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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

我が畑にビニールハウスを建設か

2010年12月21日 | Weblog
無農薬野菜栽培というのは、実際は売れるものはなかなか作れないようだから、市場に出回っている野菜の、特に葉っぱ類は、虫が食っていなければ、農薬を使っていると思って間違いないそうだ。私の作った野菜で、虫に食われないのは、冬になって雪の下にある野菜くらいで、あとは、皆虫食いである。佐藤元大工さんの野菜も無農薬だが、私の虫食いよりは少ない虫食いである。
土を良く起こして、冬の間に土と一緒に凍みさせれば、虫が死ぬと、佐藤元大工さんが言っていたので、昨年も一昨年もそうしたが、ジャガイモは相変わらず、けら虫に食われ、穴だらけである。畑の起こし方が足りないのかもしれない。おまけに今年のジャガイモは、皮をむくことなどできないほど超小さいものであった。水が足りなかったからだそうだ。
佐藤元大工さんは研究熱心だから、結果について、原因を探し求めて改良をしている。私は、石原敏雄君のようにわざわざ農業学校に2年も通って農業を志したりしていないから、この数年成り行きに任せて作っているだけだ。そのうちだんだん分かって来るだろうと、高をくくっている。
私の畑を見て笑っている秀夫ちゃん達が野菜を届けてくれるから、不自由していないし、艇庫用ビニールハウスの余った部材で、狭い畑に小さいビニールハウスを建てようと言ってくれている。帰宅したら、秀夫ちゃんだろうと思うがその部材の1部を小竹牛乳から畑の脇に運んで来てくれていた。上京前の11日に秀夫ちゃんが牛乳配達に来た時に、畑の広さを計ってくれ、⒉、5間四方しかないことが分かっている。6坪強しかない猫の額のような畑なのだ。いや、まだ畑と言える代物ではない。
昨日は、役所に行って、転入届を提出したが、この間来た税務課が失礼だったから、1月1日前にまた転出すると言っておいた。1月1日に現住所届のあるところに確定申告を提出しなければならないから、この市には、私ごときわずかな所得税でも払いたくないということの、表明である。

石原敏雄君の無農薬野菜生産について誤解を招く書き方をしたので訂正

2010年12月20日 | Weblog
12月12日付けのブログで、石原敏雄君が農薬を使わないとまともな野菜ができないと言っていたというのに対して、僚友斎藤攻氏がこのブログで石原敏雄君についてに記していると教えたので、見ると内容に誤解を招きかねない書き方であると言って、彼の思いを書いて来たので、ここで誤解の内容に訂正をする。
彼は60才で退職して、その後丸2年間の農業学校に通ってから北海道で丸7年農業に取り組んでいる。
農産物に対する庶民の既成概念を変えたいというのと、間違いと思われる農政に対して、農業を自分でして、発信しようと言う気持があった。つまり食に対する知識のなさを変えなければ日本の食生活に先はないと考えて実践したかったからで、例えばスーパーで買う野菜で丈何センチ以上なければ味が悪いとか、虫の歯跡がついていたら気持が悪いので買わないとかいろいろあり、一時期農協規範に挑戦する積もりで市場に出荷もしたが、別の観点から現在は出荷は断念したという。
私の文章は「石原は農薬を使わなければ農業ができない」と理解されるように書いてあるが、私の誤解である。
彼の生産物は無農薬が前提になっており、畑の野菜は全く農薬は使っていないし、野菜は無農薬でも生育するし、形、味に全く問題ない。
農薬を使わないと良い生産物ができないと言ったのは,りんご、桃,さくらんぼ、プルーンとかは、7年トライしたけどまともな物ができないのが分かって、農薬を掛けたことが1度あったけれど、作業が大変なので果実は諦めたというのであった。
私のブログを読んだ彼の同僚たち(ファンが多いらしいから)が彼の家を訪問したときに、折角の接待をも辞退するのではないかと心配だから抗議するというものであった。
果物の部分だけを扱って他を捨象した私に対する尤もな抗議で、謝って訂正する次第だ。

若い学生達との懇親会

2010年12月19日 | Weblog
外語大のボート部に去年、今年と二桁の入部で、最近にない部員増であるから、望ましい部活動である。かつての外語の学生は、男子のほうが多かったが、今は、女子のほうが多くなっていて、必然的に女子のほうがレースの成績が良い。
ボート部にいれば、社会人になったOBとの接触で、礼儀作法も身に付いていくから、就職にも有利であるが、最近の就職氷河期では、ボート部員だっただけでは、足りなく、成績なども良くないといけないと、山田文比古教授は言っておられた。我々の学生時代には、先輩に引っ張られて、健康であれば、問題なく就職できたのだが、今は、企業に教育する余裕がなくなっているとも言われた。
大学の教育は、社会に出た時にほんの少ししか役に立たない程度であるが、その点では、ボート部ばかりでなく、運動部で社会との繋がりを持っていると、役立つことは確かだ。もっとも、口うるさく先輩達から注意されて、嫌になって運動部を止めればそれっきりではあるが。
日本は、米国に従属して、縮んでいっているのだ。1、2年生の女子学生達と話しをしながら、今年のボート部活動の納会懇親会でそんなことを思った。

岸田光祐氏を偲ぶ会に出席

2010年12月18日 | Weblog
今回の最大の目的である、岸田光祐氏をしのぶ会が三菱の艇庫で開設されたのに出席した。三菱ばかりでなく、様々な大学ボート部の卒業生が100人以上も出席する、氏の遺徳の大きさをかんじさせる集まりであった。良い会の大隅多一郎氏の挨拶のあと,私も挨拶させられたので、7月に岸田夫妻がオールを持って来てリギングをしてくれたお陰で、8月1日の「とよま漕艇場」開所式が出来たことと、艇庫がないことを気にかけておられたので、ビニールハウス艇庫が出来たことを写真を提示して報告した。7月に我が家に泊まっていただいたとき、半ズボンの下からちらっとビニール袋に尿をためているのが見えたので、相当悪いのではないかと思っていたが、8月下旬から急に悪くなって行ったのだそうだ。
防衛大学校元教授で、宮が瀬湖ボート協会長の鶴野氏が来ていたので、日本の防衛が米国世界戦略に支配されているということを申し上げたら、米国を利用しているだけであると、日本の防衛が自立していると主張しておられた。しかし、このままでは日本の自立を望む右翼が台頭して世が乱れるのではないかと申し上げると、そういう心配はないと楽観的であられた。どうも、防衛大学校の教育は建前ばかりではないのか。。
外語大ボート部卒業生では、「とよま漕艇場」の開設に出席してくれた谷内君、立花君が出席していたので、久しぶりで逢え、宮が瀬湖ボート協会長の事務局長・立花君はそのあとの外語大ボート部の納会にも出席したので、旧交を温めることが出来た。さらに近所の飲み屋で2次会をしたのに、ともに参加し、そこでは、山田文比古ボート部長と、彼のゼミのテーマ、日本外交についても話し合った。

クラレの和久井君に会う

2010年12月17日 | Weblog
中央区役所から神保町までは、歩いて約30分、神保町から大手町までは約15分だから、良い運動になる。田舎にいると、歩かなくなる。都会では、電車に乗るにしても乗り換えがあるから、万歩計で8000歩くらいにはすぐなるが、田舎では町を一回りしてきても2000歩程度だ。ビニールハウスの建設で運動したといっても毎日ではなかった。寂聴さんは、足が痛くて歩けないと言うから、歩かないと、体力がなくなるのではないか。
神保町で鳴島兄と別れてから、大手町のクラレに行って和久井会長とあった。その途中にある、平将門の首塚に詣でた。クラレに行くときはよく寄っている。
和久井君は、腹の調子が悪いとかで、そのあと連れて行かれた、ひぐちではあまり飲食をしなかった。しかし、元気で、25日だかに1時間半のNHKのテレビに出演させられて、現在の就職氷河期について話し合いする番組の収録が近日あると言う。

中央区から現住所転出

2010年12月16日 | Weblog
結局、再度、中央区役所に行き、現住所の転出をした。昨日、大幅に遅れて、萩田教授との面会をすっぽかしてしまったので、中央区役所の職員のすすめ通り、次回の確定申告はわずかな所得税でも、中央区ではしないことにした。介護保険料等、自動的に止められるのかと聞くと、連動していないから、介護保健課に自分で行って止めるようにということだ。住基ですべて連動しているかと思ったら、何のことはない、役所はこれ又、その仕事をさぼっているのだ。これでは、中央区と新住所の両方の役所から2重に保険料を取られてしまう。税を取る側は、楽な仕事をしているものだ。払う側にすべての負担を与えて、いい気なもんだ。
午後から、神保町で、鳴島敦雄兄と逢って4時半まで話した。前回は訃報等があったが、今回はなかった。

住民票について役所とやりとり

2010年12月15日 | Weblog
昨日、中央区役所に行って、住民票をもらうのに、50分もかかった。私が実際に住んでいないから、郵便物が役所に戻らないようにして欲しいというのだ。郵便局が、勝手に郵便物を役所に戻していたから、それが戻らなくすれば良いということで、郵便局と電話で話し合いになり、一応けりを付け、住民票をやっともらってから、調布の外語大に遅刻して行き、ヒンディー語教授と、インドのマハートマー・ガーンディー国際ヒンディー語大学との話し合いについて報告し、ご協力いただけることになった。丁度、居合わせたリトパルン特任教授とも久しぶりで会えた。
外語大で話し合いが終わってから、ボート部の展示しているクォドルプル艇を見て、できたてのアゴラ・ホールに入り、卒業生の出版した本が並んでいるというところに私の『竹取物語』が置いてあるのを確認した。
私たちの頃の大学より、随分と大学らしい建物が出来てきている。当然と言えば当然だが、今の学生のほうが恵まれれているのではないか。

江戸英雄も下肥を推奨

2010年12月14日 | Weblog
昨日、寂庵でつくったチャーエは、砂糖抜きでお手伝いさん二人にも飲んでもらった。お二人は私が行っていた頃の昔と変わらず、まだ若々しい。寂聴尼は、私が、同世代の人達より、顔の肌がつやつやしていて、若いと言ってくれたので、いや、昔よりひげも白くなったと言ったら、ひげはそうでも同年配の人達はもっと老けているよ、と言う。
来年は寂聴には、卒寿なのだから、今までのように元気に任せないで、少し年相応に活動するように助言して辞することにした。
一旦玄関に出てから、見せたいというので、洋間が会議室に、書庫がバーに模様替されているのを見せてもらった。
帰りがけに、最新の本を下さるというので、一冊いただいた。『奇縁まんだら』続の2で、新幹線の中で読むと、私についても「埴谷雄高」の項に記されていた。これが日経に掲載されたとき、高柳正幸氏達がファックスやメールで送ってくれた。「江戸英雄」の項で江戸英雄の畑に案内された時に、人糞が最良の肥料と言っていたというので、私も、下肥を使っている点で同じなので、面白かった。江戸英雄のような経済・文化人が化学肥料より下肥を最高というのは、注目に値する。

瀬戸内寂聴さんの見舞い

2010年12月13日 | Weblog
先日、ちょっと気になって京都の寂庵に電話したら、案の定、瀬戸内寂聴さんが、入院していた。脊椎疲労骨折というのだそうで、歩けないと言う。
そこで予約してお見舞いに行った。先月の20日ころに電話したのだが、その後、退院し、チャイを飲みたいというので、つくり方を指示したが、今回、カルダモンを持って行って、チャーエをつくった。10年以上振りの寂庵行で、嵯峨野のかつて田んぼや畑だったところに、家がびっしり建ったため、雨降りであることもあり、分かりにくくなっていて、一回、道を早く曲がって、間違えた。
先日、テレビで、電子書籍の番組に出たとき、ベッドから話をしていたので、おそらく、かつて私が与えられていた部屋であろうと思っていたら、その通りだった。話を1時間以上したが、その間に2人から携帯に電話がかかって来た。携帯に電話がかかると、ひっきりなしにかかると、煩わしいだけで、その間に、チャーエをつくった。つもる話をして、際限もないのだが、1時間半程で失礼した。テレビで見たときより、元気そうだったので、一安心である。

無農薬野菜

2010年12月12日 | Weblog
一昨日の夜、学生時代の同期でボートを共に漕いだ石原敏雄君からスカイプをして来た。彼は、東京海上の現役時代札幌に住んでいて、子会社に勤めていた頃に彼のマンションを訪れたことがあるが、引退してから、農業をするために、北海道の田舎住まいをしている。私のブログを見ていて、私のいい加減な農業にも理解を示してくれた。
彼が札幌にいた頃、私は、瀬戸内寂聴訳『源氏物語』の販売促進をかねて、札幌で「源氏大学」を開校し、連続講義で私自身も、俵万智と対談したりして、何度も通った。それで彼の2軒続きの大きなマンションの家を訪れたのであった。彼は、それを売って農家を買って、農業をしているが、農薬を使わなくては農業を出来ないと言っている。それは、ちゃんとつくろうと思ったら、そうせざるを得ないのかもしれない。
私の場合は、出来なければそれで良いし、収穫すればそれを食べるという、あまり、こだわらない、農業だから、農薬を使うことはないし、収穫しなくても、我が家に出入りしている人達が、無農薬で作った野菜を持って来てくれるので、それを食べれば良いのだ。佐藤もと大工さんは、研究を積んで、無農薬でつくっている。その野菜をいつも持って来てくれるし、伊藤哲朗さんもそうだ。秀夫ちゃんもしょっちゅう野菜を持って来てくれるが、彼のは無農薬かどうかは聞いたことはない。