吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

漢江

2005年05月19日 12時42分19秒 | Weblog
 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
 十数年ほど前に、ある橋が工事の手抜きが原因で橋梁が落下、大騒ぎになった事件が起きたのでK氏はなおさらそのことを強調したのだが、いままで十数回、この橋を車で渡った私はその話を何度聞いたことだろう。
 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
 IT革命も日本より進んでおり、市内のいたるところにパソコンルームがあって千ウオンの料金でいつも若者でいっぱいである。
漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
 十数年ほど前に、ある橋が工事の手抜きが原因で橋梁が落下、大騒ぎになった事件が起きたのでK氏はなおさらそのことを強調したのだが、いままで十数回、この橋を車で渡った私はその話を何度聞いたことだろう。
 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
 IT革命も日本より進んでおり、市内のいたるところにパソコンルームがあって千ウオンの料金でいつも若者でいっぱいである。
漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
 十数年ほど前に、ある橋が工事の手抜きが原因で橋梁が落下、大騒ぎになった事件が起きたのでK氏はなおさらそのことを強調したのだが、いままで十数回、この橋を車で渡った私はその話を何度聞いたことだろう。
 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
 IT革命も日本より進んでおり、市内のいたるところにパソコンルームがあって千ウオンの料金でいつも若者でいっぱいである。
漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
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 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
 十数年ほど前に、ある橋が工事の手抜きが原因で橋梁が落下、大騒ぎになった事件が起きたのでK氏はなおさらそのことを強調したのだが、いままで十数回、この橋を車で渡った私はその話を何度聞いたことだろう。
 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
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漢江

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 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
 十数年ほど前に、ある橋が工事の手抜きが原因で橋梁が落下、大騒ぎになった事件が起きたのでK氏はなおさらそのことを強調したのだが、いままで十数回、この橋を車で渡った私はその話を何度聞いたことだろう。
 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
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漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
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 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
 と言うのは、河口の仁川は世界的に有名な潮の満干のあるところで、河口深く侵入してきた欧米艦隊は引き潮で座礁したため、大敗をきっした。
 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
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漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
 その漢江には悔いの残る事件がある。
 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
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 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
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漢江

 二十数年ほど前、漢江(ハンガン)の奇跡と言って高度成長を遂げた韓国を世界は評価した。オリンピック開催も決まり、韓国はその景気にわいていた。
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 一八六四年、英、仏、米、蘭の四国による下関戦争によって日本は欧米の経済、軍事力の脅威を痛感、いちはやく欧米文化を取り入れる政策に転じたが、李氏朝鮮王朝は漢江のおかげで勝利した。
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 李氏朝鮮王朝はそのため油断して欧米文化の招来が遅れてしまった。その間に日本は欧米の教育、文化、軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
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 韓国は日本に追いつき、追い越そうと自動車、造船、などで今や日本と肩を並べるにいたった。
 IT革命も日本より進んでおり、市内のいたるところにパソコンルームがあって千ウオンの料金でいつも若者でいっぱいである。
軍事制度の取り入れを早め李朝政府より早く近代化に成功、のちに朝鮮侵略のもととなった。 今も漢江には十八もの橋梁がかかっているが、そのうちの一つは朝鮮総督府の工事によるもの。
 この橋を通行する度に日本好きなK氏は運転しながらかならず口にもらすのは…この橋は歴史が古いが絶対に壊れないヨ、日本が作ったから…とまるで日本人のような口振りで自慢?するのだ。
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雪(ヌン)

2005年05月19日 07時49分59秒 | Weblog
 いわゆる西高東低の冬、日本と違って雪はあまり降らないが気温は同じ緯度でもマイナス十度以上の差がある。三十八度線は東北の白石のやや北を通っているが韓国と比べ冬の気温差は厳しい。冬の韓国の魅力は農村のオンドルの煙にある…それは私が小学生の頃、国語読本で学んだ風景と重なる。それから五十年をへて、厳冬の二月、三十八度線近くの窯場で懐かしい光景を再び見た時、感動の涙がでたのは二十三年前だった。
 その頃、日本語熱が高まって毎朝、七時にMBSテレビ放送の日本語講座があり、ソウル滞在中はそれが楽しみだった。勿論、私は韓国語をまなぶのである。
 …日本の冬は雪が多い、東北の仙台は冬、雪が一米も積もって…とやっている。
 三日前、私はその東北のF市からソウルにやってきたばかり、勿論、東北は快晴つづき、気温がプラス三度なのに皆、挨拶に…寒いですね…とやっていたが、ソウルはマイナス十四度、頬をたたかれたようで、唇は無感覚。日陰の路地は青い氷がカチンカチンに凍っていた。
 だが、日本人のように、挨拶言葉に…今日は寒い…なんて言わない。マイナス気温に慣れっこになっているのだ。
 私はテレビの日本語会話で…仙台は冬は雪が一米も積もって…とあったのに驚いた。
 東北は豪雪地帯と理解して、仙台もそんな印象から一米としたのだろう。
 利川への国道は積雪五センチ、友人にタイヤは?と訊ねると…いや!心配ないヨ、と涼しい顔。広洲をすぎたあたりから、かしこで車のスリップ事故、大半の車はノーマルタイヤ、私が乗った車は対抗車がスリップして横向きになった側面に衝突したが、幸い怪我はなく、慌てて、街に入ってタイヤをスノーに取り替えたのだった。

明洞の花売り爺さん

2005年05月18日 16時30分35秒 | Weblog
 あの柔和な顔の善良そのものの爺さんまだ生きているかな?
 十五年前の明洞の繁華街、退湲路に通じる路上に花を売る爺さんがいた。
 それとなく仕草を見ていたら、急に大声でわめきだした。
 何事ならんと見ると、若い娘二人を呼び止めて怒っているのだ。 花の押し売りではない。
 呼びとめられたのは前のNONNOの店から出てきたばかりの二人だった。
 娘逹がティッシュを知らぬ顔して投げすてたのか、そのまま過ぎ去ろうとしたので路上のくしゃくしゃになったかたまりを指差してかんかん顔。
 モラルのなさを嘆いているのだ。
 その路上は明洞でも一番清潔な路で来る度に、誰が掃除するのか塵ひとつない綺麗な路だった。
 退湲は儒聖、李退湲の退湲である。
 年はおそらく七十を越しているだろう。戦争中はさぞ苦労したであろう深い皺がそれを物語っていた。
 この年代は徹底した儒教のモラルをたたき込まれて育った年代だ。 なんたることか、と天を仰いで落胆しながらも、我慢ができずに娘逹を叱りつけたのである。
 どうなるかと見ていたら、さすが韓国女性である。
 年配者の注意を素直にうけ、小さい声で、ミアナムニダ!と言い後へ戻って落としたテッシュを拾い、バッグにいれて立ち去った。 中学の卒業式を終えた子供達が習った教師に校庭に座ったまま一斉に感謝の頭を下げている光景をテレビで見たばかりだった。
 今や韓国でも儒教に厳しい世代からハングル世代と変わりつつあるがモラルはいつの時代でも大切にしなければ、と思った。

犬と蟹

2005年05月18日 11時42分04秒 | Weblog

 犬と蟹

 犬はケーと発音し、蟹はケェと言うが日本人の舌ではこの区分けは難しい。ケーの方は唇を横に大きくのばして発音する。
 韓国人は夏の暑気払いに犬、とくに赤犬を食べる習慣があり、犬は韓国の諺にしばしば出てくる。
 犬にかんする諺。
 …両班は溺れても犬かきはしない。
 …書堂の犬が三年目に詩を朗読する。
 …犬の子のような奴(ケージャンシク ムケセッキ)と言えば人を罵倒する時に使う言葉である。
 ソウルのような高層ビルの林立する街に犬は見掛けないが、田舎へ行くと赤犬逹は広い庭を我が物顔で走り回る。
 しかし農村にも近代化の波がおしよせ、一九七〇年代に全国で始まったセマウル運動で藁葺農家は煉瓦建築に代わり、赤牛だけがのんびり糞だらけの尻尾をふって鳴いている。 韓国の諺には心なごませる表現が多い。
 …婿は百年の客。…婿は半分息子。婿の立場はいずこも同じである。
 …殴る姑より仲裁に入る小姑がもっと憎い。
 韓国には家庭的な行事が多く、例えば命日の前に行う忌祭祀、元旦の節祀、そして時祭三月三日、五月の端午、七月の七夕、秋月、九月の重陽などなど、とくにひどいところ では(チェサ)が毎月にもおよぶ家もあり、その都度、姑と小姑の論争は絶えない。
 まして儒教で凝り固まった祖父さん逹の作法についての論争は毎度のことである。
 …雉の代わりにニワトリ。
 昔、雉は結婚式で新婦が新郎にそれを送る朱子学の伝統からの習慣があったが高価なので今は木雁ですませるようになった。  
 金剛山も食後の眺め。(クムカンサンド シフク ギョン)は花より団子と同じである。 『田舎家』で膳の小皿に二十数種類も並んだ料理を見て、金剛山も食後の眺め、と運んできたアガシに言ったら、カムサムニダと答えてくれた。
 ケェで思い出すのは晋洲のけちんぼ両班が蟹を小皿に並べて食べ図に見ただけでおかずにしたという両班をほ揶揄した話だが次回に譲る。

茶の湯と縮み文化

2005年05月17日 08時13分39秒 | Weblog
 韓国きっての文化論客、李御寧の『縮み志向の日本人』を読み返してみた。
 二十年前にこの著作を読んだ時と今では茶に関しては当時と異なった感慨をもっている。 氏は日本の茶の湯は縮み文化の最たるものとしている。
 申すまでもなく、日本の侘び茶は村田珠光(一四二三~一五〇二)に始まり、武野紹鴎、千利休によって完成された。紹鴎と利休は堺の豪商で、市中の「閑居」を茶室とした。
 さかのぼって『方丈記』(鴨長明)の世俗を離れた閑居を理想とし、禅を背景にした茶の湯のきまりを作った。
 禅の開祖は達磨である。西域から来て梁の武帝と問答して…余の寺院や僧を育成した功徳如何?にたいし、「功徳ナシ!」と返答した達磨は葦舟に乗り、河北に至って崖石に向かい、七年間の座禅をしたが、眠気を防ぐため朦朧となった瞼をえぐって投げ捨て、それが芽を出し、木になったのが茶の木だと言われている。茶の湯も迷妄を覚まし、無心になるせかいを志向している。
 『喫茶養生記』の栄西(一一四一~一二一五)は酒の害から守ろうと、三代将軍、実朝のためにこの著作をしたと言われる。
 茶を喫するのに、日本では狭い茶室や、露地、蹲踞(つくばい)狭い躙口、(にじりぐち)中にはいれば狭い部屋にふさわしい正座をしなければならない。
 李御寧は縮み志向の茶の湯のみならず、昔噺も日本は一寸法師、親指姫のほか、桃太郎、金太郎、牛若丸、は子供、小さな豆を愛した日本人の縮み志向と指摘した。これに対して、韓国では済州島の民話に、風の神、パラマがでてくるが、その放つ矢で三千の兵士が湧くと言う。善聞台のばあさんは巨女で、漢拏山に横になると足が海に届いたという。
 民話で縮みと拡大が比較され、茶の湯では徹底して縮みだが、反対に無心の心のせかいは無限の宇宙にまで広がってゆく。
 狭い茶室にあっても、精神せかいは禅の『空』に広がって、その意味では縮みの拡大とも言える。
 達磨の眼と茶の湯には意味の多い含みがある。
 茶樹はツバキ科の小木である。中国原産の茶は世界中に南方系と北方系に広がってそれぞれチャとティとよばれるようになったが、茶を飲むのにこれほど、作法化され、魂の昇華を意識した国は日本だけであろう。
 縮み文化のなかに大いなる拡大精神を研磨したいものである。
 ちなみに、李御寧が指摘した縮みの啄木の歌。
 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる…。
 東海から蟹と涙の滴まで、の、を重ねて縮ませたと表現したが、じつはこの歌の真意は別の所にあったらしい。
 私は盛岡高校出身の友人から…これは性の歌と聞いたがなるほどと思った。

釜谷陶房の空

2005年05月15日 10時56分59秒 | Weblog
三十八度線から十キロほど手前、楊州郡、長興面、釜谷里の低い丘陵と雑木林に囲まれた広大な敷地に釜谷陶房がある。
 二十五年前の深秋の季節だった。
 ソウルから北へタクシーで約四十分かかるが途中、閔山(ムンサン)街道の分岐点で銃を肩にした兵士にストップをかけられた。ちなみに閔とは寂しい意味、李氏朝鮮王朝の昔、ここらあたりは辺鄙な土地だったのだろう。
 兵士は下手な韓国語をいぶかったが行く先を釜谷陶房の申相浩氏(シンサンホゥ)と告げると、カメラをちらっと見て顎をしゃくった。
 北との軍事緊張が極度に高まった最中で、十数年前には三十八度線に横穴を掘って韓国正規軍にばけた北朝鮮軍がソウル市内の大統領官邸近くまで侵入し、警察署長が殉職した事件も起きた。
 街道の途中、道路をまたいで高さ四米、鉄筋コンクリートの厚さ、三米ほどの橋梁に似た小トンネルがあり、同行した友人の韓君が…北が戦車で侵入したら、壁のボタンひとつで鉄筋コンクリートが瞬時に落下、道路を塞いで戦車の侵入を防ぐのだと言う。
 窯場近くの低い丘陵に迷彩服の兵士が塹壕からずらりと顔をのぞかせていたし、窯場の入り口には部隊名が書かれた営舎もあった。すべて予備役の部隊と言う。
 前夜、たまさか十一時に目覚め、市長舎前の広場を眺めていたら、十二時丁度、あっという間に車も人々の姿も消え、道路のかしこにバリケードがはられ戒厳令の夜間通行禁止が実施されたのだった。勿論毎日がそうなっていた。
 静かに立ち上ぼる窯場の煙のかなた、真っ青の秋空がひろがっていた。
 青よりも黝(くろ)ずんだ濃い青、高度一万米上空でみられる碧空の青、私は空に吸い込まれそうになり、真紅の紅葉がくるくる回って感動の涙が零れた。
 この窯主の申相浩は三島(韓国では粉青プンチョン)博士と言われ、李氏朝鮮王朝の粉青再現では韓国第一の作家だった。
 遠くで韓国鴉の鳴き声がするだけで静寂そのものの工房では十数人の女子工員がカンナで器物の表面を削っていた。
 昨年の秋、百五十一回目の訪韓の時、この街道を通ったら、戦車防御のコンクリート壁は雨漏りで汚れ、ボタンは朽ちはて、横穴塹壕や兵舎の跡形もなく雑草に覆われていた。 周辺の土地の値段は軍事緊張が高まると下落するが、今では街道のかしこに遊園地やキャンプ場、西洋風なレストラン、韓式食堂がたちならび、藁葺き農家は煉瓦の建物と変わった。
 しかしかっての農村風景のひとつである、小屋がけした果物売り場には年老いたハルモニーがのんびり立て膝をかかえて道行く人々を眺めている。

お御興ワッシヨイ

2005年05月15日 09時04分08秒 | Weblog
 友人の文化財委員、A氏といっぱいやったあと、タクシーがなかなかつかまらず、数十台も見送ってやっとコールタクシーが見えたら、A氏がワソ、ワッソと独り言を呟いた。 来た、来た!と言う意味だ。
 すると日本の祭りでお御輿を担いだ若者逹がワッショイ、ワッショイと掛け声だすのも、御輿、つまり神様が来た!来た!と言ってるのだろう。
 重いものを持ち上げる時、セーノ!と声をそろえるのも韓国語のセッ、ネッ!つまり三、四である。
 またハナ!から縁起がいいや!のハナは韓国語の第一、最初の意味である。
 バジ(袴)はいなせな若者のパッチ、東北弁の、んだ!の、だ、は…韓国語の~ですの意味、そして今はなくなったが人力車夫の…アラッ!ヨッ!の返事も…へぇい分かりやした…の韓国語のアラスミダからきている。
 さがせばきりがない。
 デョは…ですよの意味だが~そうでよ。ポルダは儲けるで、ぼったくられるはよく耳にする。チョンガー(総角)は独身男。チッコ、パァクは子供達のギッコバタンだし、蛙のケェコルは中国地方のキァアル。土佐の田舎でテゴ(竹篭)は韓国語のテェゴからきてるのだろう。九州方言の~だタイ(~だよ)も韓国語のタイからきている。東京の奥多摩に住んだことがあるが~そうだけんね…は韓国語ではやはりケンネである。
 言葉の浸透は韓国に近い、中国、九州に多いとおもうが、東北弁にはなぜか濁音が多い。 行く…ゆぐ…岩手…いわで…幹…ミギ…北…きだなどなど、なぜそうなったか分からない。
 たまげるは古韓国語のタマカルが語源と思うがそんな共通語を探がせばきりがない。奈良時代にやってきた、百濟や新羅、あるいは高句麗人の言葉がそのままとけこんだに違いない。
 A氏はかなり日本語をつかいこなすがやはり、語頭の濁音は清音でしか発音できない。 好きなビールはピール、学校はカッコウ、そしてカ行、タ行が語中では濁音になる。九九、八十一はクグとなり、手紙はテカミとなる。
 はじめて日本へ北、A氏は新幹線車中で隣の人に…どこからですか?と訊かれ、
「韓国からです」と言ったつもりがカンゴクからです…になり、隣の人は監獄を出所した人と勘違いして黙ってしまったそうである。
 ワッソ、ワッソから十数分後、酒豪のA氏がふたたび酒…さげと言ったので私達は明洞にくりこんで酒盛りをした。

済州島その3

2005年05月14日 08時49分37秒 | Weblog
 十三世紀まで耽羅と言う独立国だったが高麗末に州に格下げされた。島のいたる所、石垣に囲まれた農家、その石垣も低いし屋根も風の抵抗をさけるためゆるい曲線をしている。反面、観光都市化も進み、道庁、大学、役所、ホテル、商街、レジャー施設もあり、古さと現代が同居してる島である。中央に聳える漢拏山(ハンラサン)は標高千九百五十米、韓国第一の高い山だ。
 李氏朝鮮王朝は朱子学によって所謂士禍闘争を繰り返し、そのため両班や儒者逹が流罪されたのが済州島だった。日本の佐渡のように中央から遠流された宗教家、芸術家、上皇や百人を超す高貴な人々の血脈のせいか、佐渡十万の人口にしめる有名な人々の輩出比率は他県の十倍もあるが、その意味で済州島も優れた人材を多く生み出している。 春、夏、秋、の草花、山鳥、自然の美も韓国第一と言ってよい。
 この稿のその二で述べたように、三姓穴祭祀の春、夏には高、夫、梁一族が集まり儒教礼儀にもとずく大祭がある。これも沖縄の春の節日祭りと同じである。門中一同が集まって墓参りした後、亀甲墓の上の芝生で盛大に泡盛を飲み、三線を鳴らし、てんでに手をふり指笛を鳴らして踊りまくる。
 少し前までは農家で豚を飼うのに、厠の下に豚の養育場所があって糞尿を豚の食べ物とさせるが沖縄でも同じ方法だった。
 琉球王朝、台湾、奄美列島、済州島、あるいは九州まで琉球弧と言って海洋文化圏だから、どちらが先か分からぬが養豚方法は済州島と沖縄はおなじである。
 よく舗装された漢拏山麓道路脇には山ツツジが満開だ。溶岩の山裾の美味しい地下水が海岸の至る所に湧きでている。
 夜、梁さんの天幕(テポチプ…屋台)で真露(焼酎)と焼き鳥(チォク)でいっぱいやった。
「ハングル制定の時、女逹が猛反対したのはほんとうですか?」と訊ねた。
「世宗王(セジョン)の二十八年、『訓民正音』としてハングルは生れたが、王の民百姓 が文字を読めずに自分の意思をよく表せないと言う慈悲から生れたのです…しかし、中 国を宗主国としているので新しい文字を作るのは中国にたいする尊敬を失わせると言う 理由で一部が反対したのヨ」と見事な答えが出た。
 南大門市場のアジェモニーと同じく、息子二人は済州大学、理科大学を出て、ソウルの高等学校で教師をしてると言った。
 実家は南部の西帰浦(ソクィポ)で漁業をしてると言った。
 因みに漢和辞典に耽羅の耽は耳タブ、また、楽しむ、の意味とあり、羅はつらねる、とあるところからこの名前になったと私は勝手な想像をした。


済州島その2

2005年05月13日 09時22分32秒 | Weblog
 どうも三について拘るのだが、三姓穴と言われる神が地中から出現したという場所がある。
 辺りは樹林にかこまれて神聖な雰囲気が漂っていた。
 梨花大学、文学大学、日本語科のM穣と知り合った。ソウル大学卒業の工学士と恋愛したが彼は卒業後、フランスに行ったまま連絡が途絶えたという。
 日本と韓国の比較文化は結構勉強していて、奈良時代の百済文化が日本に影響したもろもろについて詳しい。仏教の経典、仏像、陶磁器、薬品、などなど、だからどうだと言うつもりはないと微笑んだ。
 三姓とは高、梁、夫、を言う。
 ホテルのフロントボーイは権君で茶房のママは朴、ルーム係のアジェモニーはそれぞれ金、方、韓であった。済州島を故郷と言ったのは、金氏、韓氏だったが皆若い人ではたしてそうかどうか…夕方、町の天幕屋台で真露(チョンノ…焼酎)を飲み、プルコギを食べながらママに訊くとまさしく梁順淑(ヤンスンスク)と名乗った。済州島の名門名ですね…と言うと、ネェと胸を張り、毎年、春、夏の祭祀が楽しいヨと言った。
 M嬢はそれぞれ三人の神様は、高乙、良乙、夫乙、(カンウル、ヤンウル、プウル)と教えてくれた。
 日本で強制した姓氏改名で、高本、高木などと改名した在日韓国人はやはり済州島出身だった。
 夫は扶余族の南進した人々ではないかと勝手に想像して、しばらくハンラサンの上にかかる積雲を眺め、李氏朝鮮王朝の十六世紀の初め、済州島の漁民が遭難して琉球王朝の援助で無事済州島へ送り届けられたのを沖縄で聞いたことを思いだした。
 この島の人々は海洋文化とともに生きてきたせいか、とてものどかで明るい性格でトルファルバン像のユーモラスな表情もそんな性格のあらわれと思った。

済州島の二日

2005年05月12日 15時55分58秒 | Weblog
 韓国窯場旅も二十年がすぎて、七年前にやっと済州島の旅を楽しんだ。
 韓国陶芸家の友人、三人ともまだこの島を訪れていない。
 同じ韓国なのにどこかがちょっと違っている。市街の美しい街路樹も丁度、南国高知のように熱帯樹木がならんでいる。
 ミカン畑が山裾にひろがり、民家の石垣には色とりどりの野草がへばりついていた。
 昔からこの島は三多と言われるほど、風、女、石が多く、海岸に沿って走る車の窓からよく舗装された道路はハルラサンから流れでて固まった黒っぽい溶岩石でできていて石にはアバタ状の小さい穴がある。
 農家の藁屋根はかっての日本海漁村のように石が風よけに重しとしてつかわれていて、台風に飛ばされぬよう藁縄の網でしっかり押さえてある。
 李朝時代からこの島の女性は働き者で戸外にその姿を多く見かけるところから三多のひとつになり海女も数万人はいると言う。
 李朝の昔、この島は日本の遠島の刑とおなじように両班逹が左遷、島流しの刑でやってきたので島民は教育熱心で気品ある顔立ちが多い。また三無の島とも言われるのはこの島に、乞食、泥棒が皆無で門がないのだ。
 家の入り口には牧場のように横に丸太がおいてあるだけで三本の横棒も、一本の場合は、家の者が近所に、下の一本がない時は子供逹が近くに、三本ともしまっている時は家の者全員が留守の印となっている。
 過去に外敵に(倭冠など)侵略されため、海上の船に発見されぬよう厨房の煙突はなく、軒下の穴から煙を出す工夫をしている。
 私はトルファルバン(石の爺さん)を見て一人で笑みが零れた。
 疫払いの土俗信仰のシンボル石像だ。顔があばたなのは溶岩石で彫ったのでその表情のとぼけに良く似合っている。鼻が飲んべぇの赤鼻を連想させるほど磨り減って丸くなっているのは、子宝を願う女性逹が鼻を撫でたためだった。
 その他、善聞台(ソンムンデ)のハルマンばあさんの伝承話、風の神、パラマ伝説などこの島ならではの土俗伝承話が多く、戦前、多くの島民逹が関西方面に出稼ぎにきている。 ゴルフ場のフエアウェイのど真ん中に四角く低い石垣があった。
 キャデイに訊くと、墓所と教えてくれた。心地好い風のふきぬける素晴らしい場所で故人が安らかに…との遺族の願いからこんな墓所となったのだ。その真ん中にトンジャーソックと言う、可愛い僧の石象がちょこんと立っているが、なんとも言えないユーモラスの眼だった。
 世界には無数のゴルフ場があるがフェアウェイに墓のあるのは済州島だけである。島民の祖先を尊ぶ精神がそうさせたので、私が途中の墓地で五体倒地の礼をしたら、キャデイにテェダニ、カムサムニダ(たいへんにありがとう)と言われた。