ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の書道パフォーマンス作品(2)

2024-02-24 21:38:24 | 水戸

 いろいろな書道の形があるようです。どれもぶらっと歩きで見た、去年の写真です。

 

下市タウンフェスティバル(本町)
 去年おこなわれた下市タウンフェスティバルのイベントに、茨城交通のバスをキャンバスにした落書きがありました。絵だけでなく字もいろいろ書かれているようでした。落書きも立派な書のように見えます。(撮影 R5/3)

 

京成百貨店前(泉町1-6-1)
 書道甲子園の常連らしい、葵稜(きりょう)高校の、日本の四季という書道パフォーマンスが、水戸市民会館オープンのときに、京成百貨店の前でおこなわれていました。(撮影 R5/7)

 

水戸市民会館1F(泉町1-7-1)
 水戸二高の書道部も書道パフォーマンスをしているようで、その様子を市民会館で見ました。(撮影 R5/7)

 

芸術館通り(36°22'47.2"N 140°27'53.1"Eあたり)
 あおぞらクラフトいち開催日に、書道家・笹島沙恵による、「守破離」という3文字を書きこむ書道パフォーマンスがおこなわれていました。ミトリオを貫いている芸術館通りは、今後のことを考えると、車の通行をやめた方がいいように感じませんか。(撮影 R5/10)

 

芸術館通り(36°22'47.0"N 140°27'54.0"Eあたり)
 Mitorioフェスティバルで、みちばた書道がおこなわれていました。たくさんの人たちが参加していたようです。(撮影 R5/11)

水戸の書道パフォーマンス作品(1)

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徳川光圀の話あれこれ(16)

2024-02-23 21:05:12 | 水戸

 水戸光圀に関する話をまとめたものはたくさんあるようですが、今回は、立原翠軒(たちはらすいけん)が、光圀没後の後世に補遺としてまとめた、「西山遺聞」にあるものからそれをいくつかひろってみました。

 

 光圀が生まれた三木之次(ゆきつぐ)屋敷は、それ以前は芦沢信重の屋敷で、それ以後は中御殿となり、今は、黄門神社や鉄道敷地や道路になっているようです。屋敷内に光圀の胞衣(えな)が竹を結い回して埋められていたそうです。屋敷地が鉄道用地になったために、今は西山荘に移されているそうです。現在ある黄門神社は、鉄道敷地から少し北の地にありますので、胞衣を埋めた地はもっと南にあったのでしょうか。上は、ずいぶん前に撮った常陸太田市にある光圀隠居地である西山荘(せいざんそう)の光圀胞衣塚写真です。

 

 光圀は若い頃、三味線をひくことが好きだったようです。三味線をひくのは、歌舞伎者などのいかがわしい者のすることであって、上に立つもののするものではないといったことを、小野諌草(おのいさめぐさ)で光圀のお守り役であった小野言員(ときかず)が書いているそうです。少し前ならエレキギターを弾いたといったところなのでしょう。写真は、以前茨城県立歴史館で見た三味線演奏風景です。

 

 延宝4年(1767)の干魃(かんばつ)の時には、自身の衣食を半減させ、酒も昼は飲まず、領内の酒屋の醸造も半減させたそうです。武士の音信や贈答等も禁じて、監視をさせたそうです。作柄が平年にもどると禁をゆるめたそうです。

 

 大日本史の編纂過程で、源義経が急坂を馬で駆け下りたという鵯越(ひよどりごえ)の話をいつわりだろうとしたり、義経が海に落とした弓を熊手でかき寄せたという弓流しを、大将が大功を建てることに対して小節のこと、と批判したりしたそうです。ただ、大日本史には、従来通りに記述されていて、そうした批判は記載されていないようです。写真は、弘道館に展示された大日本史です。

 

 松を植える時に、作り松を好まず、直にのびるものをわざわざためることは仁心ではないといっていたそうです。盆栽などのように、枝や幹に手を加えて、故意に曲げたりすることをきらったのでしょう。

徳川光圀の話あれこれ(15)

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水戸にあるウロのある木(7)

2024-02-22 21:23:08 | 水戸

 木のウロは、自然界ではいろいろな生き物に利用されているようです。フクロウやシジュウカラなどの鳥類や、テンやムササビのような哺乳類、スズメバチ、クワガタムシなど昆虫の巣になったり、ウロをつくるキノコや微生物の生育地になったりしているようです。そして、地表近くにあるウロは、子供たちの隠れ家にもなるようです。

 

サルスベリ(弘道館 三の丸1-6-29)
 弘道館の裏庭にあるサルスベリです。木の中心部はなくなっていて、そこに新しい幹が育っているようです。よく見ると、どちらからも枝が伸びているようです。

 

シイ(三の丸小学校 三の丸1-6-51)
 見たところ、大小の枝が切られて、その部分にウロができているようです。枝を切ったところは、そこを守るために樹皮周辺の生きている細胞が増殖して傷をおおうのだそうで、その結果、ふくれたような姿になるのだそうです。弘道館の対試場方向から撮った写真です。

 

コブシ(徳川ミュージアム 見川1-1215-1)
 このコブシも、写真左側の枝が枯れたか伐採されたようで、その中心部がそうとう下の方まで腐ってなくなってしまい、ウロができているようです。

 

サクラ(真仏寺 飯富町3427)
 古木のサクラの木ですが、地表付近の幹はそうとうえぐれているようです。参道にかかっているようなので、開花の時期はきれいなことでしょう。参道向かい側には、親鸞お手植えという、多分何代目かのボダイジュがあります。

 

グミ(北柵御門脇土塁 三の丸36°22'36.7"N 140°28'36.3"Eあたり)
 この木も地表部分がウロになっています。水戸城の土塁の上に生えていますので、そう古い木ではないのでしょうが、現在だいぶ大きくなってきていて、4月には白い花をびっしりと咲かせてきれいです。

水戸にあるウロのある木(6)

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水戸の人々

2024-02-21 21:24:29 | 水戸

薗部(そのべ)重裕
 岩根の代々続いた庄屋の家で、さらに庄屋の中から任命された周辺15村を取り扱う山横目(やまよこめ)にもなったそうです。かつて薗部家に徳川光圀が鷹狩りの際に立ち寄り、邸を雀躍亭(じゃくやくてい)と名づけたそうです。後の重裕時代に、藤田東湖も訪れて、詩などを残したそうです。斉昭蟄居の時には雪冤(せつえん 無実を明らかにすること)運動に身を投じたりし、元治甲子の乱(天狗党の乱)では、村外へ数年間身を隠していたそうです。水戸藩時代には藩校・時雍館(じようかん)の設置や、植林事業などに尽力したそうです。維新後は、8カ村を扱う戸長(今の町村長)になったそうです。写真は、現在、水戸史飯富市民センター(飯富町4449-8)に置かれている、かつて雀躍亭にあった、水戸藩4代宗堯(むねたか)の腰かけ石だそうです。

 

高野市太郎
 島田町に生まれ、日露戦争に従軍して帰国した後、植林報国、国土緑化を祈願し、約40年間にわたって、地元の香取神社のみならず、全国の著名な寺社、学校、役場等98ヶ所に10万本の献木をおこなったそうです。昭和34年の国土緑化運動10周年に、その功績が表彰されたそうです。顕彰碑(写真)が香取神社前にある島田町集落センター(島田町2040)敷地内に建てられています。

 

高倉隆文
 昭和20年の戦災で死亡した、旧・奈良屋町に疎開してきていた3家族14人を供養した親子地蔵が現地に建立されたそうですが、その地に建物を建てることになり、円通寺の住職・高倉が同情して寺に引き取って安置したそうです。(今は泉神社(宮町3-1-15)境内に戻ってきているようです) 昭和41年開通の千波大橋は、高倉が地元代議士に強く働きかけしたことなどによって実現したそうです。また、自身で詩集を出したりする文化人でもあったそうです。写真は円通寺本堂です。

 

大塚子之吉(ねのきち)
 柵町で料亭、結婚式場を経営していたそうです。ある時、梶山季之を西山荘に案内したときに、風呂も台所もないが仕出し屋から食事をとったのか聞かれたそうです。それがきっかけで、徳川光圀の食について調べだして、「日乗上人日記」、「舜水朱氏談綺(しゅんすいしゅしだんき)」、「食菜録」などの歴史史料をもとに、光圀の食事を復元させたそうです。それが現在水戸で体験することができる黄門料理の源だそうです。護国神社にあるフクロウの灯籠は大塚の住まいにあったものだそうです。写真は以前、常陸太田市郷土資料館で見た「日乗上人日記」です。

 

永井道明
 下市(しもいち)蔵前に生まれ、東京高等師範学校を卒業し、姫路中学校長を務めたりしたそうです。第二次大戦中は、国民体操・大日本体操などの作成に努力し、日本の学校体操の父と呼ばれたそうです。昭和38年に文部省から海外体育事情調査を命ぜられ、ボストン、ストックホルムなどで、主としてスウェーデン体操を研修したそうです。

 

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水戸の庭池(3)

2024-02-20 21:03:38 | 水戸

塙(はなわ)不動尊(飯富町36°26'20.4"N 140°24'21.8"Eあたり)
 飯富町の高台から、藤井川方面に下りる崖の途中にある、塙不動尊の御手水池(みたらしいけ)です。竹の落ち葉が周囲一面をおおっていました。崖の地層がきれいに露出していて、地質好きの人にはうれしい場所でしょう。塙は、飯富(いいとみ)町の小字名でもあるようですが、「小高い所」という意味があるようです。(撮影 R5/5)

 

偕楽園南崖下(常盤町1-3-3)
 徳川斉昭は、借景である千波湖を庭の池と見立てて、偕楽園内には池を作らなかったようです。大名庭園としてはきわめて珍しいスタイルだそうです。偕楽園創建時の絵図(好文亭四季模様之図)には、たしかに池らしいものは見あたらないようです。写真・南崖下の池は、吐玉泉(とぎょくせん)から流れる水などを流し、南門から桜川に向かう、舟路として使われた小川の跡なのでしょうか。現在は、梅まつりで、雛(ひな)流しがおこなわれたりするようです。(撮影 R5/8)

 

もみじ谷(見川6°22'24.6"N 140°26'52.8"Eあたり)
 もみじ谷奥にある崖からの湧水が流れこんでいる池のようです。湧水の流れのあたりではホタルが見られるようです。また、秋の紅葉は池をいっそうきれいに見せてくれるようです。(撮影 R5/11)

 

八幡池緑地(八幡町36°23'12.8"N 140°27'43.2"Eあたり)
 水戸八幡宮、那珂川側の崖下にある神明水という湧水を水源にした池のようです。今も相当量の水が湧き出しているように見えます。この崖は数キロにわたって続き何ヶ所も名前のついた湧水が見られます。(撮影 R5/12)

 

茨城県立歴史館(緑町2-1-15)
 本館、講堂、一橋徳川家記念室に三方囲まれた場所にある庭に、広くつくられた池のようです。中央に石が組んであって、噴水がでています。(撮影 R6/2)

水戸の庭池(2)

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