「王将」、国民歌謡と言っても過言は無い名曲中の名曲である。
この歌は他の歌よりも様々なドラマがある。
昭和33年、歌謡界に古賀政男の強力なバックアップでデビューした村田英雄。
デビュー曲は「無法松の一生」、B面は「度胸千両」。
今でこそ、どの演歌歌手も歌っているこの曲であるが、当時は全く売れなかった。
スタッフ一同「あれ?」である。天下の古賀政男を力を入れているのにも関わらず、この結果。
それでも月に一枚のペースでレコードを発売していった。
だが、売れたのはリメイクの「人生劇場」程度だった。
まだ、NHKからのパージは解かれていない。
そのため、紅白歌合戦には出場できず。
さすがの村田英雄も焦り、一度は諦めて故郷へ帰ったこともあった。
「人物だけを扱う自分の路線に問題があるのだろうか」
しかし村田はやはり人と人とが織り成す光と影のドラマを歌いたかった。
自分の浪曲の師匠・酒井雲もそうだったように…。
腹が決まった頃、プロダクションから連絡が来た。
「服部良一先生で1曲やってみることにした。戻って来い」
何と題材はチンギス=ハン。やっぱり曲は売れなかった。
そうあれこれと模索している頃、船村徹のコロムビア移籍の一報が入った。
「船村徹でやってみないか」
ディレクターの斉藤氏が、村田のプロダクションの社長・西川幸男に持ちかけた。
「船村はいい。でも古賀先生はどうするんだ。服部先生とは勝手が違うぞ」
「それはあんたのほうから、古賀先生に話をしてくれ。我々がそんなことを言ったらクビが飛んでしまう」
その夜のうちに西川は古賀邸へ向かった。
彼も村田の売り込みに必死だった。
当然のことながら古賀政男は激怒した。
「君も村田君も浪曲師出身だろう。義理と人情を大事するのが浪花節だろう。帰れ、帰りたまえ」
一応は言いに行ったのだから…と西川は製作にOKを出した。
もう水面下では進んでいたが。
無論、失敗は許されない。
しかし、まだ曲の完成までにはひと山あったのである。
作詞の西條八十である。
彼が詩を書いてくれないのである。
村田と西川は何度も世田谷の西條邸へ出向いた。
「先生、お願いします」
「ダメだ、俺は美空ひばりや島倉千代子とか、女の歌しか書かないんだ。帰れ」
何度も門前払いを受けた。
やがて何度も頼み込みに行くうちに西條の対応が変わってきた。
「君の人間性もわからないのに歌なんか書けるか」
男の歌は書かない、最初に比べて、脈が出てきた。
数日後、とうとう西條は二人を屋敷へ入れ、話を聞いたのだった。
しかし、答えはノーだった。
それからも村田は西條邸へ出向いた。
ある日、通り雨に逢い、西條邸に着く頃にはずぶ濡れになってしまった。
玄関の庇をを借りて、少し乾かしてから…そう思っていたとき、西條夫人が出てきた。
「あら何ですか、そんなところで。雨が降っているのに大変ね。お上がりなさい」
「どうもすみません。あの先生は」
「まだ寝てますよ」
「今日はぜひともお会いしたいのですが」
「あなたも本当に辛抱強いのね。わかったわ、ちょっと待ってて頂戴」
夫人が2階へそう言って、駆け上がって行った。
しばらくして、西條が降りてきた。
「君も本当にしつこい男だね。ダメだ、男の歌は。いやだ」
「先生、そう言わずお願いします」
「第一、私は君という人間をよく知らないから歌など書けない。何度も言っとるだろう」
「では先生、私という人間をじっくり見ていただけませんか。今日はトコトン話をさせていただきます」
「仕方の無いやつだ、本当に。じゃあ、今晩、飯でも食おう。それでいいか」
「はい、お願いします」
しばらくして、二人はつくし亭へ向かった。
村田が西條のモトに通いつめ、やっと実現した1対1の対話の時間だった。
「君は飲むんだろう」
「ええ、先生もお飲みになるんでしょう」
「私はほんの少しだ」
村田が西條から貰った盃を飲み干し、料理に手をつけている様を、西條はじっと観察していた。
「君には好き嫌いが無いのか」
「はい、ありません。何でも食べます」
「それにしてもよく飲むな」
「そうですか。そうでもないですよ」
村田の態度に、徐々にほぐれてきた西條も、やがてこんなことを言った。
「村田君、君は恋をしたことがあるか」
「ええ、もちろんですよ。何度もあります」
「そうか。…私はね、心中をしたことがある」
「先生が?へえ」
「今の女房と一緒になる前、米国に好きな女がいてな。桑港で一緒に川に飛び込んだんだ」
「やりますね、先生」
「ところが、飛び込んだら、背が立っちゃてな。浅かったんだな、川が」
「ワッハッハ」
「アハハじゃないぞ。あんなにバツが悪かったことは無い。心中は未遂に終り、私はこうして今も
生きている。人生なんて不思議なもんだ。あの川がもっと深かったら、今の私は無い」
会食が終わる時、西條は村田に言った。
「村田君、君はなかなか面白い男のようだ。一週間後にまた来るといい」
「と、言うと曲を書いていただけるということですか」
「ああ、やってみよう」
「ありがとうございます、先生。ありがとうございます」
それから一週間後、村田は再び西條邸へ。
2階から降りてきた西條は1枚の原稿用紙を村田に手渡した。
「できましたか」
村田は胸を躍らせて、原稿用紙を見た。
1行、「吹けば飛ぶような将棋の駒に」、それだけだ。
裏もひっくり返してみたが、何も書いていない。
「裏になぞ、書いてやしないよ」
村田の行動を見て、西條は言った。
「たった一行だけですか」
「そうがっかりするな。出だしが肝心なんだ。この1行が歌の全てなんだ。これを作るまでが大変なんだ。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる。大丈夫だ、この1行には自信がある。良い歌が出来る。」
それからしばらくした後、詞は完成し、船村徹の曲も出来上がり、唄のレッスンが始まった。
船村・村田、共に酒好きで、船村は村田の顔を見るたびに「一杯飲むか」と言い、レッスンが始まる頃には二人とも大分酔っ払っていた。
そんな二人の姿をじっと見ていたのが、船村の弟子・大野穣。
のちの北島三郎、その人である。大野もデビュー後は新栄プロに世話になることになる。
その北島は後にこう語っている。
「『ああ良い歌だ。俺がこの歌を歌うことができたらどれだけ幸せだろう』、そう思ってました」
そんなレッスンを2週間し、レコーディングに望んだ。
ついに芽が出た、この歌は徐々に評判を上げていき、ロングセラーとなり、昭和37年には戦後初のミリオンセラーを突破した。この年のレコード大賞特別賞も受賞した。
そして、相乗効果で他のシングルも売れた。
ここにきてやっと「無法松の一生」も知られるようになるのである。
「王将」発売は昭和36年の晩秋。始めからの大ヒットではなかった。
どうやら、まずは名古屋からのヒットらしい。
そして、九州・四国。
さらに昭和36年、念願の紅白歌合戦初出場の際に「王将」を歌ったことが東京での人気に火をつけた。
昭和37年6月、東京の歌舞伎座にて60万枚突破記念祝賀会が開かれた。
「王将」人気で、仏でもフランス人歌手が歌うということで立会いに行っていた船村も急遽帰国。
ヒットを祝った。
このときの前歌がプロ初舞台となったのが北島三郎・新川二朗の二人である。
ところが、そのヒットの真っ只中、とんでもない事件がおきていた。
戯曲「王将」の作者・北条秀司氏からのクレームだった。
浅草国際劇場での公演初日、あと一時間で幕が開く、そんな時だった。
村田は、坂田三吉に扮する10分間の一人芝居の練習をしていた。
「王将」のヒットでロクに稽古の時間がとれず、どうやら形になりそうだ、と思った矢先だった。
「ごめんなさい、中山です」
そう言って、一人の男が入ってきた。しかし村田はそんな男は知らない。
反応できずにいると
「北条秀司のところの中山です。あなた、村田英雄さんですね」
「そうですが」
「今日、幕、開けさせませんよ」
「どういうことですか」
「うちの先生の作品を何の断りも無く、歌にしたり芝居にしたり、いったいどういうつもりなんだ。天皇(北条秀司氏)がカンカンに怒っていますよ」
その言葉を聴いたとたん、周りの人間は逃げた。
公演初日、コロムビアの重役も来ていたが、皆逃げた。
村田一人がその男に事情を聴く。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私には何が何だかサッパリ分からない。いったいどうすればいいというんですか」
相手は一人、その男はいっそう居丈高に言った。
「だから、今日の公演はやらせないと言っているんだ。ふざけたマネをするな。コロムビアに言ってもラチがあかない。歌っているのはあんたなんだから、あんたに責任をとってもらうしかないだろう」
村田は今の事情を説明し、公演をやめることはできない、そう言ったが相手は
「そんなことは知らん。こっちは新国劇の舞台も止めたことがあるんだ」
その後、間に入った人の調整で、著作権料200万の支払いとしかるべき人物による北条秀司氏への挨拶、ということで決着が付き、無事(?)、幕は開いた。
1週間後の公演の終了後、村田は北条秀司氏へ挨拶に出向くことになった。
コロムビア関係者が北条氏に恐れをなして、誰も行こうとしなかったためである。
「さて、誰が…」そんな会話が飛び交っていた時、北条側から連絡が来た。
先方の要望は、人気番組「スター千一夜」(フジテレビ)に出て、仲のよいところをアピールしたい
、そういうものだった。
「なぜ私がそこまでする必要があるんだ。冗談じゃない。絶対に嫌だ」
村田は抵抗した。
が、コロムビア関係者に拝み倒され、仕方なく村田は河田町のフジテレビへ。
楽屋で北条氏と初対面した。
村田が自己紹介すると
「ああ、あんたが村田英雄か。私の作品をえらい宣伝してくれてるらしいな」
と皮肉めいた言葉。村田もさすがに腹に据えかねた。
「先生、ぶしつけかも判りませんが、私は筋の通らないことには我慢がならない性分なので、今回の事で言わせていただきたいことがあります」
すると北条氏は手を挙げて村田を制した。
「わかった、わかった。もう何も言うな。それ以上言うな。私もだいたいの所は若い衆から聞いているから、君の言いたいことは分かっているつもりだ。今日はとにかく、二人で仲良くテレビにでようじゃないか」
そして本番中、北条氏はこう発言した。
「今後『王将』に関して、村田君がどこで何をやってもかまわない。私が許可する」
全国ネットで村田に特権を与えたのである。
「この発言もさらなるヒットの影響を与えたのでは」、村田は後年、回想している。
「その代わりといってはなんだが、村田君、アレを書くのには私も相当苦労したんだよ。だから汚さないように頼むよ。君を信頼しているから、しっかり頼むよ」
さすが、大物である。
こうして、この「王将」騒動は一件落着したのだった。
さて、この「王将」。
ヒット当時、ただ一人面白くない思いで見ていた人がいた。
作曲家の古賀政男である。
ヒット当時、とあるパーティーである男が古賀に対してこう言ってしまった。
「先生、さすがですね。凄い勢いですね。大ヒットですよ『王将』」
「あれは私の曲ではない」
温厚な古賀政男をその一言で怒らせてしまった。
なお村田と古賀が和解するのはそれから数年の後である。
(昭和40年ごろまでに和解していると思われる)
「王将」、今でもその歌の魅力は色褪せない。
昭和歌謡史上、最高の応援歌の1曲である。
そのヒットした理由は、詞・曲・唄の三拍子が文句なしに素晴らしいことにつきる。
♪飛ぶような将棋の駒に の最初から盛り上がりを見せる部分なぞ、たまらない。
しかし、三人は将棋が出来ない(知らない)。
だから、西條は♪吹けば飛ぶような将棋の駒に という一節が書けた。
なお、西條・村田・船村の三氏はヒットの功績によって、名誉初段を贈られている。
だが、私はこの歌を他の歌手の歌で聴いて良いと思ったことは無い。
美空ひばり、ちあきなおみ…私が好きな歌手の歌を聴いてもだ。
この歌には村田英雄が欠かせない。
村田英雄無くして「王将」無し、「王将」無くして村田英雄無し。
そう思う。
(私は村田英雄ファンですので一通り歌は知っています、他の歌も大好きです。
ただ、この歌が半端じゃなく偉大であるだけです)
この歌は他の歌よりも様々なドラマがある。
昭和33年、歌謡界に古賀政男の強力なバックアップでデビューした村田英雄。
デビュー曲は「無法松の一生」、B面は「度胸千両」。
今でこそ、どの演歌歌手も歌っているこの曲であるが、当時は全く売れなかった。
スタッフ一同「あれ?」である。天下の古賀政男を力を入れているのにも関わらず、この結果。
それでも月に一枚のペースでレコードを発売していった。
だが、売れたのはリメイクの「人生劇場」程度だった。
まだ、NHKからのパージは解かれていない。
そのため、紅白歌合戦には出場できず。
さすがの村田英雄も焦り、一度は諦めて故郷へ帰ったこともあった。
「人物だけを扱う自分の路線に問題があるのだろうか」
しかし村田はやはり人と人とが織り成す光と影のドラマを歌いたかった。
自分の浪曲の師匠・酒井雲もそうだったように…。
腹が決まった頃、プロダクションから連絡が来た。
「服部良一先生で1曲やってみることにした。戻って来い」
何と題材はチンギス=ハン。やっぱり曲は売れなかった。
そうあれこれと模索している頃、船村徹のコロムビア移籍の一報が入った。
「船村徹でやってみないか」
ディレクターの斉藤氏が、村田のプロダクションの社長・西川幸男に持ちかけた。
「船村はいい。でも古賀先生はどうするんだ。服部先生とは勝手が違うぞ」
「それはあんたのほうから、古賀先生に話をしてくれ。我々がそんなことを言ったらクビが飛んでしまう」
その夜のうちに西川は古賀邸へ向かった。
彼も村田の売り込みに必死だった。
当然のことながら古賀政男は激怒した。
「君も村田君も浪曲師出身だろう。義理と人情を大事するのが浪花節だろう。帰れ、帰りたまえ」
一応は言いに行ったのだから…と西川は製作にOKを出した。
もう水面下では進んでいたが。
無論、失敗は許されない。
しかし、まだ曲の完成までにはひと山あったのである。
作詞の西條八十である。
彼が詩を書いてくれないのである。
村田と西川は何度も世田谷の西條邸へ出向いた。
「先生、お願いします」
「ダメだ、俺は美空ひばりや島倉千代子とか、女の歌しか書かないんだ。帰れ」
何度も門前払いを受けた。
やがて何度も頼み込みに行くうちに西條の対応が変わってきた。
「君の人間性もわからないのに歌なんか書けるか」
男の歌は書かない、最初に比べて、脈が出てきた。
数日後、とうとう西條は二人を屋敷へ入れ、話を聞いたのだった。
しかし、答えはノーだった。
それからも村田は西條邸へ出向いた。
ある日、通り雨に逢い、西條邸に着く頃にはずぶ濡れになってしまった。
玄関の庇をを借りて、少し乾かしてから…そう思っていたとき、西條夫人が出てきた。
「あら何ですか、そんなところで。雨が降っているのに大変ね。お上がりなさい」
「どうもすみません。あの先生は」
「まだ寝てますよ」
「今日はぜひともお会いしたいのですが」
「あなたも本当に辛抱強いのね。わかったわ、ちょっと待ってて頂戴」
夫人が2階へそう言って、駆け上がって行った。
しばらくして、西條が降りてきた。
「君も本当にしつこい男だね。ダメだ、男の歌は。いやだ」
「先生、そう言わずお願いします」
「第一、私は君という人間をよく知らないから歌など書けない。何度も言っとるだろう」
「では先生、私という人間をじっくり見ていただけませんか。今日はトコトン話をさせていただきます」
「仕方の無いやつだ、本当に。じゃあ、今晩、飯でも食おう。それでいいか」
「はい、お願いします」
しばらくして、二人はつくし亭へ向かった。
村田が西條のモトに通いつめ、やっと実現した1対1の対話の時間だった。
「君は飲むんだろう」
「ええ、先生もお飲みになるんでしょう」
「私はほんの少しだ」
村田が西條から貰った盃を飲み干し、料理に手をつけている様を、西條はじっと観察していた。
「君には好き嫌いが無いのか」
「はい、ありません。何でも食べます」
「それにしてもよく飲むな」
「そうですか。そうでもないですよ」
村田の態度に、徐々にほぐれてきた西條も、やがてこんなことを言った。
「村田君、君は恋をしたことがあるか」
「ええ、もちろんですよ。何度もあります」
「そうか。…私はね、心中をしたことがある」
「先生が?へえ」
「今の女房と一緒になる前、米国に好きな女がいてな。桑港で一緒に川に飛び込んだんだ」
「やりますね、先生」
「ところが、飛び込んだら、背が立っちゃてな。浅かったんだな、川が」
「ワッハッハ」
「アハハじゃないぞ。あんなにバツが悪かったことは無い。心中は未遂に終り、私はこうして今も
生きている。人生なんて不思議なもんだ。あの川がもっと深かったら、今の私は無い」
会食が終わる時、西條は村田に言った。
「村田君、君はなかなか面白い男のようだ。一週間後にまた来るといい」
「と、言うと曲を書いていただけるということですか」
「ああ、やってみよう」
「ありがとうございます、先生。ありがとうございます」
それから一週間後、村田は再び西條邸へ。
2階から降りてきた西條は1枚の原稿用紙を村田に手渡した。
「できましたか」
村田は胸を躍らせて、原稿用紙を見た。
1行、「吹けば飛ぶような将棋の駒に」、それだけだ。
裏もひっくり返してみたが、何も書いていない。
「裏になぞ、書いてやしないよ」
村田の行動を見て、西條は言った。
「たった一行だけですか」
「そうがっかりするな。出だしが肝心なんだ。この1行が歌の全てなんだ。これを作るまでが大変なんだ。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる。大丈夫だ、この1行には自信がある。良い歌が出来る。」
それからしばらくした後、詞は完成し、船村徹の曲も出来上がり、唄のレッスンが始まった。
船村・村田、共に酒好きで、船村は村田の顔を見るたびに「一杯飲むか」と言い、レッスンが始まる頃には二人とも大分酔っ払っていた。
そんな二人の姿をじっと見ていたのが、船村の弟子・大野穣。
のちの北島三郎、その人である。大野もデビュー後は新栄プロに世話になることになる。
その北島は後にこう語っている。
「『ああ良い歌だ。俺がこの歌を歌うことができたらどれだけ幸せだろう』、そう思ってました」
そんなレッスンを2週間し、レコーディングに望んだ。
ついに芽が出た、この歌は徐々に評判を上げていき、ロングセラーとなり、昭和37年には戦後初のミリオンセラーを突破した。この年のレコード大賞特別賞も受賞した。
そして、相乗効果で他のシングルも売れた。
ここにきてやっと「無法松の一生」も知られるようになるのである。
「王将」発売は昭和36年の晩秋。始めからの大ヒットではなかった。
どうやら、まずは名古屋からのヒットらしい。
そして、九州・四国。
さらに昭和36年、念願の紅白歌合戦初出場の際に「王将」を歌ったことが東京での人気に火をつけた。
昭和37年6月、東京の歌舞伎座にて60万枚突破記念祝賀会が開かれた。
「王将」人気で、仏でもフランス人歌手が歌うということで立会いに行っていた船村も急遽帰国。
ヒットを祝った。
このときの前歌がプロ初舞台となったのが北島三郎・新川二朗の二人である。
ところが、そのヒットの真っ只中、とんでもない事件がおきていた。
戯曲「王将」の作者・北条秀司氏からのクレームだった。
浅草国際劇場での公演初日、あと一時間で幕が開く、そんな時だった。
村田は、坂田三吉に扮する10分間の一人芝居の練習をしていた。
「王将」のヒットでロクに稽古の時間がとれず、どうやら形になりそうだ、と思った矢先だった。
「ごめんなさい、中山です」
そう言って、一人の男が入ってきた。しかし村田はそんな男は知らない。
反応できずにいると
「北条秀司のところの中山です。あなた、村田英雄さんですね」
「そうですが」
「今日、幕、開けさせませんよ」
「どういうことですか」
「うちの先生の作品を何の断りも無く、歌にしたり芝居にしたり、いったいどういうつもりなんだ。天皇(北条秀司氏)がカンカンに怒っていますよ」
その言葉を聴いたとたん、周りの人間は逃げた。
公演初日、コロムビアの重役も来ていたが、皆逃げた。
村田一人がその男に事情を聴く。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私には何が何だかサッパリ分からない。いったいどうすればいいというんですか」
相手は一人、その男はいっそう居丈高に言った。
「だから、今日の公演はやらせないと言っているんだ。ふざけたマネをするな。コロムビアに言ってもラチがあかない。歌っているのはあんたなんだから、あんたに責任をとってもらうしかないだろう」
村田は今の事情を説明し、公演をやめることはできない、そう言ったが相手は
「そんなことは知らん。こっちは新国劇の舞台も止めたことがあるんだ」
その後、間に入った人の調整で、著作権料200万の支払いとしかるべき人物による北条秀司氏への挨拶、ということで決着が付き、無事(?)、幕は開いた。
1週間後の公演の終了後、村田は北条秀司氏へ挨拶に出向くことになった。
コロムビア関係者が北条氏に恐れをなして、誰も行こうとしなかったためである。
「さて、誰が…」そんな会話が飛び交っていた時、北条側から連絡が来た。
先方の要望は、人気番組「スター千一夜」(フジテレビ)に出て、仲のよいところをアピールしたい
、そういうものだった。
「なぜ私がそこまでする必要があるんだ。冗談じゃない。絶対に嫌だ」
村田は抵抗した。
が、コロムビア関係者に拝み倒され、仕方なく村田は河田町のフジテレビへ。
楽屋で北条氏と初対面した。
村田が自己紹介すると
「ああ、あんたが村田英雄か。私の作品をえらい宣伝してくれてるらしいな」
と皮肉めいた言葉。村田もさすがに腹に据えかねた。
「先生、ぶしつけかも判りませんが、私は筋の通らないことには我慢がならない性分なので、今回の事で言わせていただきたいことがあります」
すると北条氏は手を挙げて村田を制した。
「わかった、わかった。もう何も言うな。それ以上言うな。私もだいたいの所は若い衆から聞いているから、君の言いたいことは分かっているつもりだ。今日はとにかく、二人で仲良くテレビにでようじゃないか」
そして本番中、北条氏はこう発言した。
「今後『王将』に関して、村田君がどこで何をやってもかまわない。私が許可する」
全国ネットで村田に特権を与えたのである。
「この発言もさらなるヒットの影響を与えたのでは」、村田は後年、回想している。
「その代わりといってはなんだが、村田君、アレを書くのには私も相当苦労したんだよ。だから汚さないように頼むよ。君を信頼しているから、しっかり頼むよ」
さすが、大物である。
こうして、この「王将」騒動は一件落着したのだった。
さて、この「王将」。
ヒット当時、ただ一人面白くない思いで見ていた人がいた。
作曲家の古賀政男である。
ヒット当時、とあるパーティーである男が古賀に対してこう言ってしまった。
「先生、さすがですね。凄い勢いですね。大ヒットですよ『王将』」
「あれは私の曲ではない」
温厚な古賀政男をその一言で怒らせてしまった。
なお村田と古賀が和解するのはそれから数年の後である。
(昭和40年ごろまでに和解していると思われる)
「王将」、今でもその歌の魅力は色褪せない。
昭和歌謡史上、最高の応援歌の1曲である。
そのヒットした理由は、詞・曲・唄の三拍子が文句なしに素晴らしいことにつきる。
♪飛ぶような将棋の駒に の最初から盛り上がりを見せる部分なぞ、たまらない。
しかし、三人は将棋が出来ない(知らない)。
だから、西條は♪吹けば飛ぶような将棋の駒に という一節が書けた。
なお、西條・村田・船村の三氏はヒットの功績によって、名誉初段を贈られている。
だが、私はこの歌を他の歌手の歌で聴いて良いと思ったことは無い。
美空ひばり、ちあきなおみ…私が好きな歌手の歌を聴いてもだ。
この歌には村田英雄が欠かせない。
村田英雄無くして「王将」無し、「王将」無くして村田英雄無し。
そう思う。
(私は村田英雄ファンですので一通り歌は知っています、他の歌も大好きです。
ただ、この歌が半端じゃなく偉大であるだけです)
前にテレビで北島三郎が王将を歌ってるのを聴きましたが、やはり王将は村田英雄です。北島三郎もとても味のある屈指の歌手です。でも、王将は、村田英雄でした。
カラオケではみんなが歌うようなのはあまり歌いません。人生太鼓とか浪花の女とかです。
そうですね、「王将」は村田英雄以外考えられませんね。美空ひばりやちあきなおみ、五木ひろし…といった顔ぶれの王将も聴きましたが、やっぱり村田さん以外には考えられませんでした。
そうですね、「王将」は私にとっても愛唱歌であり応援歌でした。
お役に立てず、申し訳ありません。
西条八十や村田英雄が坂田三吉の人生を腹の底からとらえているからこそ、書けたし歌えた。名曲が聴けることを心から感謝しております。