昨日、“旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会”の案内でこの遺構を見学した。場所は、明治大学生田キャンパス(理工学部、農学部)内。1937年(昭和12年)に陸軍科学研究所の電波研究の実験場が新宿から移され、その後秘密兵器や謀略戦の研究、開発のため拡充されて、秘密兵器の生産工場も作られた。最盛時は1000人近くの人が働いていたとのこと。毒物、細菌を使う生物化学兵器、紙幣の偽造、風船爆弾、スパイ用具などの研究と生産が行われていた。終戦に伴い、資料類は一切焼却され、働いていた人々は生涯そこで行っていたことは口外しないと告げられ解雇された。その秘密性の故に、軍関係の資料にも一切記載はなく、永年秘密のベールに包まれていた。また、“毒物、細菌を使う生物化学兵器(そして人体実験)、紙幣の偽造”などとイメージがまことに悪いので、何となく抑えられていたのかもしれない。しかし、最近になって少しずつその実態が知られるようになってきている。一方で、大学内の遺構も徐々に取り除かれてきており、市民の会では危機感を感じて保存活動(特に木造建築の保存について)をしている。一旦壊してしまうと、戻しようがない。大学側は、今年中に資料館を作る予定ではある。
一例として風船爆弾の説明(模型も見せてもらった)を紹介すると、何と和紙をこんにゃく糊で何枚も貼り付けて、直径10mの水素ガス充填の風船を作る。和紙などというと、そんなものはすぐ破れてしまうのではないかと思うが、これが意外と強かったらしい。風船の下には、気圧計、砂及び少量の火薬を使った“高度調整装置”が吊り下げられている。風船は高空の偏西風に乗せるのだが、高度が下がると偏西風帯からはずれてついには落下してしまうので、火薬に点火してバラストの砂を落として高度を維持するという理屈である。しかもアメリカ大陸に着いたら(2~3日後)落下させなければならない。或る意味で、これはなかなかのもので、いかにも日本の技術という感じがする。当初、アメリカの牧場に被害を与えるため、牛疫ウィルスを載せることを考えたが、仕返しとして日本の水田に枯葉剤などをまかれることを惧れて取りやめ、焼夷弾や爆弾を搭載したとのこと。約1万発が上げられて、約200~300発が着弾したが、軍事的効果はほぼ零だったようだ。アメリカ側は当初深刻に考えて、徹底的な調査をした。例えば、使われてる砂がどこのものかまで調べて、茨城県、千葉県あたりの海岸の砂だとつきとめたらしい。最終的には、たいしたものではないと判断、日米の対応の差が見えて興味深い。
しかしいずれにしても、科学技術はコインの表と裏のような関係で、平和的な用途にもなれば、軍事目的にも容易に使われる。
会では、毎月第四土曜日に見学会を催しており、戦争遺跡の保存への理解と協力を呼びかけている。
一例として風船爆弾の説明(模型も見せてもらった)を紹介すると、何と和紙をこんにゃく糊で何枚も貼り付けて、直径10mの水素ガス充填の風船を作る。和紙などというと、そんなものはすぐ破れてしまうのではないかと思うが、これが意外と強かったらしい。風船の下には、気圧計、砂及び少量の火薬を使った“高度調整装置”が吊り下げられている。風船は高空の偏西風に乗せるのだが、高度が下がると偏西風帯からはずれてついには落下してしまうので、火薬に点火してバラストの砂を落として高度を維持するという理屈である。しかもアメリカ大陸に着いたら(2~3日後)落下させなければならない。或る意味で、これはなかなかのもので、いかにも日本の技術という感じがする。当初、アメリカの牧場に被害を与えるため、牛疫ウィルスを載せることを考えたが、仕返しとして日本の水田に枯葉剤などをまかれることを惧れて取りやめ、焼夷弾や爆弾を搭載したとのこと。約1万発が上げられて、約200~300発が着弾したが、軍事的効果はほぼ零だったようだ。アメリカ側は当初深刻に考えて、徹底的な調査をした。例えば、使われてる砂がどこのものかまで調べて、茨城県、千葉県あたりの海岸の砂だとつきとめたらしい。最終的には、たいしたものではないと判断、日米の対応の差が見えて興味深い。
しかしいずれにしても、科学技術はコインの表と裏のような関係で、平和的な用途にもなれば、軍事目的にも容易に使われる。
会では、毎月第四土曜日に見学会を催しており、戦争遺跡の保存への理解と協力を呼びかけている。