ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の大権現

2024-08-26 21:35:53 | 水戸

 権現は、仮(権)に現れるという意味で、仏が神という仮の姿で現れるという、神仏習合思想の、神をあらわす言葉だそうです。明神も、神仏混淆の本地垂迹説で、仏の化身であるとされたそうです。江戸時代は多くの神社には、大権現、大明神という名称がついていたようです。明治になって神仏の分離がおこなわれ、そうした名称は姿を消していったようです。でも、昔から使い慣れていた名称だけに、今でも通称として使われていたり、神額などの形で残っている神社もあるようです。

 

東照宮(宮町2-5-13)
 徳川家康は、東照大権現の神号がつけられたので、家康を祀る東照宮は、神号でも呼ばれていたようです。単に権現さんと、今も親しまれて、呼ばれるようです。

 

愛宕神社(愛宕町10-5)
 拝殿の奥正面に、「旧称 大光院 愛宕大明神」という、比較的新しそうな神額が掛けられていました。神社にも院号があったようにみえます。

 

日吉神社(見和36°22'32.1"N 140°25'40.9"Eあたり)
 かつては日吉山王大権現といわれていたそうです。はじめ、妙雲寺内にあったそうですが、正保年間(1644-48)に、見和が開発されたときに、その地の鎮守になったそうです。明治になって日吉神社と改称したそうですが、今でもお山王様といわれるようです。写真は、拝殿内部に掲げられた神額です。

 

湯殿山大権現(小吹町36°21'00.1"N 140°25'50.1"Eあたり)
 修験道を中心にした山岳信仰の対象である、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つである、湯殿山の名前を冠した神社のようです。湯殿山神社のお札がはられていました。写真は拝殿入り口に掲げられた神額です。

 

御瀧山井戸権現(見川36°21'45.3"N 140°26'18.4"Eあたり)
 井戸そのものか、井戸の神を祀った神社なのでしょうか。井戸といっても横井戸といって、横穴や崖下から湧きでている水源も井戸というようですので、そうした意味を込めた名前なのでしょう。私祭の神社だそうです。鳥居前の石碑には、御瀧山井戸権現と刻まれていましたが、拝殿にある神額(写真)には井戸大権現と記されていました。

水戸の大明神

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ぶらっと歩きの風景in水戸(2-55)

2024-08-25 21:33:31 | 水戸

カマキリの抜け殻(成就院池公園 大塚町)
 カマキリは何回も脱皮をするようですが、はじめて脱皮後の抜け殻を、成就院池公園の遊歩道で見かけました。

 

御鎮座150年(常磐神社 常磐町1-3-1)
 明治6年に常磐神社の名称が勅許され、翌7年(1874)に社殿が建設されたそうです。今年は、それから150年の節目の年のようです。西郷隆盛が下野するときに、常磐神社創建の請願を、高官に託して鹿児島に去ったという逸話もあるそうです。常磐神社は、徳川光圀と斉昭を祀った神社です。

 

ヒポクラテスの木(水戸赤十字病院 三の丸3-12-48)
 医聖といわれた、古代ギリシアのヒポクラテスは、大きなプラタナスの木の下で医学を教えたので、プラタナスをヒポクラテスの木というそうです。ヒポクラテスは、「人生は短く、術の道は長い」という箴言でも有名だそうです。写真は、水戸赤十字病院の正面に、創立100周年を記念して植えられたヒポクラテスの木です。水戸赤十字病院は大正12年(1924)に開院したそうです。

 

楽寿楼(常盤町1-3-3)
 好文亭3Fの楽寿楼に、風輪のような提灯が下げられていました。ほかでも見ましたので、提灯の町・水戸を知ってもらおうという試みの一つなのでしょう。

 

かかし(千波町)
 稲の収穫時期が近づいてきているのでしょう、久しぶりにかかしを見ました。よく見ると、顔は雀除けの鷲のバルーンが使われているように見えました。写真奥には目玉風船という、雀除けもつるされているようです。道向かいの田にもかかしがありました。

ぶらっと歩きの風景in水戸(2-54)

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水戸・好文亭で気がついたこと(3)

2024-08-24 21:34:34 | 水戸

 今回は、好文亭奥殿にある紙張り壁です。好文亭は、戦災と落雷で2回焼失したそうですが、復元されているそうです。たぶん、紙壁も初めからの姿なのでしょう。写真は好文亭奥殿の見取図です。

 

 見てまわった限りを写真のように表示してみました。緑色が紙壁で、茶色が土壁です。部屋の内と外も表示しました。紙壁の場合、周囲に黒い木枠がついていますので、わかりやすいと思いますので、好文亭に行ったときは気をつけて見てみてください。写真のもとになった好文亭の見取図は、好文亭にあったパンフレットのものです。

 

 弘道館にも紙張りの壁があります。3.11で被災して修復したときに、廃棄する古い壁紙をしおりにして記念品として配ったようです。弘道館の紙壁の中には、土壁も板壁もないということでした。確かに、中に何もないからなのでしょう、修復後の地震で、紙壁にしわができている部分もあるようにようにみえます。一方、好文亭は、中に土壁か板壁があるようです。この違いは何なのでしょう。

 

 わびさびを意識した茶室は土壁が多いのでしょうが、武士の部屋は白壁が普通だと思います。それが好文亭では、土壁のままがたくさんあるようで、いかにも斉昭らしいといえそうです。また、漆喰の白壁にしないで、紙壁にしたのは、費用を惜しんだというより、早く仕上げるためというほうが事実に近いのでないかと思うのですがどうでしょう。壁紙の紙漉きを特注するということは、当時としては、決して安いものではなかったのではと思うからです。

 

 梅、竹、清の間は、明治になって移築した部分だそうですが、紙壁なのはそれだけではないので、はじめから奥殿の半分の部屋は紙壁だったのでしょう。菊、桃の間は厨(くりや 台所)だったそうですが、ほかにも土壁の部屋があるので、厨のために土壁だったというわけでもなさそうです。松の間が藩主夫人の間だったようなので、上級者の部屋を白壁のようにしたのでしょうか。

 

 なぜ紙壁なっているのかということについては、2種類の壁の部屋がはっきりと2分されているようなので、それが一番大きなヒントのような気はするのですが…。

水戸・好文亭で気がついたこと(2)

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水戸の紀元二千六百年記念物

2024-08-23 21:20:32 | 水戸

 昭和10年に準備会がつくられ、昭和15年11月に、宮城前広場で国家的イベントである紀元二千六百年祭がもよおされたそうです。神話の神武天皇による建国を、西暦紀元前660年として、昭和15年(1940)が紀元(皇紀 水戸では「皇紀」表示の方が多いようです)2600年になるという解釈のようです。水戸市でもそれに伴い、東湖神社の建設や、郷土先賢烈士の遺跡顕彰、敦賀松原神社に対する造営資金送付、市内各戸での梅樹植栽といった事業計画がたてられ、その外にも、色々な国威発揚をめざす、現在と同様のいろいろな民間による冠事業が行われたようです。そして、この翌年から太平洋戦争が始まりました。
 終戦後、戦勝祝・祈願とか、郷社・村社とかいった表示などは、石碑などの文から削除されたものが多かったようですが、紀元二千六百年という言葉は残されているように見えます。

 

東湖神社(常磐町1-3-1)
 多くの志士が神社に祀られているのに、藤田東湖にはそれがないということもあったようで、公金を使わないで多くの人々の喜捨で建てようという趣旨のもとに、常磐神社境内の、鎮霊社(桜山に移って護国神社)跡の現在地に、昭和18年に建てられたそうです。

 

神崎寺(天王町8-17)
 時の知事・吉永時次の書による、桜を記念植樹したとも刻した石碑が、神崎寺本堂裏手あたりにあります。

 

村社鹿島神社碑裏(中河内町95)
 村社鹿島神社と刻まれて、社前に建てられた石碑の裏側には、皇紀二千六百年記念いう文字と奉納者名が刻まれています。ここでは「村社」の文字が再表示されたようです。

 

香取八幡宮鳥居(川又町561)
 皇紀二千六百年という文字が裏側に刻まれた鳥居がありました。

 

俊澄寺(しゅんちょうじ 元三大師)石灯籠(赤塚1-1965-2)
 表には、「奉元三大師」とあり、裏には、「紀元二千六百年建之」の文字と奉納者名が刻まれていました。すでに80年以上たっているわけです。

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水戸の庚申塔(9)

2024-08-22 21:38:09 | 水戸

  建立年の分かる庚申塔のいくつかです。

 

庚申供(酒門町36°21'17.1"N 140°29'40.7"Eあたり)
 安永4年(1775)とあります。6代治保(はるもり)の時代です。安永4年には、水戸八幡宮の拝殿が手狭になったために再建されたそうです。ここの石造物群は3基くらいあって庚申塔は左側ですが、それぞれそうとう劣化が進んでしまっているようです。供養塔の「供」までしか見えませんでした。

 

庚申供養塔(下国井町36°25'22.9"N 140°26'03.4"Eあたり)
 天保6年(1835)とあります。9代斉昭の時代です。この年に斉昭は、茶の栽培をすすめるために、宇治から茶師の小川佐助を呼び、御茶園を開いたそうです。県道102号線脇の常磐自動車道トンネル入り口付近にあります。「水戸の石仏」では、左下の文字を「下国井乙」とありますが、「下国井建」のように見えます。

 

庚申供養塔(魂崎(たまさき)稲荷大明神 36°20'46.4"N 140°31'31.0"Eあたり)
 安政7年(1860)とあります。これ以下の3基は、この年が庚申なのでたくさん建てられたのでしょう、同じ1860年の建立です。ただし、3月に万延と元号が改まっていますので、年号は2種類あります。この供養塔の下段には、4つの坪名と、連中という文字が刻まれています。

 

庚申塚(仏性寺 栗崎町1984)
 安政7年(1860)。山門近くにある庚申塚です。この年の3月には桜田門事件が起こったそうですが、この事件は、安政が万延に変わる改元の一因にもなったそうです。幕末動乱が本格的に始まったともいえる年のようで、まさに政治的変革が起きるという庚申の年になったようです。

 

十二所神社(塩崎町2323)
 万延1年(1860)10月とあります。天狗党が筑波山に挙兵し、その後の流れから大発勢があり、それが幕府との衝突をもたらしたということで、水戸藩の名代で大発勢を率いた支藩宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、幕府側の命で切腹させられたという月であるようです。どんなうわさ話を聞きながら、講中の人たちはこの碑を建てたのでしょう。

水戸の庚申塔(8)

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