天保7年(1836)正月、徳川斉昭は、江戸城での年頭儀礼に参加しないばかりか、3が日が過ぎても姿を見せないので、執政が挨拶に行くと、隠居したいが、もしお前たちが前非を認め改革の申請に協力するなら考え直すと、財政改革案の承認を命じたそうです。これは、藤田東湖の書翰によって、藤田の仕組んだものだったことが分かるそうです。上の写真は、水戸市立博物館で見た晩年の斉昭像だそうです。何枚かある同様の構図による肖像の一つだそうです。
斉昭は、謹慎解除となった弘化2年(1845)に、明訓一班抄を老中・阿部正弘に贈ったそうです。7条からなる、君主の心得を説いた書で、仁政を旨とし、言路を開き、攘夷を励行すべきであるなどといったことが書かれているそうです。阿部は将軍・家慶に献じたそうです。明訓は明君の意味をかけているのでしょうか。
斉昭は、ペリー来航(嘉永6年(1853))への対応策を、藤田東湖に書翰で送っているそうです。それには、仕掛けをした屋敷に入れてしまえば焼き殺せるのではないかとか、江戸城内の大広間で上官らに酒をたっぷりと飲ませて頭をはね-、などといった過激なことを書いているそうです。
攘夷派の斉昭は、蘭学などの洋学に関して、自身たいへん興味を持って調べたり、限られた人たちが研究などすることには寛容だったようです。ただ、豊田天功が弘道館での蘭学授業を提案したときなどは、もってのほかのことと却下したそうです。西洋の思想、知識が一般に広がることをよしとしなかったようです。
病気であることを知ると、自藩士ばかりでなく他藩士にまで見舞い状をだし、それに添えて薬を送ったりもしたそうです。勘定奉行の川瀬七郎衛門が、舌にでき物ができる、舌疽(ぜっそ)にかかったときには、難病だが藩医・本間玄調に診てもらうように、治療費は用立てる、と見舞い状に書いているそうです。舌ガンだったのかも知れませんが、川瀬は手遅れだったようで死亡したそうです。