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水戸・千波湖の話題(2)

2021-03-17 21:02:44 | 水戸

千波湖八景(千波八景)
 徳川光圀が選んだという、千波湖周辺の佳景を選んだ「千波湖八景」があります。当時千波湖は、今の西岸あたりから、竃(かまど)神社(本町1-2-6)脇を流れる備前堀あたりまでの大きさだったので、今の感覚で八景を見ると多少違和感があります。「柳堤夜雨(りゅうていやう 水戸城南崖下にあった、千波湖中に埋め立てで築いた道)、神崎寺晩鐘(かみさきじばんしょう 神崎寺はだいたい今の地のようです)、葑田落雁(やぶたらくがん 場所はよく分からないようです)、藤柄晴嵐(ふじがらせいらん 吉田神社の東側あたり)、下谷帰帆(したやきはん 旧奈良屋町あたり)、梅戸夕照(うめとゆうしょう 備前町か梅香あたりの高台のようです)、七面山秋月(しちめんざんしゅうげつ 好文亭あたりの高台のようです)、緑岡暮雪(みどりおかぼせつ 光圀の別荘・高枕亭があった今の徳川ミュージアムのある高台)」(括弧内は読み方と場所の説明です。)写真は、好文亭を仰ぎ見たところですが、好文亭以前に、光圀の妹・菊姫のために死後に建てられた七面堂があったので、現在の偕楽園一帯は七面山といわれたそうです。

 

千波湖の呼び方
 仙波浦、仙波池、仙波湖、仙波沼、千波沼、千波池、千波川、千湖などともいわれたそうです。徳川斉昭の選んだという水戸八景の一つに「僊湖暮雪(せんこぼせつ)」があり、千波湖を僊湖といっています。写真は偕楽園にある僊湖暮雪碑です。

 

産物
 江戸時代は水戸城防備の関係から、千波湖に入ることは原則的に禁止されていたそうです。解禁されたのは明治以降だそうで、カワエビ、ウナギ、ドジョウ、ジュンサイなどの産地になったそうです。写真は、千波大橋から見た千波湖です。写真下は、水質保全のための工事のようです。

 

小作争議
 昭和7年までに干拓されてできた新田は、県外の会社が所有して地元農家による小作が行われたそうです。小作契約は1年、小作料は前納の金納だったそうです。所有会社が変わったり、天候不良などもあって、何度も小作争議がおき、大変不安定な状況が続いたそうです。

 

干拓(2)
 戦後、食糧難がひどかったため、現在の千波湖全体が干拓されて水田になったそうです。昭和22年から25年までですが、昭和23年は、希望者が多くて一人当たり1反歩にも満たない面積だったそうです。収穫が終わると再び水がいれたれたそうで、偕楽園観梅の妨げにはならなかったようですが、農家のとってはぬかるみのひどい、大変難儀な田んぼだったことでしょう。写真は、水戸市立図書館にあった、干拓の様子です。

水戸・千波湖の話題(1)


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