期の半ば頃、私の担当教師だったマデレーンが私の多数のスケッチを見てこう言った。 「あなたがきれいな人々ばかりを描くのは、自分の体、自分がどう見えるかということから目をそらしたいからだと私は思うわ。」 その言葉に私は仰天した。 それは個人攻撃だと思った。 大学に入ったのは美術を学ぶためであって、精神分析され主題の選択を批判されるためではない。
マデレーンが去ったあと、私は座り、言われたことを考え、それが真実であったと気づいた。 自分自身を本当に深く見つめたことはない。 教師は私に、何かとても重要で意味のあることに気づかせてくれたのだ。 教師の言葉を引きずった私は図書館に行き、落ち着かない気分で美術書を、鼻と口を使ってぱらぱらとめくった。 その時そのうちの一冊が、ある写真のページを開いて止まった。 ミロのヴィーナス。 両腕のない、ギリシャ風の大理石像。 ちょっと待って――これ、私じゃない! その瞬間、今日なお続く私のテーマの追求が始まった。 自分の体と向き合ったとき、自分自身がどう感じ、他人がどう感じるか。
1993年に28歳でブライトン大学を卒業した私は、MFPAの正式メンバーとなった。 住宅ローンを組んで浜辺近くに家を買い、充実した日々を過ごした。 そして1999年4月、妊娠が判明する。 しかし子供の父親は、私の出産を望まなかった。 離婚経験があり、既に子供たちのいる彼は、私に堕胎を迫った。 私も、ほとんど同意しかけた。 一体自分は、シングル・マザーとして一人でどうやって赤ちゃんを育てるつもりだ? 赤ちゃんが自分と似たような肢体をもって生まれてくる可能性もある。 しかしその可能性は、5%程度だと告げられた。 たとえ子供が障害を負って生まれても、自分以上にそれを理解しサポートできる人間はいない。 1999年に息子のパリス(Parys)が生まれ、私は幸福感に酔いしれた。 息子は健康で五体満足でかわいかった。 私は息子に母乳を与えること、足を使っておむつを替えることを習った。 自分にできないことは、福祉サービスがサポートしてくれた。 そうして息子と私は、共に多くを乗り越えてきた。 息子にとって、誕生以来常に身近にいた人間は、私だけだ。 私の身体障害が二人の間の障壁になったことは、一度もない。
妊娠4ヶ月だったとき、ブライトンのギャラリーが私の個展の準備に入ってくれた。 展示作品は、自分の半生を主題にした写真や、私の普通と異なる身体をモチーフに花や翼をあしらったコラージュなどだった。 それらの作品を展示することによって、普通の身体の人々が私の身体を別の見方で見てくれるようになることを願っていた。 私が自分の身体を受け入れるようになるまでの道のりをたどり、さらには身体障害が芸術的、美的なものであり得る可能性を感じて欲しかったのだ。
マーク・クィンと名乗るアーティストから電話があったのは、1999年1月のこと。 彼は身体障害者をモデルにした彫像を多数製作していて、私にもモデルを依頼してきたのだ。 彼と話すうち、彼が通常の好奇心から身体障害に興味を持っているのではないことがわかった。 彼は「古い彫像には、年月を経て腕や脚がなくなってしまったものがある。 それにもかかわらず、それらは無条件に美しいものとみなされる。 ならば、生まれつき四肢を持たずに生まれてきた人間の、同等に美しい彫像を作りたい。 どこに違いがある?」 彼の言葉に動かされたものの、当時の私はひどく体調が悪く、断わざるを得なかった。
何ヶ月も経ってから、マークが突然、ふたたび電話をかけてきた。 彼は私に体調を訊き、モデルになってくれるかと言った。 くすりと笑った私は、「今妊娠7ヶ月だから、モデルにするには最悪の状態よ」と彼に告げた。 それに対する彼の返事は、私を驚かせた。 「それは願ってもないことだ!」
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『身重のアリソン・ラッパー』の彫像。 凛とした強さ・美しさ・高潔さに溢れていて、私は好きです。 「自分の体内に宿った命は、なんとしてでも自分が守るぞ!」という決意がみなぎっているようで。
それにしてもアリソンさん、バイタリティーに溢れて、すごい。 「神はそれに耐えられる者にのみ、試練を与える」と言うけれど・・・
息子さんは、早くも12歳。 これからはアリソンさんの良き相棒、良き相談相手になってくれることでしょう。
お二人のご健康とご多幸をお祈りしています・・・
(って、年賀状みたいですが )
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66148082.html
どうもありがとうございます!