昨日、札幌から『逍遥通信』第九号が送られてきた。『逍遥通信』は、札幌南高校出身者が中心となって刊行している雑誌で、私は外岡秀俊特集号からのつきあいである。外岡も、同校出身者である。
早速読みはじめた。なかなか含蓄のある文が並ぶ。作家・久間十義の「僻目でたどる情報将校D・キーン」は、キーンがほんとうに日本人の心性を理解していたのかどうかを追究する中で、火野葦平などとの関係を記す。新たな知の発見である。
エッセイの「ベートーヴェンは収束しモーツアルトは発散している」(高岡弘)は、数学の記述から始まり、次にベートーベンとモーツアルトの作品に及ぶ。ベートーベンの音楽は収束し、モーツアルトのそれは発散すると指摘する。私はベートーベン、モーツアルト両方とも聴くが、若い頃はベートーベンの曲が好きだった。ベートーベンの音楽は構築物で、確かにピシッと終わる。高岡はベートーベンは作品を「製造」しているという表現を使う。たしかにベートーベンは曲づくりに集中し、一つずつきちんと「製造」している。
高岡は、モーツアルトは「出産」していると表現する。私は、モーツアルトは天才で、おそらく音楽が彼の脳裡に次々と湧いてきて、それを楽譜に転写しているだけだという感覚を持っている。なるほど「出産」と表現してもよいと思う。「製造」するのではないから、次々と湧きあがる音符を連ねるのだから、ピシッと終わるようなものではない。
鈴木吾郎の「サイズ」。彫刻家である鈴木は、作品を表現するときに自分にあったサイズというものがあることを指摘し、それをもとに、人生にもそれぞれのサイズがあるという。その通りだと思う。
近所に森さんという石材店のオーナーがいる。森さんは、もちろん墓石もつくるが、石の彫刻もやる。そして油絵も描き、書もたしなむ。私からみれば、すべてが一流だと思うのだが、彼は有名ではない。たくさん作品を見せてもらったが、彼はなんでもできる。例えば、「般若心経」を次々と書くのだが、その字体はそれぞれ異なり、ものすごい枚数の作品を所蔵している。同じ字体で般若心経を書くにはすごい集中力が必要だと思うが、彼は何も意識せずに書き上げていく。森さんは、次々と心の奥底から湧きあがるものを画布や紙に表し、石に刻む。あたかもモーツアルトのようだ。
彼は「私は石屋だ」という。生き方のサイズを持っている人だと思う。
『逍遥通信』、いろいろな思考を導く雑誌である。