卵管がんとハロハロ日記

団塊の世代の主婦の気まぐれブログです。
夫婦揃って大病したあと のんびり暮らしています。

ホタルがいた風景

2015-06-12 00:25:04 | 脳梗塞リハビリ病棟レポートと相方の文章

 

ホタルの季節ですね。

これは相方が子ども時代のホタルの思い出を

天の川のほとりに住む仙人に送ったメールの文で ← 説明が長くなるので省略  

私にも CCで送ってくれました。

いつもの相方の 病気絡みの文章ではないけれど

同世代の私が共感したので、写すことにしました。

 

 

☆ ☆

 

 

小学校低学年の頃、杉並区高井戸の社宅に居ました。

昭和も20年代末で、杉並区も牛が畑道を歩き、汲み取りが来た時代です。

社宅は関東大震災や空襲を生き延びた大正建築、広い庭で鶏を飼い、トウモロコシやトマト、キュウリを作っている長閑かな生活でした。

 

社宅の前の道を数歩で渡り、ゆるい坂を十数メートル西に下ると、右手の土手下一面は水田が広がり、向こう側の井の頭線の線路の土手まで続きます。

土手沿いの小川の水は、田んぼに取り入れていてとても冷たく、丸太や板を渡した危ない橋を行き来して、ザリガニ取りやオハグロトンボ取りに、大きな子達の後をついて、泥んこになって遊びました。

 

梅雨の前後だったでしょう。居候の兵隊帰りの伯父さんは、夕焼けのあとの暮れはじめた星空に、風呂上がりのふんどし一つ、下駄で門を出ます。

当然、ちびっこの私は団扇を持ってついて行きます。

向こう側の線路を走る小さな二両連結車両は、高井戸の駅から富士見ヶ丘の駅の、一分とかからない距離を、暗がりの中に灯りを点けて、田んぼの向こう 上手から下手へとゴトゴト走る姿を、全て見せています。

土手の坂を、草に滑りながら下り、田んぼの畔に立つと、一面はホタルの海です。

団扇でホタル狩りして、伯父の大きな手に何匹か捕獲すると、家に帰って蚊帳に放すのが、子供心に夏の至福の醍醐味でした。

蚊帳に留まり、反対側へと飛び渡るホタルの淡いひかりに寝ついた日々は、東京オリンピックの10年前の取り返せない時代の記憶です。

 

20年前に訪れた坂道は、土手から線路まで川を残して埋め立てられた住宅街になり、小川は護岸工事された神田川になっていました。

もちろん、肥え桶車を牛に引かせて横切っていたバス通りは、今は環八と名乗っている幹線道路です。

火野正平に手紙を書いても、私の心の風景を覗きに行くことは期待出来ませんね。(笑)

 

 

 

                                 

 

 

 

 


「もう」と「まだ」の間にて

2014-04-28 15:34:31 | 脳梗塞リハビリ病棟レポートと相方の文章

久しぶりに相方しーちゃんの文章です。

ときどき女房がブログでつぶやいている亭主についての所感とは

かなりな温度差があるなと感じたので、了解を得て写すことにしました。

例によって彼が所属する とあるSNSに彼が送った文章です。




「もう」と「まだ」の間にて

今や古典的な訓話として
「もう半分しか残っていない。」と嘆く者と
「まだ半分残っている。」と喜ぶ者を比べる話しがありますね。
どちらを良しとするかは「時」の事情で異なるにしても
ある一瞬の状況を受け止める態度や心境の違いを
表すことば使いの話です。

さて、時と共に成長改善してゆく状況を表す時は
「もう」と「まだ」は近過去と比べるのか
近未来を見つめるのかの違いとなると思います。
「もう立って歩いた。」「まだヨチヨチ歩きだ。」
同じ状況を昨日と比べるのか、あってほしい明日と比べるのか。

 

 


私も片麻痺のリハビリが始まった頃は
「こんな事も出来ない!」
と嘆きながら痛みに堪えつつ、恐る恐る
動かすためのリハビリ動作に取り組んでいました。

2ヶ月経つ頃から
「あっ、こんなことができた!」
と回復が実感できる嬉しさがあるようになったので
熱心に工夫して努力することができました。
退院して、自主トレが主体のリハビリシーズンが始まっても
「もう、こんなにこういうことも出来るようになった。」
と感じると、独りの努力を続ける気持ちが繋がりました。

半年経ち、一年過ぎても「もう」は続いていました。
2年目の冬になり、春を迎え 3年目に入った頃から
いつまで麻痺のある生活が続くのか、日常生活だけでなく
社会生活で人並みになるのはいつになるのかを思うようになりました。
「まだ、左手で紙も押さえられない。」
「まだ、階段は手すりにつかまっても大変だ。」
そういう言葉が心の中で響くようになりました。
そして、その言葉は前向きの努力の妨害をする
悪質な言葉だと感じていたのです。







3年が過ぎて
リハビリの成果はとてもゆっくりだけど確実に出ている、と思いながら
「まだ」が沢山起きるようになって「まだまだ」になっていたんです。
そして 身体のハンディは社会生活の決定的ハンディだと暗く思いながら
これ以上、3年以上は社会に甘えられないと思い始め
麻痺が残っていても、快気祝いをしようと決めたのです。
現状の麻痺があっても 社会復帰を本格的にしよう。
そういう気持ちになったら、気づいてきました。

「まだ」は未来志向の言葉でもあるんだと。
近過去よりは確実に進歩したという「もう」も
近未来にはそこまで行くんだという「まだ」も
どちらも否定的じゃなくて
「まだ、やることがあった。」という
自分へのメッセージだと気がつきました。

今の私は「もう」と「まだ」の間にいます。
そして、身体についても、社会生活についても、リハビリ暮らしは
「もう」と「まだ」を繰り返しながら これからも続きます。

 

 


転院と障害者認定

2013-05-13 00:14:04 | 脳梗塞リハビリ病棟レポートと相方の文章
相方しーちゃんの脳梗塞リハビリ病棟レポートの最後です。

退院して3ヶ月後、2011年 11月のものです。









その後ご無沙汰しています。

中略

リハビリ患者のセミプロになりつつあります(笑)
もっと、本格的に勉強と経験を重ねて、本当のプロになり
自分のマヒの治療改善を達成したいと思っています。
ご心配、お気遣いありがとうございます。

私はとにかく回復中です。
東京K病院を8月中旬退院後、
9月からHリハビリ病院へ転院、通院しています。



今、日本中のリハビリの医療機関に同じことが言えると思います。
中心となっている医者が明瞭なビジョンを表明しているところ以外は
コンベア作業をしている職工さんのように
受け持ち分野以外は患者に責任を持たないのです。
( 急性期だけ、病気だけ見ていて、患者の予後、生活上の問題は見ていない。)

そこで、病院を変えました。
今のところ正解です。

私のマヒはとても重い方だったので、
前の病院は これで 諦めろ、という態度だったのです。
けれど、発症から6ヶ月過ぎた今でも、確実に改善しています。


今は徐々にですが社会復帰しつつあります。
まだ、全快祝いはできませんが。。


中略


マヒ自体の解消は、他の病気と違って、
脳細胞のシナプスネットワークの再編成が出来ないと
全快とはいかないようです。

マヒは残っていても、外から見て
それと気づかない程度に動けることが目標です。

私の脚の今は、右と左のリズムや動きがやはりまだまだ狂っています。
目標達成へ、道のりはありますが諦めていません。

腕の方は遅れています。
それでも、改善はしています、という程度です。

口や顔付きはほとんど気ずかれない程度です。
一度、機会があればご覧下さい。









これで相方しーちゃんの脳梗塞リハビリ病棟レポートは終わりです。

このあと、2ヶ月経った2012年1月、相方は障害者認定、一種二級になりました。

夫婦ではありがちだと思いますが
女房から見た相方の回復についての感想は本人とはまた違うものがあります。

わたしはよく
「 しーちゃんは自己評価が高すぎる。ええかっこしいだわ。」
と厳しいことを言っては、彼の反撃を受けています。(笑)

今やそんなことを言っている女房ですが
相方が退院した頃からしばらくの間、少なくとも半年間は
わたしは抗がん剤治療で頼りになるどころではなく
重ねてやっかいな 合併症を起こして、逆に彼の世話になるほどでした。


脳梗塞の中でもBADという種類の脳梗塞は予後が悪いといわれています。
よくここまで回復したなとも思うのです。


リハビリ病棟レポート読んで頂きありがとうございます。

このあとは 追い追い、彼がときどき発信している最近のレポートを
しーちゃんのリハビリ備忘録として残して行きたいと思います。












退院!生活リハビリへ

2013-05-12 19:34:56 | 脳梗塞リハビリ病棟レポートと相方の文章
相方しーちゃんの脳梗塞リハビリ病棟レポートの9回目です。






「 退院!生活リハビリへ 」

2011年8月14日、東京K病院から退院します。
計120日の入院になりました。

当初7月中旬のつもりだった退院ですが
二人暮らしの相方の女房が入院して手術となりました。

足手まといになる亭主が、うっかり退院できる状況でなくなりました。
出来るだけ長く入院して、少しでもマヒを解消すること、
少しでも心配の種を減らすことが至上の命題となりました。

8月6日に女房は入院しました。
彼女が入院中の14日に私が退院して、
自分の生活パターンを確実なものに作ることが課題になりました。
子供達の応援も貰います。

脚の状態はずいぶん改善しました。
今は1kmを3、40分かけてですが、歩けます。
階段の昇り降りも交互歩行ですが、できます。
装具と杖は使っています。

脚もですが、腕はまだまだリハビリの継続が必要です。
どこで、どのように継続するか、検討中です。
二週間程度、慣らし運転してから、本格的な復帰に取り組むつもりです。

復帰の中身はてんこ盛りです。
⚫社会生活をマヒを持ったままで送るための適応。
⚫家事を自力でこなしながら、生計を立て直す努力。
⚫退院してくる女房を迎える準備。
⚫自分の身体の機能改善の治療の継続
などなどです。




リハビリという領域のことですが、この領域は
治療とか、予防とか、介護とかの領域と重なりながらも、分離された領域です。
このことを、マヒを抱えた入院患者として深く体験しました。

脳梗塞になる前は、何も知らず、何も考えていなかった領域でした。
入院して体験し、これからも経験してゆくリハビリという領域は
マヒのままに放っておいていては何も解決できない領域です。
社会復帰のための身体の機能回復は努力をしなければなにも変らないのです。

治療とは、一時的に身体に害があっても、悪化を防ぎ
回復軌道に導く手段と解釈します。
手術、薬、整体などがそうですね。

予防とは、堕落軌道に落ち込むことが起きないように
身体と精神の状態を整えておくこと、と解釈します。
ヨガや太極拳や呼吸法、食養生などもそうですね。

介護は低迷してしまった生活軌道でも
そのまま維持できるように支援する仕組みを提供して
社会生活を続けるための手段、と解釈します。

リハビリは、生活軌道を引き上げてゆくための回復軌道に乗せ
自助努力するためのリードをする仕組み、と解釈しました。
努力向上の意思と、そのための学習意欲を前提にします。

その都度その都度の機微が必要だと思います。

今のところの科学的水準では、リハビリ技術はまだ限られたものです。
今後、身体と脳神経と精神活動等の研究が進むことで、
障害を持った私のような者が社会復帰してゆける道筋が
もっと鮮明に見えてくるのではないか、と期待します。

私もリハビリの進展のためにアピールする努力を
少しでもできれば、と思います。

もうすぐ、病棟レポートは終わりですが、
私のリハビリは続きます。
みなさんに励まされました。
心からありがとうございます。








ゴールが近づいて ゴールが見えなくなった

2013-05-11 18:39:59 | 脳梗塞リハビリ病棟レポートと相方の文章
しーちゃんの脳梗塞リハビリ病棟レポの8回目です。






私がリハビリ病棟に移った5月12日から3ヶ月期限が近づいてきました。
一般的にこの3ヶ月が最もマヒの改善が進む期間とされています。

回復状況はというと、左脚に深い痺れと芯の方にマヒが残りながら
歩行は可能になってきています。

現在、病棟内では装具を付けて、杖をついて歩いています。
院外に出る時も同様です。
装具もいろいろ変わり、今は五種類目くらいです。
今までの装具は、歩行の癖を矯正し、弱い筋肉を強化するためのものでした。



昨日、歩行の審査があり、OT (理学療法士)の多くが集まり
裸足を含め、4種類の装具を着用した観察が行なわれました。

明らかに、退院準備として、退院時に適切な装具を推奨するためのイベントです。

私は裸足で退院するつもりです。
退院時期も、当初の考えを改めて、リハビリできる限り
特に腕のリハビリに集中してゆくつもりになっています。

しかし、腰脚部にマヒが残っていると、活動量の増える退院後には
筋肉の緊張が上がって、歩行に歪みが発生してしまうので、装具が必要だ
というOTさん達の経験上の現実主義から行われたようです。

「 マヒの解消 」は最終目的ですが
当面の目標は「 マヒの克服 」です。

マヒとの共存を引き受けながら、
マヒの弊害が起こらないような筋力強化や代替能力開発をしていこう
と考えを改めました。

深い痺れやマヒに対しての長期戦を覚悟したのです。

マヒがあってもその為の能力の欠如を他の能力で補えば
自他ともに迷惑をかけないでいられる。
これがマヒの克服、と解釈します。

その目の前で装具の選択が始まりました。
一日五百歩の裸足歩行訓練は続いています。
一日一万歩しても筋緊張がなければ、
あとは、裸足歩行をいかに美しく行うかが課題だと考えています。
装具選びは、最終的お試しでしょうか?

私の信念が揺らされ、振られます。

ゴールは近づいていますが、このゴールは
病棟生活から一般社会生活への関門( ゲート )であって
後遺症対策はこれからが本番です。

ゴールは見えなくなりました。