街道を歩く

日本の街道を歩き、その旅の思いを綴る

平林寺と野火止用水

2007-09-25 18:05:56 | Weblog
広大な武蔵野の雑木林(国の天然記念物)の中にある古刹平林寺を訪ねた。平日もあってか深閑とした雰囲気の中に山門やお堂が静かにたたずんでいる。今も僧房では座禅の修行が行われているようだ。境内はきれいに掃き清められている。またこの側を野火止用水が流れているが、江戸時代の初期に、野火止台地を灌漑するため掘削された。玉川浄水から分水を受けている。この用水路に沿って約15Kmを歩いた。春は梅、桜などいろいろと華やぐことだろう。

日吉の地下壕

2007-09-01 11:59:26 | Weblog
昨日、慶応義塾日吉キャンパス内に保存されている連合艦隊司令部地下壕など、一時帝国海軍が使った施設を「日吉台地下壕保存の会」の案内で見学することができた。恥ずかしながら、何十年も東京に住んでいてこのような戦争遺跡が保存されていることを全く知らなかった。何故大学に軍がやってきたのか?こういう経緯だったらしい。
慶応大学でも1943年末に学徒出陣で多くの学生が戦地に送られたが、明けて1944年3月に海軍軍令部(陸軍で言う参謀本部)の情報部関係が校舎に入ってきた。また同年の9月になると、連合艦隊司令部が学生が使っていた寄宿舎に移動してきた。それまで司令部は旗艦に置かれていたが、艦船が数すくなくなり、ついに岡にあがらざるを得なくなった。日吉台はちょうど霞ヶ関(海軍省)と横須賀鎮守府の中間にある便があり、また大学としてのインフラがそのまま使える、電波の受信がし易いなどの利点があったためとのこと。このキャンパスの下に全長2.6Kmで、厚さ40cmのコンクリートの地下壕が掘られて、そこで執務が行われた。地下壕などは、保存の会と慶大の努力で、大変良く保存されている。短期間で仕上げるため考え出した工法が使われており、いろいろ工夫の跡が伺える。当時まだ珍しかった蛍光灯による照明が使われており、壕内は昼間のように明るかったらしい。レイテ海戦、神風特攻攻撃、硫黄島戦、戦艦大和の沖縄出撃などがここから指揮された。攻撃を受けた大和が傾いてゆく様子が刻一刻と入電し、通信兵は涙ながらに受信したとの生存の方の話しも残っている。谷を挟んだ向かい側の岡にも更に、2.4Kmの地下壕が掘られたが、こちらの方は終戦で使われなかった。日吉一体は、短い間だったが海軍のキャンパスの体をなしていた。この地下壕はまだ一般公開はされていない。保存会の方達が、慶大の了承を得て、月一回希望者に見学会を催したり、小中高校生へ戦争と平和を考えてもらう教材として案内してくださっている。歩行距離約7千歩。(写真は軍令部が入った第一校舎)