心の扉 神戸カウンセリング花時計

心理療法や催眠療法、ストレス解消や悩み等メンタルに関するもの、そして日常の出来事を自由気ままに掲載します。

劣等感

2019年05月02日 | 心理カウンセリング

腹が減ったライオンに余程の事情が無い限り

わざわざゾウを襲ったりしないのを見ても、

生き物の第一優先項目は、安心安全の見通しが立つことで、

何かの欲求の獲得に動くのは、その後のことだと思われます。

 

ホラー映画で、夜中に窓の外で動く影を感じて、

怖いものがいるかも知れない窓にわざわざ近づいていって、

バーンとお化けが登場!「ぎゃー!」

 

このような行動も不確かなものに注意を払い、

自己の安全と安心を確保しようとする本能の働きかと思うのです。

 

世の中、上には上あり、下には下ありで、

全てのことにおいてトップの人も下位の人もいないので

誰しもが上と下の間に存在することになります。


集団の中で自分が持つものを持たない人に注目して

優越感を感じることよりも

自分に欠けているものに注目するのは

安心安全を確認しようとする自然な行為かもしれません。

 

この時、目的地に向かって意欲的に歩んでいる状態ならば、

取り出した地図で自分の現在地を確認するような気分で

自分の何かと誰かの何かを比べられるのだと思いますが、

 

安全安心のために保安員の見回り的な意味合いだと

自分の穴ぼこ、欠けている部分を懸命に探すのですから、

足らず部分や欠けている部分や至らない部分を次々と発見して

不快な気持ちを感じてしまいがちになるのは、

致し方がないことだと言えます。


この不快な感じを持つこと自体は悪いことではなく、

自分が成長するためのモチベーションやエネルギーとなるのですが、

欠点とか、劣っているとか、恥ずかしい部分だとして

後ろ向きな認識してしまうと、

不快な感じに怖さや不安、辛さや痛みが加わり、

時に劣等感、羞恥心、嫉妬心、辛みの気持ちとなることがあります。

 

この増大した不快な感じを解消するために

自分にではなく他人へ働きかける場合があります。


その代表的なものの一つは、

自分が不快を感じる原因となっている他人を攻撃します。


毛嫌いしたり、攻撃をしたり、邪魔をしたり、

引きずり落とそうとしたり、陥れようとしたりと、

厄介で迷惑な行動をとります。


他人を攻撃せずに自分が会社を辞めたり、

付き合いを遠ざけたりして自分の視界からその人を遠ざけたりします。


もう一つは、

自分の不幸を、ことさらに周りの人にアピールします。

自分の不幸を笑い話的に伝えて平気なふりをして

自分の本当の気持ちを自分や周りの人に誤魔化します。


あるいは、深刻な話として伝えて周りの人から

不幸を否定してもらったり、気持ちを汲んでもらうことで

不快な気持ちを一時的に軽くすることが出来ます。


もう一つは、

ことさらに自分の何かを真贋を厭わずに自慢をします。

「自分はこんなに凄いんだ。」「自分はこんなに恵まれているんだ。」

自慢をすることで自分の苦しい本心を

自分や周りの人の眼からそらすことが出来ます。


でもこれって自分に働きかける場合は、

己一人への働きかけで済みますが、

他人に働きかける場合は、複数の人に働きかける必要があるので

より大変な労力を要する方を、

わざわざ選択していることになるんですよね。


それには、その人なりの理由が存在するのですが、

長くなるので、その理由を考察することには触れないでおきます。

 

労力、努力、あるいは受容、離脱を選択せずに、

我慢、辛抱を選択する場合がありますが、

一見、楽な方を選択しているようですが、

私は、より厳しくなる選択だと思えてしまうのです。


先の自分へ働きかけるモチベーションとする場合は、

自分の成長となると共に不快な気分を解消出来る

ダブルの果実を得ることが出来ますが、


後の場合は、

自分の成長に繋がらないだけでなく、

次第に周りで増えていく自分が生み出した

怒れる人達によってその報いを受ける可能性が大ですし、


不幸や自慢をアピールすることで、

水面下で自分への不信任や低評価の種を、

周りの人に撒き散らすことになりかねません。


劣等感に苛まれると言うのは、

劣等感に無茶苦茶に抵抗している状態で、

本当に劣っていることを認め、受け入れている人は

劣等感に苛まれることはありません。

 

もしかすると、劣等感に苛まれようが、

不快な気分になることを選択するのは、

無意識では、自分も頑張れば対象者と同じ所であるとか、

近い所まで行けそうな感覚を持っているのかもしれず、


不快な感じは、お前はやれる。やれるんだぞ。

「立つんだジョー!」「エンジンに火を入れろ!」って

無意識の要求かもしれませんが、

ラスボス的に否定的な自己イメージや防御的な要求が

無意識に鎮座したままだと、

第一優先項目の安全、安心が常に勝利し続けることになります。

 

必要以上の不快な気分を味わないためには、

イチロー選手やボルト選手やビル・ゲイツと

自分を比べて劣等感や嫉妬心や妬みを持たずに、

憧れや尊敬の念を持つのと同じように、


誰かと同じ山頂を目指そうとする競争心を捨てて

自分なりのペースで山頂を目指すか、

誰かとは違う自分なりの山頂を目指そうとするか、

山頂に拘らずに平野、高原、海岸通りで

気持ち良く過ごせる場所を確保することです。

ー他人は他人、自分は自分ー

 

自己成長するための原動力になるのなら

むしろ劣等感は持っていた方が良いと

何かの本に書かれていた記憶があるのですが、

いやいやと思うのです。


劣等感という不快な気分を

どこかのほどよい地点で自分の満足や喜びに昇華させ、

贅沢を言えば、他者の満足や喜びに貢献することを

自己の喜びとなるようなシフトチェンジが大切で、


最後の最後まで劣等感をエンジンをぶん回し続けて

どんなに高い山頂に至ろうが、

それで幸福を感じられるとは私には思えないのです。


最後の一日に人生の絶頂を味わうことが出来たら、

それはそれで幸せな人生なのかも知れませんが、

私達は、牛や馬じゃないんだから

劣等感なんていう鞭は、感じないに越したことはなくて、

原動力は、挑戦心とか冒険心とか興味、喜びや楽しみの方が

望ましいと思うのです。


私達は集団の中で生きますから、

どうしても他人と比べてしまい劣等感を感じてしまうものなので

劣等感を0にするなんて大それたことを目標にすると、

「なんでまだ劣等感を感じてしまうんだ。俺は駄目な奴だあああ。」

と言う具合に、逆に劣等感を呼び込む種となり得ます。


なので、鞭の痛みもローソクの熱さも

程々なら役に立ったり喜びになったりしそうなので

程々の劣等感を感じるのなら良しとするのが現実的かと思うのです。


そして、

簡単すぎるゲームなんて全く面白くないように、

あえてボクサー達が危険の中に身を置いて、

ピリピリした緊張感を楽しむように、

人生ってのは、完全なる安定や安全の道を選んで進むことは、

充実感や満足感や達成感から離れた道を行くのと

同じ意味を持つのかも知れません。

 

催眠療法&心理療法 神戸ストレスカウンセリング・ルーム花時計


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