私はヤゴです

水中から地上へそして空中へ飛び立つ人生を

旅 愁

2007-10-30 09:26:04 | weblog
 旅 愁 
 ♪ 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む
   恋しやふるさと なつかし父母 夢路にたどるは 故郷の家路
                            (アメリカ民謡)
明治40年から文部省育唱歌として歌われてきた「旅愁」の一節である。
紅葉盛んな10月28日は長兄が他界してから40年目の命日に当たる。生きていれば84歳になるだろうか。母の20年とあわせて残った三人の姉弟夫婦で伊那の実家に帰り供養してきた。母は貧農の次女として生まれ村内で結婚、83歳の生涯を終えるまで五人の子供の成育に奔走した感がする。戦前戦後を通じ食糧難・生活苦の中にあっても人としての道をはずすことなくしつけ、その成長を見守り続けてきてくれた。そんな母あればこそ苦難を乗り越えてきた現在の自分があると感謝の気持ちとともに孝行出来なかった自分を悔いている。墓参の後、一時幼いころの思い出話に興じ故人を偲んだが、身内の数が少なくなるにつれ故郷との距離がだんだん遠くなる思いがするのはなんとしても寂しい。
先人はそうした思いを希薄にさせないためか、外国の曲に故郷にまつわる詩をつけ、古くから国民的唱歌として歌い継ぎ学ばせてきた。
「故郷の廃家」(アメリカ民謡)「故郷を離るる歌」(ドイツ民謡)「故郷の空」(スコットランド民謡)「望郷の歌」(ドイツ民謡)等々。
時代はすすみ各地で田舎ほど過疎化、後継者問題が生起しているが、祖先や故郷は心の支えとしていつまでも大切にしていきたい。そんな気持ちを強くした今回の帰省だった。

霜降の日

2007-10-24 19:34:18 | weblog
今日10月24日は24節気の「霜降の日」。毎年十三夜とほぼ重なり、夜はめっきり冷え込んで朝霜に要注意の時期となった。先日りんごの葉摘みを終えさつまいもを収穫後、ユキ菜、ホーレンソーを蒔き玉ねぎを植えて冬に備えたが季節の巡り来るのがあまりにも早すぎる。加齢とともに年々そんな思いを実感している。
山笑い(春)山滴る(夏)山粧い(秋)山眠る(冬)そんな山は今が紅葉の真っ盛り鮮やかな錦に彩られ、自然の営みを無言で表現主張しているかのよう。
暑い暑いと言っていたのがつい先頃のこと、高地での初雪や北からの初氷のニュースが伝えられる中、平地の里にも霜注意報が聞かれる晩秋の季節となった。そういえば今年は、イナゴヤバッタ、トンボやハエが、また蛙や蝉が激減してはいなだろうか。例年この時期トンボが竿という竿には必ず何匹かがとまり、空には無数の飛び交う姿があったのにこの光景が全く見られない。なにがそうさせたのか。温暖化による生態系の異変か。一過性のものであってくれればよいが・・・。
秋は気候的にも過し易く作物の収穫や自然からの贈り物も多く好きな季節であるが、なにかもの寂しさを感ずる。それは冬に向かう前の季節であるだけに衰え始めた体力や峠を越えた人生の晩年をイメージした老人特有の悲しい感性によるものだろうか。
一葉落ちて知る秋もこれから一霜ごとに秋冷がすすみ秋冬から厳しい冬に突入していくことになる。こんなサイクルを過去70回も繰り返しているのに人生の進歩がない。今秋(10月28日)は、長兄の没後40年母20年の供養を残った姉弟が実家で行う計画でいる。例年に増して郷愁を憶える秋になりそうだ。

赤福餅

2007-10-22 08:46:34 | weblog
 伊勢名物で抜群の土産品として君臨してきた「赤福餅」。創業300年の歴史に裏打ちされたブランド品で、まろやかな甘味と波形の淡いあんこの色合いは伊勢神宮境内を流れる五十鈴川の清流をイメージしているという。その名前も「赤心慶福」に由来し真からめでたいことを喜ぶことらしい。庶民の味として親しまれてきたこの逸品は皇室にも献上され、お伊勢参りの帰りには定番のように土産として買い求め、またいただいたりもした。
その「赤福」になにがあったのだろうか。こともあろうに数十年間にわたりJAS法に違反して製造月日を偽り、店頭で売れ残ったもち菓子赤福を工場に戻し、冷凍保存して偽装後再び出荷販売(いわゆる「まき直し」)していたというのだから開いた口が塞がらず“「不二家」「白い恋人」に続き赤福お前もか”と言いたくなる。
創業者をはじめ歴代の後継者らがその味や伝統にこだわり営々と築き上げてきた老舗の看板と信用に、全国の消費者は全幅の信頼を寄せて買い求めてきたのである。
そうした背景も理解せず現経営陣には、需要のあるがままに不純な手段を用いて供給を行なって荒稼ぎをし、食の安全を全く無視して消費者を欺き続けてきた背信行為は許せない。こうしてみてくると保存期限の短い食品については、売れ残った品のその後の処分状況をもう少し行政が介入チェックする必要がありそうだ。
この種の問題には常に「内部告発」と「情報公開」が付きまとうが、端緒となった者の犯人探しをせず、製造・販売工程等の情報を公にし、経営体制・体質を変えて出直さなければ赤福の明日はない。

小沢理論

2007-10-19 10:24:39 | weblog
参議院選後にはじめて開かれた今国会では、この11月1日期限切れとなるテロ特措法(テロ対策特別措置法)の延長をめぐって与野党の激しい論戦が行われている。すでに小沢一郎民主党代表は、シーファー駐日米大使に対してテロ特措法の延長に反対する意向を伝え、社民党、国民新党とも同一歩調を確認しているので、この問題に関する限り自民党との妥協の可能性はもはやなくなった。
延長反対の中心となっているのはほかならぬ「小沢理論」である。要約すると氏は
 ・インド洋における海上自衛隊の行う給油活動は憲法違反である。
 ・国連の明示的な決議のない給油活動は許されない。
と主張する。
小沢氏の主張をそのまま矛盾なく解釈すれば、「自衛隊の海外派遣が『武力の行使』であっても、国連安保理決議があれば憲法違反にならない。違憲であるべき武力の行使も国連安保理決議さえあれば許される」ということになる。アフガンではイラク戦争に反対したフランス、ドイツ等多くの国々が「テロとの戦い」のために治安維持の危険な任務についている。日本もその例外ではない。命を賭してインド洋でテロとの戦いを続けている多国籍軍に、憲法の範囲内で給油支援を続けることは、国際貢献の手段としてはベターではないだろうか。
日米同盟を結び日本国と日本国民を守る国益を維持するためには、金さえ出せばそれで済む問題でもない。これからの日本の外交・安保政策は「日米同盟」と「国際協調」双方を重視しながら進むべきで二者択一では安全は保てない。
こうした国連至上主義にはしり国家の主権まで放棄したこの「小沢理論」は、民主党内にさえ反対者がおり、私にはどうしても理解できないし賛成もしかねる。


聖域での蛮行

2007-10-15 08:19:49 | weblog
ボクシングWBCフライ級タイトルマッチ12回戦は10月11日、有明コロシアムで行われ、チャンピオンの内藤大助(宮田ジム)が世界初挑戦の同級14位亀田大毅(協栄ジム)を3:0の判定で下し、今年7月に獲得したタイトルの初防衛に成功した。試合のはじまる前から内藤と亀田一家の言論バトルが繰り広げられ、あたかも遺恨試合の様相を呈していた。内藤は対戦相手に長兄の興毅を指名するやこれを無視されたうえ暴言を浴びせ続けられ、試合前日の会見でも15歳も年下の大毅選手からゴキブリ呼ばわりされたうえ「この試合で負けたら切腹する」とまで啖呵をきられている。口汚く罵ることはマスコミ向けのパフォーマンスとしてはあってもその程度はあまりにもひどかった。
この試合初回から攻勢に出る内藤と守りに入る亀田。回を追うごとにその差は開くのみ。力の差経験の差は致し方なく終わりを待たず勝敗は明らかだった。にもかかわらず亀田陣営は、“勝ちさえすればいい”となりふりかまわずアンフェアーな行動を連発、ついに最終回前代未聞のレスリングまがいの投げ技行動に出る蛮行に及び大きなペナルティーとともに醜く散った。
ボクサーにとってリング内は仕事場であり聖域であるはずだ。ルールの範囲内で死力を尽して戦い握手で別れる。それはファンを感動させる最低の要素でもある。その品格もないまま「勝ちさえすればよい」とする流れは相撲、柔道界にも見られ、企業にも「儲けさえすればよい」政界にも「当選さえすればよい」といった類の風潮があるが、広がらないことを願うのみである。

知床への旅

2007-10-12 10:10:55 | weblog
10月4日から一週間、三家族夫婦6名で知床を中心に北海道・東北をまわり紅葉の進む大自然と秋に接しながら2700㎞に及ぶ自動車での旅を満喫してきた。幸い天候にも恵まれ、初めて足を踏み入れる広大な北の大地北海道。山も海もそしてそこに住む動物達も暖かくわれわれを包み込んでくれ、感動を倍加させてくれた。
小樽運河から旭山動物園を経て目的地知床ウトロに到着したのは午後5時、丁度オホーツク海に沈む真っ赤な夕日が静かな歓迎をしてくれた。当地は平成17年7月世界自然遺産に登録指定されただけあってその自然の雄大さと生の営みには目をみはるものがある。ハマナスはすでに咲き終わり赤い実をつけていた。
翌日紅葉に染まりかけた半島をクルージングで先端まで、まさにここが「地の果て」知床岬だ。わずか17㎞先にはロシア連邦が実効支配している国後島(クナシリ)が伸びてきている。途中ヒグマ、オジロワシ、エゾシカ、海鳥、サケ等々の生態を見るにつけ全て周辺の自然環境にマッチングしている。
以前は一部開拓者による開発も行われたが、作物も育たず人間を寄せ付けない自然の条件は各所に点在する廃屋からもその厳しさが推測できる。知床の稀有な自然環境が現在まで残されてきた陰には、こうした歴史に加えて自然をこよなく愛する地元の思いと保護活動が続けられていることを忘れてはなるまい。
各地で自然豊かな滝や湖、美味しい料理やその地の温かい人情にも接することが出来大満足であったと同時に自然環境の大切さを痛感し、間もなく厳しい冬が訪れる最果ての大地を後にした。

平和記念展

2007-10-10 19:54:40 | weblog
9月22日(土)トイーゴウエスト館で開催されている独立行政法人平和記念事業特別基金主催の「平和記念展」を鑑賞した。この記念展は、戦争の悲惨さや平和の尊さを訴えるため、戦争体験の記憶や各種資料、絵画・写真等を展示し、後世に語り継いでゆこうとする趣旨にある。
先の大戦が終わりを告げて62年が経過し、戦後生まれの世代が全人口の7割を超えている今日、戦争の記憶が薄れ風化しつつあると言われている。この大戦から学びとった多くの教訓を心に刻み、不幸な戦争を再び繰り返さぬよう次の世代に正しく伝えてゆくことは高齢者に課せられた大事な責務でもある。
会場には昭和10年代から軍部の台頭によって中国との武力衝突、北・南部仏印への進攻そして米英独伊への戦線布告等アジア・太平洋での戦線が拡大してゆく様や戦況の悪化に伴い守備隊の玉砕、忍を強いられる国民生活、過酷を極めた抑留生活のありさまが当時の資料、写真、証言等によって克明に客観的な記録として語りかけている。
一口に「戦争」と言っても昔から乱、陣、征伐、合戦、事変、動乱、内戦等その呼び名は異なっても所詮は武力を用いた戦い・殺し合いにほかならない。そのエネルギーや犠牲は計り知れない程大きい割には得るものは少ない。こんな愚かなことを何故人間は国を挙げてまでするのか。戦争に大義や正義などないはずだ。戦争にはけんかと同じ「戦争両成敗」の国際世論が形成されることを強く望みたい。無念の最期を遂げ、多くの帰らざる人々の思いを無にせず、感謝しながら平和の大切さを改めて感じた平和記念展でもあった。

中秋の名月

2007-10-04 03:58:40 | weblog
暑い暑いと挨拶がわりに言っていた昨今、夕闇がせまりふと気がつけば裏の畑の草むらから虫の鳴き声が聞こえ、確実に「今はもう秋・・・」を感じる。笛太鼓や花火の音とともに市内各地では秋祭りや運動会がが行われているが、路地を練る子供みこしの数も少なく今昔の感がする。稲穂がたれ栗が実り萩の咲き出す秋は、本当に過し易く楽しみの多い季節となった。
しかし、ここ一週間政界は大きく揺れ動いている。安倍政権退陣→福田康夫首班指名→福田政権誕生と“一寸先は闇”の世界はさらにこれから論争→解散へと重要問題を抱えながら駒を進めていくこととなる。
 今宵は「中秋の名月」。幸い雲もなく東南の空にくっきりと浮かぶ月。今までこれほどまでにひかり輝いた月を意識してみたことはなかった。中秋とは秋の真ん中、旧暦の秋は7、8、9月でその真ん中8月15日ということになる。先人が作物の収穫期に満月の十五夜や十六夜(いざよい)お月さんにだんごを供えて感謝しながらすすき越にお月見をした風情がしのばれる。
先日9月14日種子島宇宙センターから月探査周回衛星「かぐや」が、この月に向かって打ち上げられた。今回の計画(selene)は、アポロ計画以来最大規模のもので、各国からその活動や情報が注目されている。同衛星は、月表面の元素組成、鉱物組成、地形、地下構造、磁気異常、重力場等の観測を全域にわたって行い、月の起源、進化の解明に迫り、将来月利用の可能性を判断するための重要な情報を収集する任務を帯びている。中秋の名月を見ながらその成功を祈る思いで鑑賞した。

罪該万死

2007-10-03 09:01:26 | weblog
山口県光市の母子殺害事件。殺人などの罪に問われ、最高裁が1、2審の無期懲役判決を破棄した被告(26)の差し戻し控訴審(広島高裁)で、9月20日被害者の夫、母親ら遺族が出廷し意見陳述が行われた。
この事件の公判経過は、1、2審とも事実認定については大した争いはなく推移してきたものが、差し戻し控訴審で大弁護団がついた途端、殺意の否認、家庭環境等での情状酌量要求、精神鑑定要求等死刑を免れるための命ごいの未練ともとれる弁解・反論が執拗に続けられている。この事件の物的・人的証拠がどの程度立証されているか一般国民には全くわからない。報道で断片的に知る限りでは、あがきのような被告人主張、滑稽で創作的な弁護人主張を聞いているとなにか空しさばかりが残る。妻子を殺された遺族の怒りや悲しみは耐えられないものがあり、夫の本村洋さんは「言葉が全く心に入ってこない。ここでの発言が真実ならば、この罪を生涯反省できない君に絶望する。君の犯した罪は万死に値する。」と陳述し、母親も「被告の反省は感じられない。すべて創作の証言で2人がかわいそう。」とその心情を吐露している。全くそのとおりで弁護活動はそんな無節操な非人道的なものであってよいものだろうか。
「万死」とは、1万回死んで償わないといけない位の罪であり、1万回殺しても殺し足りない大罪人を意味する誇張した表現ではあるが、被害者の心情としては痛いほどよくわかる。裁判所は真実や正義が、こんな弁護活動によって捻じ曲げられることのないよう正義を貫いて欲しいし、2人の命を殺めた本件の被告人には極刑をもって償うこと以外に選択の道はない。

(私の不注意からパスワードを忘れてしまい、2週間余り編集画面が表示されない ため投稿をあきらめておりました。
 にもかかわらず毎日私のブログにアクセスしていただいた方々に感謝しておりま す。ありがとうございました。一人でもこうしたファンがいる限り、頑張って投稿を続けて参りますので、今後ともよろしくお願いします。)