長野オリンピック前年にかけての建設ラッシュの恩恵で、建設業者を中心に
景気のいい人々が大挙して都会から北信濃にもやってきたことがあった。
その方達を主なターゲットとした、フィリピンパブも志賀高原を奥に控えた
中野市で全盛になっていたが、建設ブームが去ると中野市から更に北の飯山市に
一斉に彼女達は移動してきた。理由は不明。
もちろん建設業者が去ったあとでも中野市内の需要が全くなくなったわけではなく、彼女らを追って、多くの顧客が飯山市についてくる。
主たる客層は消防団の若者であったが、堂々とハッピを着ての来店であったので、
倫理観の強い飯山市の方々にとっては、少々問題になった。
(うさぎ追いしかの山~小鮒釣りしかの川)「ふるさと」に謡われた光景が今も広がる飯山市であるが、今はフィリピーナの姿は全くない。
新町通りは飯山では古い雁木が今も残る通りである。
不思議なのは道路幅が広く、広い道路の両脇にも古い家屋が残っているのでことで、すると、道路を拡幅したのはかなり以前のことと考えることができるのだが、
拡幅の際、家屋は曳き屋で移転したのだろうか。
景気のいい人々が大挙して都会から北信濃にもやってきたことがあった。
その方達を主なターゲットとした、フィリピンパブも志賀高原を奥に控えた
中野市で全盛になっていたが、建設ブームが去ると中野市から更に北の飯山市に
一斉に彼女達は移動してきた。理由は不明。
もちろん建設業者が去ったあとでも中野市内の需要が全くなくなったわけではなく、彼女らを追って、多くの顧客が飯山市についてくる。
主たる客層は消防団の若者であったが、堂々とハッピを着ての来店であったので、
倫理観の強い飯山市の方々にとっては、少々問題になった。
(うさぎ追いしかの山~小鮒釣りしかの川)「ふるさと」に謡われた光景が今も広がる飯山市であるが、今はフィリピーナの姿は全くない。
新町通りは飯山では古い雁木が今も残る通りである。
不思議なのは道路幅が広く、広い道路の両脇にも古い家屋が残っているのでことで、すると、道路を拡幅したのはかなり以前のことと考えることができるのだが、
拡幅の際、家屋は曳き屋で移転したのだろうか。