卵管がんとハロハロ日記

団塊の世代の主婦の気まぐれブログです。
夫婦揃って大病したあと のんびり暮らしています。

いきつ もどりつ

2012-08-04 18:15:47 | 卵管がん 手術から腎ろう造設まで

このころ相方は 自身の退院後、世話になっていた長女のところから、一人でなんとかやってみると勇ましく自宅に帰ってきていました。



≪ 2011年 8月26日 ≫

9月1日まで抗がん剤治療が延期されたので
胃腸の不快な症状を抱えつつも、とりあえず退院した。
ここまでちょうど3週間の入院だった。

長女に車で迎えにきてもらい、行き先は病院から30分の彼女の家。
家の近くのスーパーで食べられるものを求めて途中下車。
食べたいものを沢山買い込みレジに並ぶ。
退院したばかりの目に 街はまぶしい。

ふと見るとレジの向こう側に懐かしい人が立っている。
……一足先に退院した相方だった。
行き交う人々の中、
脚に装具をつけ右肩にふくらんだバックをかけた彼がニコニコ笑って立っていた。

久しぶりの再会。。。
近寄り抱き合ってお互いの無事を喜びあう熟年の夫婦。。。
・・・とドラマなら感動のシーンになるはずなのだが。。。
レジを待っているあいだ わたしのおしりの事情が緊迫化し
レジを娘に頼み 身をひるがえしてスーパーのお🚺に行くことに。。。

……現実はなかなかきびしいものです。^^;
この再会は半分 偶然 、半分は 携帯電話のおかげでした。

久しぶりの下界、長女の家はきもちよかった。
三週間ぶりの病院のカーテンの外の食事。
しかも皆揃ってのたのしい食事。
窓からの風が心地よい。

食事のあと 相方はどうしても自宅に帰ると言い張り
送られて ひとりの自宅に帰っていつた。
みんな心配するが この辺は男の沽券なんだろう。
わたしも心配しつつ見送る。

この日は体にいいお水やら あれやこれやを持って
不自由な体で私に会いにきてくれたのです。(´・_・`)



≪ 8月27日 ≫

長女の家で上げ膳据え膳だがやはり気持ちが悪くてあまり食べられない。
あのような手術を受けるとみんなこんな風なのか。
わたしが意気地なくオーバーなのかとも思う。

太田胃散を買ってきてもらい飲む。
あまり変わらない。
夕方、長女と孫と一緒に散歩にいくが、途中で気分が悪くなり車で送ってもらう。



≪ 8月28日 日曜日 ≫

やはり食べたいのに食べられない。
バナナなどは半分でため息。
まるで 童謡の さっちゃんだ。
こんなことはわたしの人生でははじめてだ。

この日は日曜日。
お昼すぎ、長女の旦那さんのNちゃんと長女、孫は三人で近場に遊びに出かけた。
思えば 我々夫婦の入退院騒ぎで この夏はどこへも行っていないはずだ。

「なにかあったら、すぐデンワしてね。」
と長女。
「大丈夫よ、ゆっくりいってらっしゃい。。」
と送り出す。

2時半、食べたかったトーストを半分たべた。
やはりわたしは食い意地が張っているのです。
が、気持ちわるくなり 胃散。
改善されず 自前の和漢薬、陀羅尼助丸 を飲む。
5時ごろ胃腸不快感強くなり、丸まってあぶら汗。
しばらくガマンしてみるがよくならない。
迷いつつ長女にデンワした。

慌てて帰ってきた長女夫婦が私を見て病院へ行こう というので
「やはりそうかな……。」
と思い連れていってもらうことに。
長女夫婦と孫を大騒動させ
車で30分の大学病院の緊急外来に行く。

レントゲンを撮り補液を点滴してもらい入院となった。




退院まで

2012-08-03 21:35:23 | 卵管がん 手術から腎ろう造設まで


≪ 2011年8月23日 ≫

このころ 相方は4ヶ月の入院を終えてしばらく長女の家に滞在していた。
心ならずも 夫婦二人して子供たちの家庭に大きな負担をかけることになってしまった。



看護師さんがやってきて さりげなく化学療法のパンフレットを置いていった。
ついにきた。
おそるおそるパンフをめくる。


遅れていた病理検査の結果の説明とこれからの
化学療法の説明が 主治医 からあった。
子供たちと一緒に聞く。

病理の結果、漿液性卵管がん。
左卵管が原発。
婦人科がんの100人に一人の珍しい癌らしい。
乳がんの転移ではない。

手術前の腹水検査では がん細胞は陰性だったが今回は陽性だった。
子宮 両側卵巣摘出。がん細胞があった。
予想どうり腸に 浸潤 転移していたため 腸を切除。
大網、腹膜には転移がなかった。
リンパ節85個郭清 、内 9個に転移があった。

手術で目に見える悪いものはすべて取り去った。
ミクロのレベルの残存を考えなくてはいけない。
かなり進行しているが 幸い 漿液性卵管がんは抗がん剤がよく効く。
治療は卵巣がんのスタンダードな治療法。
薬はパクリタキセルとカルボプラチン。
脱毛、吐き気、しびれなどの副作用の説明。
今は良い薬があるので テレビでよく見るようなすごい吐き気はない。
治療は早い方がいい。
6サイクル、6ヶ月間。
治療の選択は本人の意志が最優先。
体調を見て開始。
多くの方が同じような状態からが抗がん剤治療をして その後元気に日常生活を送っている。
頑張って治療しましょう。
ということだった。

2、3 質問したあと
わたしは粛々と同意書にサインした。
開始は27日からとなる。



≪ 2011年8月24日~8月26日 ≫

ここまで順調に回復してきたように見えた。
ところが24日頃から 胃の辺りから少し下辺りがが気持ち悪い というか
嫌な不快な感じが出てきた。
食事もあまり食べられない。
でも ずっとではなくシャワーを浴びると気分良くなったりした。
気分的なものかと様子をみる。

25日になるとさらに不快感が増してきた。
時々 堪え難くなる。
病棟のドクターに訴える。
「 なんだろうね~。様子をみましょう。」

直前 17日に撮った造影剤付きCTはなんの問題もないらしい。
でも 波のように 気持ちわるさがやってくる。
波が去ると わりにけろっとしている。
でもこんな状態ではあさってからの抗がん剤は不安だ。
「治療を受けたくない」
と訴える。

午後になり病棟のドクターが
「 それでは 抗がん剤は9月1日に延期しましょう。」
「 家に帰って 好きなものでも食べて 英気を養ってください。」
ということになった。
病院側としたら 治療をしない患者をいつまでも置いておけない。
沢山の深刻な病状の患者さんが ベッドが空くのを待っているのだ。

わたしは予定の一回目の抗がん剤を前に翌日26日に退院することになった。





トイレの人

2012-08-01 11:20:24 | 卵管がん 手術から腎ろう造設まで

この先はどうしても 大 と 小 のオシモがらみの気持ち悪い文章が増えてくると思います。
なるべく気をつけて書きたく思いますが ……。
不快なところは すみません、どうか素早く通りすぎてください。


≪ 2011年8月19日 ~ 26日 退院の頃まで≫

食事の開始を前に消化器科のドクターのアドバイスがあった。
手術で直腸を切っているため( この頃は直腸 、S字結腸合わせて30センチも切っていたとは知らなかった。)排便についてである。

D 「あと半年くらいは 💩 は一日 7、8 回位になります。 今までとは違う形のが出ます。だけど半年位で 2、3回に落ち着きますよ。(^^)」

わ 「…………。(ーー;)」

D 「🚽を我慢できる方ですか? 」

わ 「ええつ、、、まあ。(⌒-⌒; )」

D 「 じゃあ 大丈夫だ。 だんだん慣れますよ(^^) 」

アドバイスはこれだけだった。
なにか 質問しようと思うのだが話題が話題だけにことばがすんなり出てこない。

いったい、たべものを口にするようになると、どんな恐ろしいことが待っているのだろうか?
そしてそれがどういうことかすぐに分かることに……。
食事の喜びもつかの間、たちまちわたしは🚽の人となった。

この頃になると 、病院内ののコンビニや 隣の棟をウロウロできるようになっていたが
どこにいてでも 待ったなしの💩意のためにほとんどの 🚽の場所を把握することとなる。
しかもどこの🚽に 進んだウオシュレットがついているかまで知ってしまう。

( 今日は退院までのことを書こうと思っていたが方針変更。💩ネタだけを書くことにします。)

消化器科のドクターがいった 7、8 回というのはは随分遠慮した回数だった。

その後の抗がん剤で入院中も
病棟廊下でじっとたたずみなにをしているのかと思えば
腸の動きが治まるのを待っているところだったり
人と話していて 突然、血相を変えて いなくなってしまったり
謎の怪しい動きをする人物になる。

退院後 世話になった長女の家で 4年生の孫に
「 はーちゃん 🚽で暮らしたら……♪(´ε` )」
と言われたほどだ。
🚽から出てきたと思ったら またすぐに入っていく。
トイレットペーパーの消費量も半端ない。
当然、水道料金もはね上がることになる。
余談だが、家庭の水道水で一番使用量が多いのは🚽だそうだ。
🚽がらみの出費も大幅にふえて わたしはートータルするとで長い時間を🚽で過ごすことになった。
娘の家の🚽では、壁に貼られた 孫の 社会科の 県庁所在地の語呂合わせ暗記表の紙をじっと見ていたため口ずさむほどに暗記してしまった。

ところで
直腸をあまり肛門ギリギリまで切ってしまうと排便コントロールができなくなり(つまり💩をためておくことができなくなり)日常の QOLを著しく下げてしまう。
それならストーマで管理しているほうがニコニコ暮らせるらしいのだ。
きっと どの辺で残すか ストーマにするかは 微妙な判断がいるんだろう。

入院中、出会った患者仲間の中にはストマをつけていたが
しばらくして外したひと、その反対の人もいた。
それぞれ大変なご苦労があるようだった。

わたしは 術後半年くらいは、新しい体に慣れないせいもあり
失敗してはならじと常に頭の上におしりが乗っかっている感じだった。

こんな体ではどこへも外出できないと悲観的にもなった。
退院後は 近場にいく時も コンビニや スーパーの🚺の有無をしっかり確認
しておそるおそるでかけた。
コーヒーを飲みたいわけじゃないのに喫茶店に駆け込んだりもした。

でもでも肉体の順応力はすごい。
だんだん 異常なトイレットペーパーの消費量は減るようになり
気がつけば 水道料金も人並みとなり
一年後の今は たいして神経質にもならず
フンフンのんきに出かけられるようになった。
しかしやはり自分が出没する街の 🚺のありかについてはしっかり頭に入っている。
いざという時のシミュレーションは万全にして出かけるのだ。


実はもっと赤裸々な話が沢山あるんですが、
さすがに品格を疑われそうなので このくらいにしておきます。








焼きそば

2012-07-31 11:27:49 | 卵管がん 手術から腎ろう造設まで
≪2011年8月12日からの一週間 ≫

翌日12日から 憧れの水をちょっとずつ飲めるようになった。
次は歩行訓練だ。

ナ 「さあ ゆっくり起き上がってみましょう。(^^)」

あれれっ!(◎_◎;)起き上がれない。

そうです。貧血なのです。
ベッドで体を縦にしただけで気持ちが悪い。。
ありがたくも手術で輸血をまぬがれたのだが、この時のヘモグロビン値は 6 、いくつだった。
あとの抗がん剤治療でも 同じ位の数値になり仰天したが、骨髄抑制による、段階的な貧血は案外本人は何とか適応してしまうらしく、手術による急激なものとは体感が違うらしい。

ベッドメイクでベッドを空けなければならない時は看護師さんにすがり車椅子。
朝晩 鉄剤を点滴してもらいなんとかトイレに行けるようになり
座ると痛かった導尿も無事に外すことが出来ました。

血栓症があると言われており 血液をさらさらにする装置?が付いた点滴棒が24時間与えられる。
充電が切れるとピーピーやかましく はた迷惑なもので 夜中に鳴り出しアタフタしたり、常にコンセントを探してヨタヨタ歩き回った。

とはいえここまでは順調な回復ぶりでお腹も空いてきた。
でも腸を切っているので一週間は絶食なのだ。\(//∇//)\
腸の動きを見て 消化器科のドクターの OK が出ないと食事にありつけない。
大分ゆとりが出てきて 頭の中は 食べ物のことでいっぱいだ。
食べられるようになったらあれも食べたいこれも食べたいと妄想が膨らむ。
食事がないので暇で、虚しく歯磨きなどしたり、
テレビをつければ 、気がつくと料理番組やグルメ番組をじっと見つめている。
かれこれ 10日入院しているのに、この病院で食べたのは、手術前の離乳食みたいな低残渣食だけなのだ。
同室の皆んなが食べている食事が そりゃあ 美味しそうに見えてしょうがない。

ある日 向かいのベッドの人が昼食の食噐のフタを取って言った。

「ワー やきそばだー(o^^o)」

いいな~。美味しそうだな~焼きそばか~
ソース焼きそばのいい香り~。

食べた~い!! 食べた~い!!

この時、食べたいモードは最高潮。
焼きそばはあこがれとなって幻想的に脳裏にくっきり焼きつきました。
退院したら、鉄板にいっぱい焼きそばを作って食べるんだっ!!と心に誓います。
食欲は 元気のバロメーターですね。
わたしのこの食い意地が命を支えてくれています。

8月16日、夕飯から重湯が出て食事が段々始まりました。

8月17日、朝の回診でお腹のドレインがいきなり抜かれました。

8月19日、朝、すべての点滴が外されました。



手術直後

2012-07-30 12:21:09 | 卵管がん 手術から腎ろう造設まで

≪ 2011年8月9日~ 10日≫

手術は6時間位かかったらしい。
しばらく回復室のようなところにいて、夜8時頃6人部屋の自分のベットに戻ったようだ。

手術中、待たされていた子供たちの心中を思うと切なくなる。
優しい彼等は 多くは語らない。
夕方 病院のレストランで無言で食事をしたらしい。
わたしより堪えがたい長い一日だったと思う。

手術が終わり 取り出した臓器をいれたバケツを持った主治医に説明を受けたと言っていた。

両側卵巣 、子宮を切除し 術中迅速検査で悪性であることを確認、
直腸、大網 切除、腹水2リットル抽出、腹水からもがん細胞が見つかった。
リンパ節に転移があることを確認し、85コのリンパ節を郭清。
出血は1600ccで輸血ギリギリだったが しなかった。

婦人科医師3人で手術、途中から消化器外科が加わった。
目に見える悪いものは全部取り切った。

翌日改めてやってきた長女からだいたいそんなことを聞いた。
いやいやこんなに詳しくはなかったような …^^;二週間後に聞いた手術の説明と混同している。

大掛かりな手術だったそうだ。
完璧に取り切ったという手術をしてくださった医師チームに改めて感謝したいです。

まず、わたしは看護師さんに人工肛門がついてないことを確認して安心した。
それから ただ痛みに耐え、熱、喉の渇き …etcの長い長い一昼夜をすごした。
水が飲めないため吸い飲みで口すすぎだけだ。
浅いねむり、口すすぎ、冷たいおしぼりをもらい額に 、また吸い飲み要求、を繰り返す。
痛い、苦しい、あっちが、こっちが…吸い飲み、おしぼり…。
こんなにナースコールばかりして悪いなーと思いつつ 耐えきれず押してばかり。
同室の方を眠らせなかったのでは……\(//∇//)\
この日ばかりは個室にいたほうが良かったです。


≪ 2011年8月11日 ≫

憧れの氷を二つゲット。やったーっ!!
わたしの切望に一つ二つならいいでしょうということで。
忘れられない 甘露な味わい。(((o(*゜▽゜*)o)))
修行僧が長い断食 断水のあと 口にする水のようだ。
ここは水の星、地球に住んでるんだなあとしみじみ味わう。
わたしの体も大部分が水である。
おいしい水。あまい水。水、みず、水。

眠剤が点滴に入っているらしいがウトウトしか眠れない。
あー、ぐっすり眠りたい。
で、夜になってわたしは暴挙にでた。
じつは自分が持ってきた、日頃飲み慣れている睡眠導入剤がベット脇の引き出しにあるのだ。
あれを飲めばぐっすり眠れる。でもちょっと手が届かない。
体は 管だらけ、自由に動けない。
でも欲しい。眠りたい。まるで麻薬患者だ。
意を決して、足の指で引き出しの取っ手を引っ張ることに成功。
さらに上半身でにじり寄り 薬をゲット!!( アブナイ表現です(ーー;) )
一錠飲み 朝までぐっすりねむりました。

お読みくださっている方、どうかこういうアブナイ行為はしないでください。
翌日、看護師さんに言ったら同じ薬をとっとと出してくれました。