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徳川光圀の話あれこれ(16)

2024-02-23 21:05:12 | 水戸

 水戸光圀に関する話をまとめたものはたくさんあるようですが、今回は、立原翠軒(たちはらすいけん)が、光圀没後の後世に補遺としてまとめた、「西山遺聞」にあるものからそれをいくつかひろってみました。

 

 光圀が生まれた三木之次(ゆきつぐ)屋敷は、それ以前は芦沢信重の屋敷で、それ以後は中御殿となり、今は、黄門神社や鉄道敷地や道路になっているようです。屋敷内に光圀の胞衣(えな)が竹を結い回して埋められていたそうです。屋敷地が鉄道用地になったために、今は西山荘に移されているそうです。現在ある黄門神社は、鉄道敷地から少し北の地にありますので、胞衣を埋めた地はもっと南にあったのでしょうか。上は、ずいぶん前に撮った常陸太田市にある光圀隠居地である西山荘(せいざんそう)の光圀胞衣塚写真です。

 

 光圀は若い頃、三味線をひくことが好きだったようです。三味線をひくのは、歌舞伎者などのいかがわしい者のすることであって、上に立つもののするものではないといったことを、小野諌草(おのいさめぐさ)で光圀のお守り役であった小野言員(ときかず)が書いているそうです。少し前ならエレキギターを弾いたといったところなのでしょう。写真は、以前茨城県立歴史館で見た三味線演奏風景です。

 

 延宝4年(1767)の干魃(かんばつ)の時には、自身の衣食を半減させ、酒も昼は飲まず、領内の酒屋の醸造も半減させたそうです。武士の音信や贈答等も禁じて、監視をさせたそうです。作柄が平年にもどると禁をゆるめたそうです。

 

 大日本史の編纂過程で、源義経が急坂を馬で駆け下りたという鵯越(ひよどりごえ)の話をいつわりだろうとしたり、義経が海に落とした弓を熊手でかき寄せたという弓流しを、大将が大功を建てることに対して小節のこと、と批判したりしたそうです。ただ、大日本史には、従来通りに記述されていて、そうした批判は記載されていないようです。写真は、弘道館に展示された大日本史です。

 

 松を植える時に、作り松を好まず、直にのびるものをわざわざためることは仁心ではないといっていたそうです。盆栽などのように、枝や幹に手を加えて、故意に曲げたりすることをきらったのでしょう。

徳川光圀の話あれこれ(15)

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