物事の真実は科学で証明された部分と科学で証明できない部分があります。科学がいかに進歩しても証明のできない部分は残り、その大きさは証明された部分よりもはるかに大きいと考えます。ここで証明されない部分は、古代から感覚的に存在すると信じられてきました。この証明されない部分は、信じるか信じないかの世界であり、それぞれの人の心に委ねられた世界でもあります。
人間を考える場合、人間は「自然」に属し、モノとモノでないものからできあがっているといえます。モノの部分は「からだ」と「こころ」です。この「モノ」としての人体に宿って、自分を他のだれともちがうひとりの自己としているモノでないものが「いのち」といってもいいと思います。ここで「こころ」は脳内の物質の作用によって起こるのだということが脳科学で解き明かされるにつれて「モノ」としてとらえるようになってきました。
人間をすべてモノからできているというとらえ方をする人もいますが、私はモノとモノでないものから構成されていると考えます。モノでないものが存在とするという考えは、信じるか信じないかの世界であります。「生きているもの」には「かたち」があります。その「かたち」の背後にあるものが「いのち」ということです。この「いのち」は、想像するしかありません。それをどのように想像するかは、各人、各様にいろいろとイメージすればよいことです。
すべてのモノには「かたち」があります。その「かたち」の背後には「いのち」があるといいました。つまり、地球も、宇宙も、すべてモノからできていますので、その背後には「いのち」があることになります。そして、ブッダが見抜いたように、「いのち」あるものはすべて変化すると説きました。この世界に変化しないものなど、ひとつもないということでしょう。
この「いのち」をどのように想像するかです。モノの背後にある「いのち」は信じるしかありません。それは「かたち」がないからです。そして、一般の人が持っている五感では感知できないからです。「いのち」は万物を作りだすエネルギーの元であると私は考えます。そして、人間が考える「こころ」と一体となって作用するものと考えています。しかも、それぞれのモノが生成と消滅を繰り返しながら、自己成長と自己繁栄をするように機能しているのです。
科学は万能ではありません。科学で解明できないことが沢山あります。科学では解明できない何かを先人たちは感じてそれを言葉にして残したのでしょう。何かウサンクサイと考える人も沢山いるでしょう。だからといって何か未知のものがないとは決していえないと思います。