保育所の待機児童の問題、学校における自殺の問題、学校教育の問題など色々と世の中で問題となり、マスコミで大きく取り上げられているが、自分の事以外は所詮他人事である。自分に降りかかる問題に対しては、何とかしようと行動するが、自分に影響が及ばないと判断した事柄は対岸の事と注意をしなくなる。それぞれの人間が日々しなければならない事柄は余りにも多すぎる。日常の自己に関するしなければならない事柄を思い浮かべてみてほしい。他人にかかわる事柄に対して関心を抱き続けることは不可能である。これが現実である。人間は頭でいろいろと考え、すべてができると錯覚してしまう。毎日の生活でしなければならない事柄を考えてみたらどうだろうか。自己ができる事柄は限られてくるはずである。どのような事が起きようが、自己に関係する、あるいは自己に影響を与えること以外他人事と考えざるを得ないのである。これが人間である。このことを理解して行動すべきと思う。世界における児童の飢餓に対してどれほどの人が関心を抱き続けているのだろうか。
深夜のラジオ放送を聞くことが多くなったが、民放のラジオ放送は馬鹿笑い(意味のない笑い)が多く、公共の電波を利用しているという意識がなく、言葉遣いが汚い。誰でもがラジオ番組に出演できることはよいことであるが、友達同士で話すような汚い言葉を遣うタレントばかりである。話している内容は意味がなく、くだらないことをしゃべり馬鹿笑いをしているに過ぎない。長い時間をかけて創り上げてきた日本の文化を知らない連中が、日本の善き文化を破壊しているとしか思えない。何をしてもよいという世の中が、かえって日本の文化を悪くしている。以前よりも成長しようとする意識のないラジオ番組ばかりである。
ツイッターやヤフーコメント等の意見は意味がない。単なる個人の感情を表現したのに過ぎない。SNSにおける意見は意見にあらず。日本人の特徴として、意見を述べるには論拠を示すべきであるが、全く根拠を示されていないのがほとんどである。そのためその意見は、単なるあなたの感情を示した意見としか言えない。あるいは意見としての価値もない。意見には、その意見に至った論拠を示す必要がある。日本人は論理性がないといわれるゆえんある。このような論拠を示さない意見は、傾聴するに値する価値もない。何故このような感情によるコメントが多いのだろうか。幼少のころから意見を述べるための訓練がなされていないからであろう。また、大学において正式の論文を書かなくても卒業できるという仕組みがあるためだろう。大学教育を受ける素養もない学生を入学させる大学が多いためであろう。大学経営の視点が強調され、大学の経営陣の意見ばかりが教育現場に影響を与えているからであろう。大学経営者の多くは、教育者に値しない人が多い。そのため教育現場は、単に大学経営の視点から大学で学ぶ素養のない学生でも合格させているのが現状である。そのため卒業論文を書かなくても卒業できるというカリキュラムを編成してしまうのである。論理性のある学生が育たないのは当然のこととなる。論文を書けば、それなりの論理性が必要であることがわかるはずである。また、大学で開講する科目のうち、カルチャー性の科目は履修する学生が多く、大学における論理性を学ぶ科目を履修する学生が少なくなっていることも原因といえよう。カルチャー性の科目を履修して卒業できるようになっていることも論理性を身につけるチャンスをなくしている。
日本におけるラジオ番組は、ロックミュージックばかりである。65歳以上の人口が26パーセント占めているにも関わらず、若者向けのロックミュージックが多い。老人にとってやかましすぎることこのうえない。平日の若者が視聴する人は老人よりも少ないはずである。番組を制作するディレクターは、現役世代であり、老人が好む番組はどのようなものか理解できていない。実際に老人にならなければ理解できないはずである。このようなディレクターが番組を作っているのかと思うと残念でならない。もう少し心穏やかな番組を制作してもらいたいものだ。
ポータルサイトのニュース項目を見ると、必ず女優や元女子アナウンサーの妊娠と出産報道がある。芸能ニュースとしてニュース性があると感じているのかもしれないが、誰でも結婚すれば妊娠・出産することは当然のことである。なぜ、女優や元女子アナウンサーの妊娠・結婚をポータルサイトのニュースとして記載するのか疑問である。取り上げるニュース価値があるのだろうか。私は取り上げる価値があるとは思えない。ニュース価値の判断がわからない。