卵管がんとハロハロ日記

団塊の世代の主婦の気まぐれブログです。
夫婦揃って大病したあと のんびり暮らしています。

とうとう捨てた? 腎ろうグッズ ( 追伸あり)

2014-05-06 15:38:40 | 抗がん剤治療と腎ろうの日々

クローゼットの奥、時々チラッと見ては

まあいいか~

と 処分出来ずにいた2年前まで使っていた腎ろうグッズ。

腎ろうを維持するための衛生用品です。

後生大事にダンボール一箱分いまだに持っていました。

 


さて、捨てきれないその心は?

◉ またいつ何時使うことになるやもしれぬ  (´・Д・)」

◉  金額にすれば2万円以上だ。もったいない (¬_¬)

要するにケチな根性なんですな。


でも、また使う身になるかも...とは なんと縁起の悪い予測なことよ。

かと言って、

誰か使っている人( 知らない )に差し上げるわけにもいかず...

おめでたい赤ちゃん用品とは訳が違うからね。


ふむ、これを断捨離せずに なんとしよう。

ということで、ブログに書けばきっと捨てるんじゃ

と踏んで断捨離前の記念撮影。

はい、これでほんとに決別!捨ててくるのだ。


 


この間、職場の病棟で 手が空いた時に頼まれたのが

なんと ↑ の写真の中のトイレットペーパーみたいな

幅広絆創膏の隅を丸くカットする作業でした。

ずっと使っていたお馴染みのものでお馴染みの作業、思わず

「 わぁ、懐かしい!」

と口が滑ってしまい慌てて口に蓋をしました。


自分の病気のことは余計な事なので言ってないんですよね。

チョキチョキ、やり慣れたカットしながら

う~むむ、なんとも複雑な気分になりました。

それが きっかけかな、処分しようと思ったのは。


ワイルドストロベリー、なかなか食用になりません。

 

 

追伸:

さっき やっぱり 絆創膏とガーゼ類は これから用途があるだろうと 

 マンションのゴミ置き場に行き取り戻してきました。むむむ  

 

 

 


さよならジンロウ君、 最後の抗がん剤

2012-09-22 10:29:32 | 抗がん剤治療と腎ろうの日々




ベランダのクレマチス。
ポツリポツリと花を咲かせてくれます。



今日は秋分の日。
今年はもう秋は来ないのかと思っていたら
関東地方は昨日から急に冷たい空気に変わりました。



≪ 2011年12月~2012年2月の退院まで ≫


12月の中頃 度々の発熱とジンロウからの尿量が減ったため
泌尿器科で 刺入部から造影剤を尿管 膀胱まで流して調べました。

「 あれっ 通ってるな~。」

「 ええっ!! 本当ですか?(((o(*゜▽゜*)o)))」

映像には白い造影剤が腎臓 尿管 膀胱までクッキリと写っていました。
わたしは大喜びでした。


だからと言ってすんなり外してはもらえません。
最後まで抗がん剤治療をして 腫瘍の盛衰を見届けたいんだと思います。

「 そうだね~。。。じゃあ 袋を外して様子を見るか。。」

ということになって ウロバックだけ外して様子を見ることになりました。
体には管を入れたままです。
何かあってまた再手術するのは大変だからです。
管の口はストッパーで止めます。

ところが 喜び勇んで家に帰る途中 早くも 腰が痛みだし家に着いて様子を見るも
腰から溢れてくるおしっこです。
また トンボ帰りで救急外来に。
そしてこの後、救急外来行きを二日で3回やり またウロバックを付ける生活に逆戻りしました。
家から病院までは タクシーで 6000円位掛かるんです。
ん もう~~ (-_-#)

3回目に救急外来に行った時には 婦人科の先生が現れて
血液検査の結果 その時白血球が 1000しかなく 熱もあったので

「 入院して下さい(; ̄ェ ̄)」ということに。

もう今 書いていて いやになっちゃうことばかりでした。
原因はジンロウの深さが問題でした。
長くなるので書きませんが あとから思うに 尿管回復途中のジンロウは難しかったんんだと思います。

でも、散々いろんな目にあった後ですが
年末には 管だけを残し、ウロバックをやっと安定して外すことが出来ました。



ジンロウのことばかり書いてしまいました。

抗がん剤の 5回 6回目は やはりきつかったです。
わたしは 白血球をあげる注射(名前知りません )は 二回しかしていません。
他の方のブログを拝見して病院によって基準が随分違うんだなと思いました。
最後は治療を遅らせても白血球の数値が上がらず 2000でそのまま治療に入りました。
さすがに6回目の退院の時は好中球が 200とかで 注射のお世話になりました。
好中球が0になると無菌室です!と言われました。

貧血も辛かったです。
6回目の前に6、いくつかになり 輸血の相談になりました。
手術時にも1600CCの出血でからくも輸血はしなかったのでこの時もなんとか頑張りたかった。
信頼していた看護師さんに
「 最後だから逃げ切る人もいます。でも命にかかわることですから。。。」
と言われました。
逃げ切りました。幸い6を切ることはありませんでした。
退院時はヘロヘロでしたが、これで終わりだと思って気分は明るかったです。

食事はさすがに病院食は蓋を取るのもいやになり 副作用がひどい時 差入れのリクエストは太巻きすしばかりでした。
病院内のコンビニの 梅干しおにぎりとコンビニざる蕎麦、良く食べました。




6回の治療が 終わって 2月12日に造影剤付きCTを撮りました。
本当に嬉しいことに癌や 腹水は 残っていませんでした。
二ヶ月前に復活した大事な尿管も無事でした。
泌尿器科に行って晴れて埋めていたジンロウの管を抜いてもらいました。


これさえ無ければと思いあんなに嫌だったジンロウです。
死ぬまで付けているんだと観念したジンロウです。
最後に抜く時には感無量でした。

ジンロウ君ありがとう!!
悩ましかったけれど 君はわたしの一部でした。
わたしの命を助けてくれて有難う。
さよなら ジンロウ君!!

わたしの抗がん剤治療の辛さはジンロウという重荷がかかったお陰で 深く感じずにすんだような気がします。

泌尿器科Dr.は「 お疲れさま!もう僕には会いたくないだろう?」
なんて言っていました。( ´ ▽ ` )ノ


退院の時 身軽な体になって退院するわたしを病棟の皆さんは とても喜んでくれました。
お掃除のおばさんも。車椅子でお世話になった准看護師さんも。

本当にお世話になりました。



追加です。

泌尿器科Dr.が
「 2、3日したらお風呂に入っていいですよ。」
と言っていたので 喜んでいたら 信頼していた看護師さんにいわれました。
「 そう言われても2週間は入らない方がいいです。
免疫力が下がっているので傷口からの感染が怖いから。
半年も我慢したんだから もうあとちょっとの辛抱。」

二週間後に あったかい湯船に浸かりました。








抗がん剤4回以降と腎ろうあれこれ

2012-09-20 23:50:13 | 抗がん剤治療と腎ろうの日々

 


ベランダは夏枯れです。
ミニバラ 一輪でも嬉しいです。




このブログを始めたのが 7月で 治療が終わって5ヶ月経っていました。
有難いことにに 体調が 段々よくなったせいか
リアルタイムの 日常のあれこればかり書いていて
続けて書くつもりだった 闘病記が まだ終わっていません。

遅くなりましたが 治療が終わった2012年 2月まで の続きを書きます。
備忘録として そしてどなたかの参考になれば幸いです。
気持ち悪いところはどうかスルーして下さい。


≪ 2011年11月15日~ ≫

抗がん剤 を重ねる内 マーカーが有難いことに下がっていき二回が終わった時点で 一桁になりました。

尿管閉塞の原因ははじめ

「 わからない。」と言われていたのですが

12月には ジンロウの様子も随分変わってきたのと マーカーが下がったのとで主治医の先生は

「 やはり 腫瘍のせいです。 随分進行していたから。」

と言うようになりました。
散らばった癌が尿管に張り付いていたのでしょうか。
抗がん剤が効いてきて変化があったのです。

尿管ってストローみたいな感じで とてもヤワだそうです。
手術で傷つけてしまうこともあるようです。
病気仲間には 手術中にステントを入れられた人
抗がん剤治療途中でステントを入れた人いろいろでした。
わたしのように 抗がん剤の前からジンロウになった人は会っていません。

それで 心配したわたしの腎臓は 抗がん剤の攻撃にもめげずしっかり働いてくれ クレアチニンその他 腎機能の数値は有難くも最後まで正常範囲内でした。



ジンロウをしていて厄介なことが沢山ありました。

まず 半年間お風呂に入れませんでした。
特殊な防水テープを貼って ほんのちょっとだけ 湯船に浸ることも出来る という話も聞きますが 抗がん剤治療中で 菌が入ると面倒なことになり易いためか、わたしはお風呂は禁止でした。

寒い冬にシャワーだけというのは とても辛いのです。
お風呂場をモウモウに暖めておいて
出てからの消毒やらを準備万端にして。いざお風呂場に。
チューブに気をつけ ウロバックを腰より高くあげつつシャワーして
出て来たら 寒いので 手早く消毒して ガーゼしてと一大行事でした。

なので シャワーは ガーゼ交換する一週間に二度だけ。
それで 熱もよく出ていたので一週間 10日入らないこともしょっ中。
汚いおばさんでした。

寝る時ですが コロコロと寝返りしたり気を抜いて自由に寝ることができません。
刺入部を下にできないため 片寄った寝方になってしまいます。
わたしは 固まって右側ばかり下にしていたので
右側の鼠蹊部から太ももにかけてのリンパ浮腫がひどくなりました。
気がついてから 10年くらい前にやっていた ヨガ の簡単なアーサナをやることにしました。
もはやヨガもどきですが、 これはほんとにやっていて良かったと思います。
あと しょっ中 漏れていたので
無意識にも触って 漏れてないか 管が折れてないか気にするので 朝までグッスリということはありませんでした。

洋服も限られたものしか着られなくて
ほとんど家にいましたのでダボッとしたスウェットで過ごしました。

ゾクゾクして気分が悪く外にあまり行かずにいましたので 歩かないとリンパ浮腫に悪いと思い 真夜中のマンションの廊下や階段を行ったり来たりしました。

暗いですね~。



ジンロウを入れてから3ヶ月、12月に入ってから変化がありました。

ある朝 起きてウロバックを見ると ほとんど尿が溜まっていないのです。
そして 時々。それから 段々 そういう日が増えてきました。

さては 尿管復活か? と喜びも束の間 トイレの後、鮮血が下着に付いたり 排尿の後いやあな痛みが来たりして。
赤い血を下着に見ると 飛び上がらんばかりにびっくりします。

じつはこれ わたしの場合 尿管復活の前触れだっようなのですが、主治医も泌尿器科Dr.もとても慎重でした。

「 ち 血があああ~~((((;゜Д゜)))))))」と訴えても

「 異物をいれているからね (・・;) 」

くらいであまり意に介されませんでした。

が……12月も半ばになった頃

「 少しは尿管が通っているのかもしれない。 今度 造影剤を流してみようか。」

ということになりました。

どう考えても ステキじゃないジンロウライフに
少し先が見えてきたようで ちょっとだけ明るい気持ちになってきました。

やっぱり 一寸先はひかり~~なのです。


いつも仲のいい あずみの です。
とろい みのるの世話を焼くあずみ姉さん。
飼い主の熟年夫妻もこうありたいものです。








しびれと車と八百屋さん

2012-09-13 17:30:16 | 抗がん剤治療と腎ろうの日々

治療中の回想が まだ続きます。
段々 賞味期限が切れて来ましたがやはり 備忘録として 。



抗がん剤治療の間
タキソールの副作用でしびれがとてもひどくて参りました。
手足のしびれと感覚麻痺です。
椅子に座っても座面にお尻が着いてる感じがしません。
二回目からは薬の量を20パーセント減らしての投与でしたがあまり変わりませんでした。



ところで
家に帰ったら車が頼りでした。
車に乗ってお使いに行ったり、相方も送り迎えして
という心つもりでした。
かれこれ40年、車生活してます。

乗ってみましたが アクセルに足が乗ってる感じがつかめません。
どの位 踏み込んでいるか 感覚が定かでなく とても怖い。
こんな時に事故にでもあったら目も当てられないと思いやむなく断念しました。

さて困ったのは日々の買い物です。
化学治療していたのは 去年の9月から今年の2月までの寒い時期でした。
ジンロウがらみの熱も度々だったので ゾクゾクしたり具合が悪い日が多かった。
歩いて 5、6分の商店街なのに とても遠くに感じました。
左半身麻痺の相方に頼めるのはほんの少しの量です。

そこで ほとんどの食糧品 雑貨類を生協の配達でまかないました。
毎週 カタログを 目を皿にして注意深く検討して注文。
ただ 野菜だけは追いつかない。
新鮮な野菜 沢山欲しいです。

野菜スープ、野菜の煮物
部屋が あったまるし 野菜を沢山食べたいので
毎日 トロ火でコトコトほったらかしで煮ては食べていました。

商店街のお店はほとんど配達をしてくれません。
2年位前に出来た一軒の八百屋さんを除いて。

「 いいよ~~!!(^。^) 」

この親切な八百屋さん、当時の心境で、まさに地獄に仏っていう感じでした。ちょっとオーバー?
週に二度位、電話すると、奥さんみたいな人がニコニコ届けてくれました。
夫婦二人で小さな八百屋さんやってるようでした。
雪が降る寒い日に 両手一杯の 大根や白菜やらを届けてくれた時など
後ろに後光がさして見えました。ほんとに。


病気したりして困っている時 意外な人に助けられます。
その逆もありで
思いがけないところで その人の人間性 垣間見ちゃったりします。
震災の時 中央の政治家より被災地の小さな町の町長さんのほうがどんなにか 人間的で立派かと思いましたもん。
あ、ちょっと関係なさすぎですか。。。


最近 お店に行くと「 ずいぶん 髪伸びたね~。元気そうだ!」
とか 「 さっき 旦那さん来てバナナ買っていったよ! 」とか 声をかけてくれます。
そういう 日々のちょっとしたやりとりって 元気もらえます。


テンプレートが崩壊したと思ったら
こんどは新しい写真が取り込めなくなりました。
あずみのの写真沢山撮ったのに。。。
次から次に訳のわからないことが起きて
やっぱり この歳 でブログ 無理なのかな、と凹んでいます。

 

 


治療院のようだった我が家

2012-09-06 12:00:45 | 抗がん剤治療と腎ろうの日々



ベランダの時計草をアップで撮ってみました。
ほんとに時計みたいです。
でも花びら( 額 ?)は10枚です。





≪ 2011年10月26日 ~ 11月14日 ≫


ジンロウ拡張手術を受けたあと、シャワーはOKになりました。

刺入部からの尿漏れがひどく、どうしたものかと 悩みながら退院しました。



泌尿器科のDr.にわたしのジンロウは ひと月位 不安定だと言われましたがその通りでした。
家に帰って直ぐ、はやくも刺入部の尿漏れで ガーゼが ビチョビチョに。。。

計画では大学病院紹介の訪問看護の人に二日後から来てもらうことになっていました。
でも、こんなに一日に何回もガーゼ 交換しなければならないとすると 一週間に一度頼んだ訪問看護と子供たちでは追いつきません。


困っていると 「 俺がやってみようか。」
なんと 相方が チャレンジしてくれました。
慣れない微妙なガーゼ交換は 始めから 一本手の 相方には 無理 と決めつけ、諦めていました。
それが やってみればそんなことは無く 鏡を使って協力すれば、わたしの二本の手と彼の右手(でした(^^)で 充分に出来たのです。

彼は脳梗塞の麻痺惻を「 キネシオロジー」というテーピングで治療中でした。
自分でも 右手一本で 、ハサミでテープを切ったり直したりに慣れてきていたのです。


本当に助かりました。
だって、 それから 二、三週間位は 一日に二回もガーゼ交換しなくちゃならず 真夜中にも 困ったことになったりしましたから。
その度に、訪問看護の人や遠くにいる 子供たちを呼びたてることは出来ません.。

この 消毒 ガーゼ交換の難問は 思いもかけず解決しました。
お陰で 訪問看護は 一度も来てもらわず 子供たちには何度か世話になりましたが 相方に助けられ最後までなんとか完走することができました。



そして
この頃 娘の一家全員がマイコプラズマ肺炎になってしまいました。
最後に罹った娘が一番 重くて ひと月位 寝込んだようです。
天皇陛下が マイコプラズマ肺炎で入院した頃です。
無理もありません。
4月から 半年間 、父母が続けざまに入退院し 特にわたしが入院してからは両方の面倒。
精神的にも生きた心地がしなかったと思います。
症状が重かったのは 疲れが ドット出たせいですね。
息子の家でも風邪ひきが出始めました。
皆んな 疲れちゃったんです。



久しぶりの我が家は まるで治療院みたいでした。
相方は リハビリ病院にいったり キネシオ治療院に行ったり 帰ってくれば奥さんの消毒だったり。
少しだけ 仕事を再開してましたが 、それまで 仕事漬けだった生活は 激変していました。
わたしは 食事を作ったり 簡単な家事をする以外は 寝ていました。
ねこ達は息子の家に預けていましたので
部屋は走り回る猫たちの替わりに リハビリの ボール 、ベルト、タオル 、医療用品でさながら治療院のようです。

それで、さすがにここまで来ると 二人とも 少しは 腹が座ったのか、
笑っちゃうほどの状況のせいなのか、能天気な 冗談を言い合えるようになってきました。



11月の三回目の抗がん剤までの間は 熱 を 出したり 腸閉塞になりかかったりいろいろありました。

すわ 腸閉塞かと タクシーで病院に飛んで行きましたが 下剤と痛み止めで大事にはいたらず。。。
お陰で 腸閉塞にならない食事を心がけるようになりました。

熱はジンロウ絡みの熱です。
これには最後に外すことが出来るまで悩まされました。
血尿にも 度々なりました。
この頃は 心配なので タクシーを飛ばして 病院に行き、
ある時は 膀胱に穴が空いているのでは…?と調べたりしました。
大丈夫でしたが。。。

熱の原因は やはり 異物を 体に入れているための感染症です。
尿漏れしていたので 余計だったんでしょう。
たまに抗生剤を調剤されましたが 大体ロキソニンでおわりでした。
この頃から 2月に外すまで ずーっと膀胱炎のようないやーな感じが続きました。


でも、少しずつ 抗がん剤の副作用や ジンロウ生活に慣れていきました。


やっぱり、一寸先はひかり~~!なのです。




すみません。
いまだ テンプレートが崩壊中です。
右側は ずどーんと下の方にあります。
場合によっては 左側もです。(ーー;)