ベランダのクレマチス。
ポツリポツリと花を咲かせてくれます。
今日は秋分の日。
今年はもう秋は来ないのかと思っていたら
関東地方は昨日から急に冷たい空気に変わりました。
≪ 2011年12月~2012年2月の退院まで ≫
12月の中頃 度々の発熱とジンロウからの尿量が減ったため
泌尿器科で 刺入部から造影剤を尿管 膀胱まで流して調べました。
「 あれっ 通ってるな~。」
「 ええっ!! 本当ですか?(((o(*゜▽゜*)o)))」
映像には白い造影剤が腎臓 尿管 膀胱までクッキリと写っていました。
わたしは大喜びでした。
が
だからと言ってすんなり外してはもらえません。
最後まで抗がん剤治療をして 腫瘍の盛衰を見届けたいんだと思います。
「 そうだね~。。。じゃあ 袋を外して様子を見るか。。」
ということになって ウロバックだけ外して様子を見ることになりました。
体には管を入れたままです。
何かあってまた再手術するのは大変だからです。
管の口はストッパーで止めます。
ところが 喜び勇んで家に帰る途中 早くも 腰が痛みだし家に着いて様子を見るも
腰から溢れてくるおしっこです。
また トンボ帰りで救急外来に。
そしてこの後、救急外来行きを二日で3回やり またウロバックを付ける生活に逆戻りしました。
家から病院までは タクシーで 6000円位掛かるんです。
ん もう~~ (-_-#)
3回目に救急外来に行った時には 婦人科の先生が現れて
血液検査の結果 その時白血球が 1000しかなく 熱もあったので
「 入院して下さい(; ̄ェ ̄)」ということに。
もう今 書いていて いやになっちゃうことばかりでした。
原因はジンロウの深さが問題でした。
長くなるので書きませんが あとから思うに 尿管回復途中のジンロウは難しかったんんだと思います。
でも、散々いろんな目にあった後ですが
年末には 管だけを残し、ウロバックをやっと安定して外すことが出来ました。
ジンロウのことばかり書いてしまいました。
抗がん剤の 5回 6回目は やはりきつかったです。
わたしは 白血球をあげる注射(名前知りません )は 二回しかしていません。
他の方のブログを拝見して病院によって基準が随分違うんだなと思いました。
最後は治療を遅らせても白血球の数値が上がらず 2000でそのまま治療に入りました。
さすがに6回目の退院の時は好中球が 200とかで 注射のお世話になりました。
好中球が0になると無菌室です!と言われました。
貧血も辛かったです。
6回目の前に6、いくつかになり 輸血の相談になりました。
手術時にも1600CCの出血でからくも輸血はしなかったのでこの時もなんとか頑張りたかった。
信頼していた看護師さんに
「 最後だから逃げ切る人もいます。でも命にかかわることですから。。。」
と言われました。
逃げ切りました。幸い6を切ることはありませんでした。
退院時はヘロヘロでしたが、これで終わりだと思って気分は明るかったです。
食事はさすがに病院食は蓋を取るのもいやになり 副作用がひどい時 差入れのリクエストは太巻きすしばかりでした。
病院内のコンビニの 梅干しおにぎりとコンビニざる蕎麦、良く食べました。
6回の治療が 終わって 2月12日に造影剤付きCTを撮りました。
本当に嬉しいことに癌や 腹水は 残っていませんでした。
二ヶ月前に復活した大事な尿管も無事でした。
泌尿器科に行って晴れて埋めていたジンロウの管を抜いてもらいました。
これさえ無ければと思いあんなに嫌だったジンロウです。
死ぬまで付けているんだと観念したジンロウです。
最後に抜く時には感無量でした。
ジンロウ君ありがとう!!
悩ましかったけれど 君はわたしの一部でした。
わたしの命を助けてくれて有難う。
さよなら ジンロウ君!!
わたしの抗がん剤治療の辛さはジンロウという重荷がかかったお陰で 深く感じずにすんだような気がします。
泌尿器科Dr.は「 お疲れさま!もう僕には会いたくないだろう?」
なんて言っていました。( ´ ▽ ` )ノ
退院の時 身軽な体になって退院するわたしを病棟の皆さんは とても喜んでくれました。
お掃除のおばさんも。車椅子でお世話になった准看護師さんも。
本当にお世話になりました。
追加です。
泌尿器科Dr.が
「 2、3日したらお風呂に入っていいですよ。」
と言っていたので 喜んでいたら 信頼していた看護師さんにいわれました。
「 そう言われても2週間は入らない方がいいです。
免疫力が下がっているので傷口からの感染が怖いから。
半年も我慢したんだから もうあとちょっとの辛抱。」
二週間後に あったかい湯船に浸かりました。